第6話
小学四年生の時、あの事件が起きた。
俺が地元のサッカークラブの練習から帰ってきた時に、母さんが言った。
「大翔、お風呂、先に入りなさい。それと、お風呂から出たら、大事な話があるから」
「あ、うん、分かった」
大事な話ってなんだろうとは思ったけれども、それ以上のことを考えることもなく、風呂に入った。
風呂から出ると、母さんと父さんがテーブルに紙切れを一枚広げたまま、椅子に座っている。二人ともその表情が暗い。
「大翔、こっちにおいで」
暗い表情をしているけれども、母さんは笑顔で俺を呼び寄せた。どうやら、母さんは俺を自分の膝に乗せて座らせたいらしい。俺は小学四年生にもなって恥ずかしいなと思ったけれども、母さんの目がなんとなく今にも泣きそうな感じだったから、母さんの言うとおりにした。
「大翔は本当に可愛いね」
母さんは俺を自分の膝に乗せながら、俺の頭をいい子いい子と撫でてくる。
「母さん、恥ずかしいよ」
俺は母さんの顔を見て言った。きっと真っ赤な顔をしていたかもしれない。母さんは恥ずかしがる俺を優しく見てくれる。母さんの顔は、少し痩せこけているから、目が大きく見える。母さんの黒い瞳はいつも優しかった。母さんの向かい側に座る父さんの方から泣く声が聞こえる。
「あのね、大翔。母さん、ちょっと大きな病気をしちゃってるんだって。だからね、しばらく入院することになったの」
母さんが俺の背中を優しくさする。俺は思ったことを口にしていた。
「母さん、治るの?」
俺の言葉で母さんは俺を強く抱きしめた。
「うん、母さん、ちゃんと治してくるよ!」
この時、母さんがどんな気持ちで言ったのかを今では聞くことができない。父さんの涙が止まらなかったのははっきりと覚えている。
「大翔」
母さんがさらに力を込めて抱き締める。
「大好きよ、ずっと……これからも……」
俺は初めて「嗚咽」というものを知った。俺の肩が濡れる。それは、母さんの涙だった。
それからすぐに、母さんは入院した。大きな病院に入院するのは初めてで、母さんの入院するところは「女性病棟」と書いてあった。
俺と父さんは、入院した母さんのお見舞いに毎日通った。母さんは「毎日来るのは負担になるんじゃないかしら」「無理はしないでね」「母さんは大丈夫だから」と言っていた。
お見舞いに行くと母さんはいつも俺たちに優しく笑いかけてくれるから、それがただ嬉しかった。
父さんも母さんも俺には詳しくは言わなかった。でも、俺は気づいていた。
母さんの病気は治らないということを。
俺にできることは何も無かった。俺は無力だった。
父さんが仕事で忙しいから、俺はじいちゃんとばあちゃんの家で生活する事になったけど、じいちゃんの家は少し遠くて、学校を変えなくちゃいけない。だから、二学期が終わる時までは、ばあちゃんに今の家に来てもらって、三学期からは転校することになった。
クラスの担任の先生には、父さんから事情を説明された。後日、俺は先生から呼び出されて、先生は涙をポロリと溢して、「転校しても私の生徒であることには変わりはないからね」と言っていた。先生の涙を見て、涙の出ない自分が変なのかなと思った。
しばらくして、同じクラスの皆にも転校の話を先生からしてもらった。もちろん、母さんの話は皆にはしていない。皆は、俺が転校することを淋しがってくれたのに、俺は何も思えなかった。
いつの日だったかは忘れたけど、昼休み後の掃除の時間に一人の女子に声を掛けられた。
「渡辺くん、無理してない?」
箒でごみを集めている同じクラスの相沢だった。俺は雑巾を絞りながら答えたと思う。
「……別に」
「そっか」
俺の答えに対して、相沢はそれだけしか答えなかった。
「なんでそんなこと聞くの?」
俺が相沢に聞くと、彼女は少し黙ってから答えた。
「みんなと話してる時、なんとなく無理して笑ってる気がしたから」
「無理してないから、大丈夫だよ」
俺が言うと、相沢は「そっか」とまた言った。よく見てるやつだなと俺は思った。
この間、行われたサッカーの試合の時もそうだった。試合には勝ったけれども、俺はその試合にケガで出れなかった。勝ったことを喜んでいたけれど、本当は出られなくて悔しかった。相沢には「なんか、無理して喜んでいる気がした」と言われて焦った。それと同時に、自分の気持ちに気付いてもらったことに何か温かい物を感じもした。
どうして相沢だけは俺の気持ちが分かってしまうのだろう。
終業式の日は午前中に帰ることができる。
通知表をもらうためだけに学校に行くことに、面倒くささを感じていた。
昨日、母さんが抗がん剤の影響で一日中、苦しそうにしていた。母さんの傍にいても、俺には何もできないけれども、それでも母さんの傍にいたかった。母さんの体調がもっと悪くなるかもしれないと不安だった。
午前八時五十分から始まる終業式が終ると、俺は皆から色紙をもらったのに、何も感じなかった。
下校時間を過ぎても何となく教室に居続けた。仲の良い友達も何人か残っていた。
母さんの病気を知ってから、俺の心はどうしてこんなに動かないんだろう。
「大翔、帰ろうぜ」
「おう」
俺達はいつものように一緒に帰ろうとした。すると、俺達の声に合わせるかのように、スクッと立った女子がいた。相沢だった。
「あ、あの……」
相沢は俺達に向かって、というか、俺に向かって声をかけた。俺達は相沢を一斉に見た。相沢はもじもじとしていた。その相沢が何かを手に持ちながら、俺の目の前に来た。
「こ、これ! 受け取ってほしい、の……!」
相沢の手には、手紙があった。
「マジで! それ、ラブレターじゃん!」
仲の良い奴らが「大翔、すっげー‼」「相沢、大翔のこと、好きだったのかよー!」とからかい始めた。相沢の顔が真っ赤になった。その目は今にも泣きそうな感じだ。
「大翔、どうすんだよー? なー? 相沢だって、答え、知りたいよなー?」
友達はまだからかい続ける。相沢はまだ真っ赤な顔をして、目に涙なんか浮かべている。
俺の頭はぐしゃぐしゃで、ものすごくイライラしていた。今は、相沢がどんな手紙を俺に渡そうとしてるかなんか、どうでもいい。今の俺は、そんな事、どうでもいいんだ!
