第20話 フランス革命の終焉・ブリュメール18日のクーデター

 さて、私がインドからイギリス勢力を駆逐し、マイソール朝と同盟を結んで、エジプトへ帰還した後、オスマントルコから地中海の島々を奪い、地中海をほぼフランスのものとした頃、本国フランスは第二次対仏大同盟による戦局の悪化により、総裁政府は大きく動揺していた。


 テルドミール派はすでに全く支持を失っており王党派とジャコバン派をクーデターで議席を与えないことでなんとか政権を保っているというだけだ。


 そして1799年4月の選挙ではまたしても多数の新ジャコバン派議員が当選した。


 そして総裁政府にももはやインチキはできなかった。


 その結果、新しい議員315人中で総裁政府を支持する議員はわずか70人ほど、残りの多くは反政府に立つジャコバン派の議員で占められた。


 昨年のフロレアル二十二日のクーデターで不当な追放に遭い、今度こそと議員に返り咲いたジャコバン派の当選者達は、当然総裁政府を攻撃し始める。


 ”革命を始めた男”シエイエスを総裁に指名し、他の三人の総裁をその地位から引き摺り下ろし、大して有能でないがジャコバン派にちかい三人と交替させた。


 これにより、シエイエスとバラスが総裁政府の主導権を握った。


 これまで政府によって違法な手段で介入され続けた議会がはっきりと総裁政府に報復を加えたのだ。


 このクーデターをプレリアル三十日のクーデターと呼ぶ。


 その結果ジャコバン・クラブは1799年6月18日に再開され、議会は三つの政策を決定した。


 階級による除外のない全面的な徴兵制の実施


 徴兵の経費をまかなうために一億フランを裕福な市民から強制的に借り上げる強制借款法


 南部や西部でまだ横行していた反革命の王党派のテロリズムに対応するため、亡命者や貴族の家族を人質に取り、官吏や軍人などが一人暗殺されるごとに4人の人質を流刑にするか賠償金を取りたてる人質法


 だが当然の事ながら、この政策には王党派や富裕層から強い反対が起こった。


 そして、8月13日、警察長官に任命されたばかりのフーシェが、ジャコバン・クラブを解散しジャコバン派は力を失う。


 さて私はそんな中でフランス本国に戻ってきた。


 エジプトの統治などはクレーベルやドゼーに任せてあるがおそらく問題は起きないだろう。


 マダガスカルやモーリシャスの問題も解決済みだ。


 私は10月9日、南仏のフレジュスに到着し、常勝の提督として沿道の市民たちに歓迎を受けながら、その5日後にパリに到着した。


 そしてパリに入った私に接触してくるものたちが居た。


 総裁政府のバラスとシエイエス、警察長官のフーシェと外交官のタレーランだ。


 ジャコバン派の代表であるシエイエスは弱体化したジャコバン派の力を取り戻し、強力な行政機関を設立するために私を利用しようとしていたし、バラスは今までもクーデターや暴動鎮圧で私を何度も使っているから御しやすいと考えているのであろう。


 フーシェは現状の政府に失望しており、タレーランもフーシェと同様、そして後の二人は自分の地位や財産を確保するため私を掲げてクーデターを起こすことに決めたわけだ。


 つまりこのクーデターの首謀者はバラスとシエイエスであり、本来は私ではない。


 私は本来のナポレオンのようにエジプトから敵前逃亡してきたわけではないのでその分立場も強いのだがね。


 そして運命の日は来た。共和国第八年ブリュメール十八日(1799年11月9日)の朝、臨時に召集された元老会議はジャコバン派の陰謀があることを理由に、パリからサン・クルーに移動すると言う布告を出した。


 無論実際にはそんな陰謀などというのはなくでっち上げなわけだが。


 私は両院の移動を監督し、その護衛を行って議員たちの安全を保障する任務につくことになった。


 そして私は総裁政府に対する非難を込めて演説を行い、総裁は辞任した、しないものはさせたがね。


 そして翌日1799年11月10日(ブリュメール19日)、両議会は新しい総裁を選出するためにサン・クルー宮に召集された。


 議員達は怒りロベスピエールに投げかけられた言葉を私に投げかけた。


「独裁者を倒せ!!」

「憲法万歳!!」

「共和国万歳!!」


 そういう彼らに私は冷たく言う。


「フリュクチドール18日(1797年9月4日)、

 フロレアル22日(1798年5月11日)、

 そしてプレリアル30日(1799年6月18日)に、諸君は憲法を犯したではないか。

 憲法万歳という資格などはないよ」


 そして議会の外に待機中の兵たちに私は言う。


「わがフランスの、共和国の自由を破壊しつつある。

 イギリスやオーストリアのピットの手先を

 議場から一掃しようではないか!」


 銃を構えた兵が軍隊が議場に突入した、そして議員連中は逃げ出して議場は空になった。


 更に翌日の1799年11月11日(ブリュメール20日)の午前2時、あらかじめ示し合わせて残留していた少数の議員達により、シエイエスとバラスの共謀の元で憲法の改正を決定し、シエイエス、ナポレオン、ロジェ・デュコの三人の臨時執政を任命し、こうしてクーデターは成功したのだ。


  さて、シエイエスやバラスを初め、このクーデターに加わった議員たちは勿論私に独裁権を与えるつもりなどはもちろんなかった。


 が、軍隊を握っている私に対して彼らは何もできず、私に権力が集中する仕組みの憲法が制定されることになるのだ、シエイエスが「革命を始まらせ、革命を終わらせた男」と言われるのはこれによるものだ。


 そして行政機関は私と、左翼のカンバセーレ、右翼ルブランの三人の執政からなるが、実質的に私以外の2人は左右の政治勢力に対してのお飾りにすぎない。


 こうして第一執政と呼ばれる政治が始まったのだ。


 そして、1799年12月15日、新しい憲法は公布されそれは次の言葉で締めくくられている。


 ”憲法が創設する諸権力は、強力かつ安定しており、市民の諸権利及び国家の諸利益を保証するのに必要充分である。

 市民諸君、革命はこれをはじめた諸原則の上に確立した。

 革命は終わったのである。”


 そうフランス革命はこれで完全に終わったのだ。

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