書き過ぎて、書きすぎて、軽視されがち。

エリー.ファー

書き過ぎて、書きすぎて、軽視されがち。

 呪いとは何かについて考えた時、そこには妄想がついて回ることになる。

 例えば、願いも呪いの一部として考えることができる。逆に言えば、呪いも願いの一部なのである。

 つまり、幸福か不幸かというのは主観的な要素であり、客観性を伴った事実や現実からはほど遠いと言えるのである。

 何かの存在にかかっている、状態、もしくは、それそのものを呪いや願いと言うのであれば、より理解のしやすいものとなる。

 私たち人間が作り出した要素は、私たちの視点では非常に分かりにくく、私たちの上位存在の視点によってでしか理解のできないレベルに達している。つまるところ、私たちは、私たちの手で抱えきれない何かを生み出すことで、その能力の高さを証明している。

 ここに、AIにまつわる問題の本質がある。

 私たちは、私たちでは到達できない地点を見つけ、肉体を放置し、魂だけで到着してしまったのだ。今更、肉体を持ち込むことはできず、魂だけで問題解決に乗り出せるようにと工夫をしてしまう。

 極めつけは、その手間は核心をつき、一応の結論を生み出してしまった。

 いずれ、私たちは、自分が信じていたものが壊れていく姿を確認するだろう。多くの人は、快感と共に理解し、また新しい何かを探しに行くはずだ。好奇心は往々にして人間を育て、また、無気力であることを罪深いと指摘する。成長は約束されたが、文明も文化も知識も思想も哲学も穴だらけのまま進んでしまう。いつしか、問題が表面化した時に、過去に戻りたいと思うが、願うわけもなく、応急処置を繰り返すしかない。

 客観的な問題には、主観的な解決策が特効薬となる。

 主観的な問題には、客観的な解決策が特効薬となる。

 しかし。

 そのどちらにも副作用があり、悲劇は数年後に起きることが確約される。

 背伸びをする、という表現が最も分かりやすいと言える。

 本質からは程遠いのだ。

 呪いと願いが現実に与える影響は非常に些末である。元々、起きていたはずの事象に余計な意味づけをして、分析という行為を邪魔するだけでしかない。しかし、冷静な分析ができない人間たちにとっては、非常に好都合な要素であると言える。呪われていたから失敗した、願っていたから上手くいった、望んでいたので神様が叶えてくれた、という結論は思考を自動的に止めてくれるのだ。思考する要素がないという暗示を自らにかけることは、非常に重要である。

 体の良い言い訳。

 欠点を覆い隠すための暗幕。

 説明不可能という鉄壁の防御。

 この発言は、呪いにかかってしまえと願われる可能性、を高めているかもしれない。

 私は、誰かを呪うことも、願うこともなく、ただ、思考を巡らせる。





「博士」

「何かな」

「大丈夫ですか」

「何がだ」

「あんなことを言って、色々、攻撃されるかもしれませんよ。呪いなんて、どうしようもないとか、願った所で無意味だ、みたいな発言は、多くの人を刺激しちゃいますから」

「現実的ではないが、解釈を手助けする要素として一級品であることは間違いないとは思っているよ」

「博士がそう思っていても、他の人たちがどう思っているかが重要だということですよ」

「私は私の無事を願っているし、私は私を邪魔する者たちを呪っているよ」

「あ、えぇと、そうなんですか。なんか意外です。博士も、信じたりするんですね」

「もちろん。願う時も、呪う時も、神に祈るようにしているよ」

「へぇ、そうなんですね」

「私こそが、神だからね」

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