第36話 シチリア沖海戦とアウステルリッツの会戦、そして神聖ローマ帝国の滅亡

 さて、第3次対仏大同盟において、プロイセンは同盟に対して中立的な立場を取ったもののイギリス・オーストリアは当然自分たちの仲間にプロイセンを引き入れようとしていた。


 私はそれに対しプロイセンを中立のままにしておくために英領ハノーファーをイギリスから奪った後にプロイセンに譲渡するとの約束を取付けた。


 ハノーファーは正式には神聖ローマ帝国に所属するハノーファー選帝侯領でありハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが1714年にグレートブリテン王ジョージ1世として即位したことにより、ハノーファー選帝侯領とグレートブリテンは人的同君連合となった。


 その時はグレートブリテンはそれを望まなかったにもかかわらず、その王の所持していたドイツにおける領土とも関わりを持つこととなったわけである。


 しかし、同君連合内ではハノーファーはグレートブリテンとは別に統治され、独立した政府を有していた。


 ハノーファーは後にプロイセンの軍政改革を行うゲルハルト・ヨハン・ダーヴィト・フォン・シャルンホルストの出身地でもある。


 ドイツ方面の国境に配置されている陸軍の総数はおおよそ25万ずつだがそのうち戦闘要員である歩兵、騎兵・砲兵はおよそ15万ほどで残りの10万は補給や輸送などの兵站・伝令・衛生・楽隊・経理などの非戦闘の軍兵である。


 ナポレオンは兵站などを軽視していたと言うものもいるがそんなことはない。


 最初期のイタリア戦役やロシア戦役では食料を現地調達したのは間違いないが、歩兵の主兵装がパイクから銃剣になり、大砲の有無が戦局を一変させるようになったことで弾薬の補給が勝利の鍵を握るようになった。


 それ故にナポレオンは馬車や小舟などでの輸送を円滑に行うために道路や運河の整備を最優先に行わせたし、私もそれに加え鉄道網の構築を行わせたのである。


 陸でフランスと戦うことになるのはオーストリアとロシアの連合軍であるが、フランス軍は10年にも及ぶ革命戦争を経て能力があれば元は下級貴族であろうが平民であろうが関係なく昇進できる実力本意の軍隊であり、実際に兵士からの叩き上げの士官も多い。


更にドイツ方面軍の最高司令官はオッシュ一人であるため、指揮系統が統一されている上にアントワーヌ=アンリ・ジョミニを中心にした作戦参謀もそなえていた。


 そのようなフランス軍に対し、連合軍は年功序列で無能な貴族出身士官が多くオーストリアのフランツ1世配下のマック元帥、カール大公、ヨハン大公、フェルディナンド大公、ロシアのアレクサンドル1世などはそれぞれの連携も取れておらず、最高指揮官にオーストリアとロシアの皇帝二人がいるという状態で、連合軍全体で統率された動きが取れるわけはなかった。


 そんなときにオーストリアのカール・マック・ライベリッヒ元帥率いるオーストリア軍七万二千がフランスの同盟国であるバイエルン選帝侯領に侵入し首都ミュンヘンを占領し、オーストリア軍はバイエルン選帝侯領を制圧した。


 同時にアドリア海沿岸のヴェネチア、イストリア、トリエステ、ダルマチアなどの港を根拠地とするオーストリア海軍の戦列艦をフランスへ向けて出港させた。


「では迎撃せねばなるまいな」


 しかし、オーストリア海軍はもはや旧式な木造艦であり、トゥーロンから出港したフランス海軍の最新鋭の装甲フリゲート艦の敵ではなく、シチリア沖にて行われた海戦にてオーストリア海軍はあっさり撃破、拿捕された。


「せめて、ロシアの黒海艦隊と歩調を合わせるべきであろうにな。

 まあ、オスマントルコの海軍も健在な以上、ロシア黒海艦隊もボスポラス海峡を抜けられぬであろうし、とても無理な話ではあるのだが」


 そして、もし海峡を抜けられたとしても結果はさほど変わらぬ可能性が高いのだがな。


 ロシアは、1768年から1774年までつづいた対トルコ戦争でオスマン帝国軍に事実上勝利して1774年7月にトルコとの間にキュチュク・カイナルジ条約を結んで黒海沿岸地方への進出を果たした。


 この条約により、ロシアは黒海での艦隊建造権と商船のボスポラス海峡・ダーダネルス海峡の自由航行権を獲得したのである。


 ロシアはバルト海では得られない不凍港をようやく獲得でき黒海から地中海へと勢力を伸ばそうとしていたのである。


 そして、ロシアのグリゴリー・ポチョムキンはクリミア半島の領有を進め、クリミア半島の先端に、防衛拠点として、セヴァストポリの軍港建設に着手し、クリミアはのちに大穀倉地帯として発展することとなる。


 その頃大陸でマック元帥は本営をバイエルンの首都ミュンヘンから要塞都市ウルムに移して我々フランス軍を迎撃しようとした。


 それに対しオッシュ元帥率いるフランス軍は十五万の軍勢を7個軍団に分けて進軍させたが、オーストリアのカール大公の十万の大軍は北イタリアでマッセナ元帥の十五万の軍と対峙しており、ヨハン大公の二万二千の軍団はチロル地方インスブルクに待機中であった。


