七.過去回想(〈柘榴病〉)

51.事故



 小學五学年――十一の時のことだ。


「大変だ大変だア!」

「うわっ!」


 登校したばかりの蜻蜒せいていは、突然背中からぶつかられてよろめき、その場でくるりと半周まわった。叫び散らす大聲おおごえで大体の見当は付いていたのだが、やはり己に激突したのは「瓦版屋かわらばんや」であった。なおも「大変だ大変だア!」と叫びながら廊下を走り抜け、教室に飛び込んでいく。


「――……。」


 何やら、以前にもこんなようなことがあった気がする。蜻蜒せいていは眉間に皺をよせて、一つ咳払いをした。あの調子ではぶつかったことに気付いてもいないだろう。


 遅ればせながら扉をくぐった瞬間、「瓦版屋かわらばんや」は常より青褪めた顔で叫んだ。


「大変だよ! 人馬笛じんばぶえはなむけが裏山の崖から落ちた!」

「ええっ」


 級友達が一斉にがたりと席から立ち上がる。


「どう云うことだ!」


 蜻蜒は常にない調子で「瓦版屋」に駆けより、その肩をつかんだ。


「えっ?」


 突然背後から強い調子で問いつめられた「瓦版屋」は、瞬間びくりと跳ね上がった。


「あっ、あのッ……」

「いいから! 現状を詳しく説明しろ! 保険医はもう向かったのか」

「いや、先生保健室にいなくて……」

「じゃあ、今裏山で二人を見ている者はいるのか?」

「いやっ、誰もいないんだ。だから急がないと」

「崖から落ちたと云ったな?」

「そうなんだ」


 ようやく普段の調子を取り戻してきたのか、「瓦版屋」は続きをまくし立てた。


「ほら、昨日は大雨が降っただろう? そのせいで土がゆるんでいたみたいなんだ」

「確か、裏山の崖には工事現場の資材が放置されていたな」

「そうなんだ。その重みで崩れて、人馬笛と餞は巻きぞいを喰ったんだ」


 蜻蜒は眉間を険しくし、すぐさま鞄を机の上に投げ出した。


「場所はどこだ!」

「こっちだよ!」


 「瓦版屋」の案内で、蜻蜒は敎室から飛び出した。背後からバタバタとあしおとが続く。ちらりとふり返れば、こくりとうなずく蚯蚓きゅういんの顔が見えた。



 小學の裏山は、学舎から見て、だだッ広い校庭を挟んだ向こう側にある。白線で引かれた400mトラックを全力疾走で横切り、金網のフェンスを跳馬の要領で一息に飛び越えた。これでも蜻蜒は体操競技が得手なのである。着地した場所はアスファルト路だったため、すねの辺りにビリッと電流が走った。


 赤土の上を飛ぶように駆ける。竹薮の笹に膚肌を斬りつけられながら、ざざざと物音も激しく崖に向かった。そして藪を抜けた途端、「瓦版屋」が急停止した。


 ざざっ、と云う葉擦れの音と共に、三人は立ちつくす。


「――……これは」


 蚯蚓きゅういんが傍らで息を呑んだ。

 そこには、脚を抱えて地に倒れたまま、うめ人馬笛じんばぶえの姿があった。地面には、すでに大量の血液が流れ出ている。


蚯蚓きゅういん! 救急車を呼びにいってくれ!」


 叫んだ蜻蜒を見、蚯蚓はこくりうなずくときびすを返し駆け出した。それと同時に蜻蜒は人馬笛に駆けより、状態に眼を通す。


(――負傷しているのは左脚大腿部……)


 位置はちょうど中頃。出血量はかなりのもの。


(動脈が切れているな。……外腸骨(がいちょうこつ)動脈か)


 ちらりと脇を見れば、血に塗れたステンレス製のヘラが落ちている。これが、何かの拍子で突き刺さったのだろう。


(――自力で引き抜いたのか)


「せい、てい、か」


 引きれたこえに視線を戻すと、人馬笛じんばぶえ蜻蜒せいていの顔を見ていた。意識はしっかりしている。レスキュー隊員がくるまで、何とか持つだろう。


「一先ず止血だ」


 ざっと辺りに眼をやる。周辺には工事資材が散らばっていた。金属製品の表に陽光がぎらりと反射する。内の一つに、細長いクランクがあった。


「おい「瓦版屋かわらばんや」! そこに落ちているクランクをとってくれ!」

「あっ、はい!」


 指差してから、脚の付け根部分に左手を置き、圧迫する。


「人馬笛。自分でここを押えていろ」

「――どこ、を」

「ここだ。ちゃんと触れ。どくどく云っているだろう。ここをぎゅっと、押えておくんだ」


 指示しながら腰帯をほどき、脚との間に手渡されたクランクを噛ませて手早く巻く。それを力一杯ぎりぎり巻き上げると、人馬笛は脂汗を額に滲ませながらうめいた。


「――お前みたいなヤツに手当てなんかされたら、治るモンも治らねぇよ」

「軽口が叩けるなら、そう心配する必要はないな」


 蜻蜒せいてい人馬笛じんばぶえの顔を見て「ふふ」と微笑んだ。それを見た人馬笛は痛みも忘れて眼を丸くする。当然だろう。彼が蜻蜒のこんな笑みを見るのは初めてのことだったから。


 縛り上げたクランクに腰帯の端を噛ませてから、ふと左掌がちくりちくりと痛むことに気付く。見やると、何時の間にか己も左掌を擦りむいていたらしい。擦り傷にはぷつぷつと血が浮き始めている。その下には赤紫色が散り、薄皮は破れ、毛羽立っていた。薄ッすらついていた砂を軽く払う。血が滲んで、膚肌の上に引き伸ばされた。

唇を一文字に引き結び、掌をぎうと握りこむ。


「手当てに人間性は関係ないだろう。ようは腕だ」


 目蓋まぶたをぎゅっと閉ざし、次に開けた瞬間、蜻蜒せいていひとみは鋭い光を孕んでいた。


「人馬笛。餞はどこにいる?」


 人馬笛の血にまみれた指先が、崖の中腹辺りを指す。


「――あそこら辺だ。竹薮に引っかかっている、はず」

「……登って登れないこともない、な」


 独りごちてから、蜻蜒は「瓦版屋かわらばんや」のほうに向き直り、「ここは頼んだ」と云い捨てた。ぐいと額の汗をぬぐってから、手に付着した血糊を上着の裾でぬぐう。それから木の枝に手をかけて、蜻蜒は急斜面を登り出した。


 崖には様々な樹が生えていた。左右を見回しながら、枝やら根やら土塊やらに手脚を引ッ掛け全力で登る。赤土でも緑でも樹皮でもない色彩を、視界の端にとらえようと必死だった。ふと、何時の間にか、先程見た血液の赤を探している己に気付く。


「餞! いるのか餞!」


 不吉な想像を打ち消そうと、わざと大声を張り上げる。


「餞! はなッ……」


 ちらり、と視界の隅に薄青いものが過ぎった。条件反射のように首を向け、その方角へ駆け寄る。



 果たして――繁みの中にうずくまはなむけの姿があった。




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