八.過去回想(涅槃)

53.過去回想(涅槃)



 実家の病院は、蜻蜒せいていより十歳上の姉である微塵子みじんこが継いでいる。その知らせをくれたのも姉本人であった。したためられていた文字は、姉らしく簡潔でどこかやわらかい。しかしその文字が知らしめる事実は、容赦なく蜻蜒の心を穿うがった。


 『馬頭琴 餞ノ病状ハ最終段階デアル第三次ニ突入シテ居リマス。至急帰郷サレタシ』


 はなむけの容態がそこまで悪化していたことも、彼がまにまに王國を出て蜻蜒せいていの実家に入院していたことも、その時に初めて知った。


 血相を変えて駆けつけた蜻蜒せいていに、姉は黙ってエックス線写真を指し示す。それは確かに第三次の病状を示しており、彼の腎臓、胃、肺胞には大量の「蜜色小石みついろこいし」が溜まっていた。


 「蜜色小石」は肝臓で精製される。肝臓体積の三分の一は、すでに「蜜色小石」で埋められていた。


「貴方なら、云わなくてもわかると思うけれど――」


 伏し目勝ちに溜息をついた姉の言葉に、蜻蜒は首を縦にふらざるを得なかった。ここまで病状が進行していては、最早もはや手の施しようがない。


「もう、駄目なのでしょう」


 溜息を吐いた姉は、「予想していたよりも、二ヶ月近く頑張ったのよ、彼」と呟いた。えただけの悪化が、その写真には写り込んでいる。

 餞の内腑を写した写真に、蜻蜒は震える掌を這わせ、「くっ」と咽喉を鳴らした。写真の中においてでさえ、「蜜色小石」が増えてゆくような気がする。

 蜻蜒はうつむき、拳をきつく固めた。



 病床に臥した餞の顔色は、黄色く濁っていた。



 蜻蜒せいていの姿を視界に捕らえるや否や、寝台上のはなむけはにこりと微笑みを浮かべた。


「久しぶりだな、蜻蜒」

「あ、ああ」


 あまりの変貌に、蜻蜒は一瞬言葉を失った。寝台が窓際にあるため、はなむけの姿は逆光を浴び、そのコントラストは、ただでさえ濁った身軆からだを余計に生々しく見せる。手脚には膚肌に膜を張ったような浮腫むくみが顕著だ。肝と腎をやられた者特有の症状である。


「しかし、実際に発病して驚いたよ。本当に「蜜色小石」を吐くものなんだな」

「――吐いたのか……?」

「ああ。ここ一週間ほどのことだが」


 それは、すでに躰内で「琥珀柘榴こはくざくろ」が珊瑚虫として増殖していることを指していた。


 「琥珀柘榴」とは、早い話が寄生虫だ。基本的に〈柘榴病ざくろやまい〉は最終段階の第三次ですら、ウィルス状態で繁殖するだけである。それは、その状態以上に宿体が生き延びられないからだ。しかしそれすら超過すると、宿主内でウィルスの密度が飽和状態になり、やがてウィルスの凝固体である「蜜色小石」は発芽する。発芽した「蜜色小石」は宿主の内臓に根を張り、やがて「琥珀柘榴」となって実をつけるのだ。吐き出されるのは、その「琥珀柘榴」がつけた実の「蜜色小石」だけなのである。


 動揺を必死で押さえ込み、蜻蜒は手近な椅子に腰を下ろす。


「――まだ、おめでとうを云っていなかったな」


 蜻蜒の言葉に、はなむけは「ああ」と微笑む。近くで眼にする彼の頬は、げっそりとこけていた。


「ありがとう」

「一月六日だったと聞いているが」

「ああ」

「いい誕生花を持っている。――確か、譲葉ゆずりはだったな?」

「そう。花言葉は、「若返り」と「新生」だ。中々嵌まっていると思わないか? 僕の変わりに、次はが生きるんだ」

「餞」

「そういえば蜻蜒、君、僕の誕生花が何だか知っていたかい?」

「――ああ」

「凄まじいだろう。子供達以上に、僕の方が嵌まっていた」


 餞の誕生日は六月二十八日。誕生花は――柘榴である。


「しかし、お前の誕生花の花言葉も、「再生」と「希望」だろう?」

「希望、か……そうだな。僕が頑張らなくては、な」


 伏し目がちに呟き、餞は骨に皮が張りついたような指先で前髪を掻き揚げた。その動作に続いて、手首に繋がれた点滴の管がぞろりと動く。針が上腕部でなく手首に刺されているのは、上腕静脈に繋ごうにも、すでに表皮が硬くなり、針が通らなくなっているからだろう。刺し位置から、手首外側にある橈骨どうこつ静脈に繋がれているのだと蜻蜒は密かに考えた。腐っても医者の息子である。