「どうでもいいよ」
俺は相沢の前で言ってしまった。言い終わった時に、まずいと思った、相沢の目にたまった涙が零れ落ちていた。彼女は、両手で顔を隠しながら泣き出した。その時、手に持っていた手紙が落ちた。相沢は泣きながら、ランドセルを持って教室を出て行った。
教室に残っていた他の女子が「渡辺くん、サイッテー‼」と言いながら、相沢に「大丈夫だよ、遥ちゃん」と言って一緒に帰っていった。
「なんだよ、俺達が悪いのかよ。って、大翔、手紙どうすんだよ?」
友達がそう言って相沢の落とした手紙を拾おうとした。
「触るなよ!」
「何、ムキになってんだよ……」
俺は、自分で相沢が落とした手紙を拾った。
家に着いて、相沢が落とした手紙を開けた。便せんにはメッセージが書かれていた。
「新しい学校に行ったら何でも相談できるお友達をつくってね」
俺を心配する言葉だった。俺は自分を心配してくれる女の子を傷つけた。
便せんの下の方に小さく書かれた文字もあった。
「わたなべくんが好きです」
俺は、相沢を傷つけたかったわけじゃなかった。それなのに、傷つけてしまった。
便せんの文字が滲み始めた。俺の涙が便せんの文字を滲ませていた。
相沢のことが好きなんだと、この時、初めて気づいた。
俺が小学校を転校して、五年生に進級した頃、母さんは少し大きな手術をして、なんとか最悪の事態は防げたかと思っていた。だけど、その後、大事な臓器に異常が出ていて、そこはもう手術できないから、このまま痛みを無くす治療しかできないと病院の先生に言われた。父さんも俺もただ泣くしかできなくて、母さんはそんな俺たちを優しく抱き締めてくれた。
それから、母さんは五年生の夏に旅立った。
母さんは、痛みに苦しみながら俺の腕を掴んだけれども、俺には何もできなかった。
母さんは、「大翔の卒業式に行けなくてごめんね」と言ったけれども、俺には何もできなかった。
俺は無力だった。
桜の花が葉桜に変わりつつある四月、俺は中学校の入学式の日を迎えた。学校の校門を通り、目の前に白い看板が立てられているのを見た。
「じいちゃん、ちょっと確認してくるから、ここで待ってて」
俺がそう言うと、じいちゃんたちは「わかったよ」と言って待ってくれた。
白い看板の前に立つと、看板の下の方を確認し始めた。三組に自分の名前があった。もちろん、名前はそのクラスの中の一番下にあった。一番下から順に視線を上に上げていった。一番上にある名前を見た時に衝撃が走った。そこには、もう一度会いたいと願う名前があったからだ。早く会いたい、そう思っていた時だった。
「『ワタナベハルト』なんて名前にいい奴はいないよ」
「そうなの?」
目の前で俺について話している二人の女子がいた。一人は、会いたいと望む女の子だった。
ー「ワタナベハルト」なんて名前にいい奴はいない。
やっぱり、あの時の俺のことを恨んでいるのだということはよく分かった。でも、俺は、もう後悔したくなんかない。あの時の失敗を繰り返したくはない。
「はっきりと言えるよ! 『ワタナベハルト』なんて名前の人にいい奴はいないから!」
「おい、聞き捨てならねぇな」
俺は、相沢の背後から声をかけた。相沢に嫌われていようと、俺はもうあの時の失敗を繰り返したくはない。もう一度、相沢と話したい。
今、目の前の相沢は俺と視線を合わせようとしない。その顔面は青ざめている。俺に会うのが嫌なのだと思う。それでも、俺はこのチャンスをもう逃したくは無いんだ。
青ざめる相沢を前にして、相沢との関係が動き出すことに少しだけ期待していた。
素直になれない君が好き あおのしらたき @aono-shirataki
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