 そしてロシアの軍はポーランドを移動中でバイエルン入りさえしていなかった。


 ロシア軍の補給は現地調達とオーストリアの提供によるところが大きく、十分な食料を確保できてるとは言いがたかったため、行軍速度は遅かったのである。


 マック元帥がウルム付近で孤立していると知ったオッシュ元帥は一軍を持ってマック元帥の注意をひきつけ、その他の軍をウルムのオーストリア軍の背後に移動させ敵の拠点を攻撃して陥落させマック元帥の退路を断った。


 マック将軍は完全包囲されウルムに籠城したがフランス軍によるウルムへの激しい砲撃と戦力差によって、戦意を喪失したマック元帥はフランスに降伏した。


 さらにオッシュ元帥はウィーンへ進撃を開始し、同時に北イタリアでマッセナ元帥がカール大公に攻撃を開始するが、カール大公は兵力の温存を図り、ヨハン大公とともにイタリアから撤退を開始した。


 この間にオッシュはオーストリア本国へ侵攻、北上してきたヨハン大公の軍を撃破してオーストリアの首都ウィーンを陥落させ、マッセナ元帥は北イタリアを制圧した。


 この間、ロシア軍は戦わずチェコへ退却し、オーストリア大公であり神聖ローマ皇帝でもあるフランツ2世もチェコに逃れた。


 オッシュ元帥はこの連合軍の動きに対してチェコに軍を進軍させてオーストリア=ロシア連合軍と対峙をした。


 ロシア軍の実質的な総司令官クトゥーゾフは史実で提案したようにオーストリア本国の防御を放棄しウクライナまで退却するつもりであったようだが、ロシアへの補給を強制させられたオーストリアは無論それに反対した。


 そしてオッシュ元帥もフランス軍の補給線が極端に長くなっており、これを維持するために補給線への多数の守備兵を必要としていることと、この状態で唯一の勝利の手段は連合軍に決戦を強いてそれを撃破することである事をわかっていた。


 ロシア軍の、総司令官クトゥーゾフは”自殺的”といえるオーストリア軍の防御計画に固執することなく、退却を決意しフランス軍と停戦交渉をして撤退の時間稼ぎを行った。


 オッシュ元帥はクトゥーゾフが行ったようにオーストリアとの停戦交渉を行いつつ、守備兵に多くを割かれたフランス軍は少数であるというイメージをオーストリア偵察部隊にわざと見せつけることで、連合軍が数で圧倒しており、劣勢なフランス軍を撃破する好機と見せかけた。


 結果としてアレクサンドル1世は退却ではなくフランス軍への攻撃を行うことを決定した。


 ロシア皇帝アレクサンドルはその宮廷内の側近や、オーストリア軍参謀長フランツ・フォン・ワイロッテル少将などの連合軍指揮官の多くが提案した即時攻撃を支持し、クトゥーゾフの意見は却下したのだ。


 その上、アレクサンドル1世は総司令官の権限をクトゥーゾフから奪い、オーストリア軍のワイロッテル少将に委ねてしまった。


 その為、会戦ではクトゥーゾフは連合軍第4縦隊を率いるのみとなったが、ロシア皇帝は自らが選んだ作戦が失敗した際の責任の追求を恐れてクトゥーゾフを名目上の総司令官職に留めている。


 そして大軍が展開できる場所であるアウステルリッツで連合軍と対峙したオッシュ元帥は”不敗”のダヴーと”高潔なるスルタン”たるドゼーの受け持つウィーンにつながる補給路がある右翼をわざと手薄にし連合軍戦力を右翼に集中させ、そのすきに中央突破からの右翼の包囲殲滅を行い完勝した。


 そしてこの戦闘でロシアは中央を死守しようとしたクトゥーゾフと彼の娘婿のティーゼンハウゼン伯爵を失った。


 これはイギリスのネルソンに匹敵する大きな人的損失であったろう。


「愚かなことだ、有能な将官であれ、無能な上司のもとではその力を発揮できんということか」


 この会戦の結果オーストリア皇帝フランツ1世はフランスとの和平を求め、プレスブルクの和約が締結された。


 オーストリアはドイツのバイエルン、ヴュルテンベルク、バーデン、イタリアのヴェネツィア、イストリア、トリエステ、ダルマチア、そしてオーストリアの持つポーランド領をフランスへ譲渡せねばならなくなった。


 そしてオーストリアに統治されていた元ポーランド王国領はポーランド王国の首都であったクラクフを首都としてクラクフ共和国として名目上独立しフランスの衛星国となり、フランスはドイツの領域内にライン同盟を創設した。


 ライン同盟にはハノーファーを割譲されたプロイセン王国とオーストリア帝国を除く全ドイツ諸国が加盟しナポレオン法典が導入された。


 これにより神聖ローマ皇帝フランツ2世は、神聖ローマ帝国の解体を宣言し、もはやほぼ名ばかりであった神聖ローマ帝国はここに滅亡したのである。

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