 今年の初め、皇太子は餞の子を産んだ。


 二人の間に生まれたのは、双子の姉妹だった。二卵性双生児で、姉には錵鏡にえかがみ、妹には朱欒ざぼんと名付けられた。この二人が誕生した翌日、蜻蜒は担当した産婦人科医から呼ばれ、〈柘榴病〉のワクチンを持参し、まにまにを尋ねた。そして、生まれたばかりの二人に蜻蜒自らワクチンを投与したのである。

 それが、ほんの半月前のことだ。


「――だけれど、僕はもう長くない」


 餞のその言葉に、蜻蜒は息を呑んだ。


長閑のどかには、辛い思いをさせることになってしまったな」


 長閑、とは餞の細君の名だ。確かに、結ばれた幼馴染みと二十歳も迎えず死別するなど酷な話であろう。


「ねぇ蜻蜒。君には感謝してるよ。君のお蔭で、僕達の子供に〈柘榴病〉が遺伝されずにすんだ」

「――別に、お前のために研究を進めたわけではない」

「君は、必ずそう云うと思ったよ」


 餞は力なく笑い、窓の外へと視線を転じた。


「蜻蜒。君は、僕が研究していたのが何か、憶えているか?」

「――『魂音族』の研究だろう」

「ああ」


 餞は「ふふ」と笑い、次いで溜息を吐く。


「でも、本当に主として研究していたのは、それじゃないんだよ」

「――なに」

「僕は、ずっと魂の行方を知りたかった。魂は何度も輪廻転生を繰り返す。だけれど肉軀にくたいに限界があるように、魂にも限りがある。では、限りを迎えた魂はどうなる? どこへ行く?」

「――……。」


 答えられぬ蜻蜒は、黙って次の言葉を待った。しばし、二人の呼吸だけが室内を満たす。餞は、身動きすらしないで、ただ舞い落ちる梅を見ていた。


「ねぇ蜻蜒。梅は桜より白く、桜より華麗だ。だけど、そこに魂の色彩が感じられるか?」

「魂の?」


 餞は首をこちらに向け、にこりと笑った。


「日本には、こんな云い伝えがある。――日本こと蜻蜒州せいていしゅう秋津島あきつしまには、寿命の切れた魂が《御霊ごりょう》を沈めにくるという。魂は肉軀にくたいを仮宿とし、幾星霜かけて輪廻転生を繰りかえす。しかし、魂にもまた限りというものがある。永劫転生し続けることは不可能なんだ。転生の限りを悟った魂は、最後の生を営むため蜻蜒州に生まれ落ち、やがて朽ちる。最後の肉軆が朽ちると共に、魂も朽ちるんだ。朽ちた魂は空気のむくろになり、骸は摩擦されて雷電の欠片を生じ、雷電の欠片は骸を焼いて、焼かれた骸は樹木ナムの養分となる。そんな潔い魂を養分に育つ樹木は、大層潔い植物になるんだそうだ」

「死んだ魂は樹木の養分になる、か」

「そう。そしてね、生と死の狭間を最も端緒に表す樹木は、桜花なんだそうだよ。――だから日本は、桜を最も美しく咲かすくになんだ」


 りりりりり、と突然時計が鳴った。餞は「昼寝用めざましなんだよ」と、苦笑交じりに時計の頭を叩く。叩くと呼ぶより、力ない腕が重力に負けて落ちたと蜻蜒には見えた。思わず息をつめる。


 ちん、と余韻交じりに沈黙が垂れた。


「僕という魂は、今最後の人生を生きている――そんな気がするよ」

「何を気弱なことを云っているのだ」

「ただ気弱なだけの言葉だと思うか? 僕達は『魂音族』だよ? 自身の魂の状態や癖は見抜ける。そうだろう?」


 餞の言葉は事実だった。確かに蜻蜒自身も、己の魂がどう云う状態にあるのか知っている。彼がそう云うのならば、確かに彼の魂は限りを迎えているのだろう。


「それにね、僕は倖せなんだよ」

「倖せ?」

「これが長閑と過ごせる最後の人生かも知れない。でも、それはつまりこれでという意味でもある。僕はね、本当に満足なんだ。僕という魂は最期の時を迎えて、死ぬためにこの邦へ生まれた。それは、桜花が散るように魂を散らせられるということだ」


 餞は、じっと蜻蜒の眸を見、やおら左口許を持ち上げにやりと笑った。



「――蜻蜒。僕はね、今だって君のことなんか大嫌いなんだよ」



 その三日後、餞は息を引き取った。

 享年、十八歳であった。




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