茅野くんと佐々木くんのねじれた関係

水玉ひよこ

茅野くんと佐々木くんのねじれた関係

芽野は昨日の自分に激怒した。何故、目覚ましをかけなかったのか。何故、昨夜飲みすぎたのか。今日はプレゼンテーションの日だった。真面目だがたまに空気が読めない友の芹沢が、私の持っている書類を待っているだろう。かの厳格な上司を見返すために、これまで企画や発表の準備をしてきた。しかし、今日遅刻すれば全てが水の泡だ。

「待っていろ芹沢」

芽野は昨日着たスーツのまま、家を飛び出した。本当であれば会社で寝泊まりする筈だったが、上京する弟と会うため一日休みを鬼上司からもぎ取ったのだ。

「私は約束を守るおと、うわっ」

盛大に頭からこけてしまい抱えていた書類は道にばらまいてしまう。

「にゃあ」

進む先には苦手な猫がいる。子供の頃に顔をひっかかれて以来犬猿の仲だった。猫ではあるが。

「私はこんな困難に屈せぬぞ」

「何してんだ、芽野」

「オサム、ちょうどいい。私を助けてくれ」

近所の蕎麦屋の息子であるオサムは配達の途中のようだ。蕎麦を片手に器用に自転車へ乗る姿を見て、会社まで乗せていってほしいと懇願した。オサムは気前よく承諾し、私は後ろに乗った。体育だけ成績が良かったオサムはすいすいと漕いでいく。吹き飛ばされないようしっかり封筒を抱えていたが、また困難がやってきた。

「芽野ちゃん、ここは通れない」

「何故だ」

「今日はアマチュア駅伝なんだ」

見物客は、いまかいまかと走者が来るのを待っている。人込みのなかを進むには自転車より歩いたほうが速そうだった。

「うん、仕方ない。オサム、ここで私は降りる、助かった」

「どうするの」

「走るしかないだろ」

黄色いテープを乗り越え車道を走る。冷たくて強い風が顔に吹き付ける。だが、諦めるわけにはいかない。社内のうわさで、近々リストラの話が出ると聞いた。このままでは結果を残せていない私と芹沢がリストラになるかもしれない。いや、なる。あの鬼上司ならやりかねない。

「くそっ!車を持っていれば簡単に着くのに走らねばならないなんて」

「おやおや、お困りのようですね」

「この声は佐々木!」

「こんなところでどうしたんですか、芽野さん。今日は大事なプレゼンの日では?」

「うるさい!」

こいつは同じ会社でライバルの佐々木だ。憎たらしい顔で、いつも人の失敗をほくそ笑んでいる男なので苦手だった。車道に入ってきて並走してくる。長い脚にきりっとした目の男のせいで注目をさらに浴びてしまう。黄色い声など聞きたくない。

「ここはもうすぐランナーが来ますよ」

「そ、そんなことは分かって、はぁはぁ」

「持久力がない貴方が走って会社に行くなんて無茶にもほどがありますよ。諦めたらどうです?」

「誰が諦めるか」

「仕方ない。僕と貴方の仲です。近道を教えましょう」

「なんだと」

「こっちの脇道に入ってください」

「おい、引っ張るな」

へろへろな状態の私は手を引かれるまま細くて暗い道を駆けていく。まるで、佐々木が地獄の案内人で、私を地獄につれていくようだった。

「ここ狭いので頑張ってください」

「うっ、吐きそうだ」

朝から何も食べていないので出るものは胃液だけだが、こいつの前では死んでも吐きたくない。

「ここを飛び越えてください」

建物と建物の間にある、人一人しか通れない道をなんとか突破したが、少し歩くとフェンスがあり、その先には足場がない。つまり、飛び降りれば真っ逆さまのまま坂に激突だ。

「私を猫とでも思っているのか」

「いつ猫のように可愛らしい生き物になったんです?」

「この野郎!」

私がこいつを気に食わない理由はただの同僚だからではない。この忌々しい縁は小学生の頃からであった。優等生として生きてきた私のクラスに悪魔の面を隠した転校生がやってきた。それが佐々木である。ことあるごとに私より優秀な成績を残し、みじめな気持ちになった。裏では校庭に絵を描いたり、ウサギ小屋が空になったり、平穏な学校生活を壊すことがたくさんあった。そして、自分の蒔いた種を私と回収するよう仕向け、周りから親友のように見られてしまうのも不快だった。手を貸すようで私を巻き込み、離れようとしてもいつも近くにいるのだ。ああ、なんて忌々しいのだ。こうしてまっすぐな性格はみるみるうちに卑屈になり、何事もうまくいかなくなる。そして、今も酷いことを考えてしまう。

「ここしかないのか、道は」

「ショートカットするしか間に合いません」

「私が高所恐怖症なことを知っているだろうに、こんな」

「四角四面な性格が改善したと思ったら臆病になりましたね」

「だって、ここから落ちたら」

死ぬだろうという言葉が出ない。溜まった唾液を飲み込む。すまない。芹沢。私はここで死ぬかもしれない。二人で頑張った書類を渡せず、鬼上司との約束も守れず、こんなところで死に絶えてしまう私を許しておくれ。君は私を恨むだろうか。それとも呆れるだろうか。ああ、同じ苦労をし、無理難題を共に乗り越えてきた友に合わせる顔がない。

「悲観モードに入るのはいつものことですが落ち着きなさい。ほら、手をつないで飛び降りますから死ぬ時は一緒」

「一緒なんて嫌だ。芹沢のためなら飛ぶ」

「はいはい、それでいいですから。拒否できる元気があれば大丈夫ですね。さあ、登って。いきますよ。いっせいのーで」

つられるように飛び降りると、無事固いコンクリートの坂に着地し命もある。

「よかった。これで約束を守れる」

繋いでいた手に気づき、すぐさま離した。怖がっている私を見て、にやついている佐々木に怒りたくなるが助かったのは事実。今は会社に向かうことを優先しよう。

「この道をまっすぐ進めば会社に着きます」

「分かった。その、佐々木、借りはあとで返す」

「借りを返せるんですかね」

「くっ、返す、絶対に」

プレゼンテーション開始時刻に間に合いはしたが、芹沢に心配されてしまった。身なりを軽く整え、かの鬼上司にプレゼンをした。結果、叱責されずにすみ成功したのだった。良かった、良かった。

「やったな」

「ほんと良かったよ。まさか来ないんじゃないかって少しでも疑ってしまってごめん」

「私も無理だと諦めそうになった。許してくれ」

成功をかみしめながら、私たちは抱きしめあい微笑んだ。成果が報われ晴れ晴れとした気持ちだ。

「そういえば、最後笑っていた奴いたけど何だったんだろうな」

「芽野くん」

先輩に呼び止められ会釈する。

「今日のプレゼン良かったよ。ただ、身なりはきちんとね」

「はい」

喜んでいた気持ちは少し冷めてしまったが、それより立ち去る先輩が笑いを耐えているように見えたのが気になる。

「それはズボンを見たら分かるよ」

「え」

まさかと思いお尻を触ると破れている。おそらく飛び降りた時だろう。佐々木がにやついていたのも気づいていたからに違いない。近くにいた女性社員にもバレて通り過ぎる際に苦笑されてしまう。

事態を把握した浅野は、ひどく赤面した。

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