第19話 オスマントルコとの海上決戦
さて、インドのイギリス軍を事実上壊滅させた私に対してエジプトより連絡が入った。
オスマントルコがエジプトに対して攻撃を行うという情報だ。
その前にフランス本国では1797年9月4日のフリュクチドール十八日のクーデターに続き、1798年4月の選挙で、ジャコバン派が大幅に票を伸ばしたことに対し、総裁政府はフロレアル二十二日(1798年5月11日)に、当選した437名中106名の議員の当選を「過激派である」という口実で無効にした。
これをフロレアル二十二日のクーデターと言うが、このクーデターは今までのクーデターのように軍隊に依存はしなかった。
しかし、政府が恣意的に選挙の結果を無効にする、という暴挙を行い共和制の選挙制度の屋台骨を揺るがせるようになったわけだ。
「まあ、自分たちが投票した議員が現政権に
都合が悪いからと当選取り消しにされては
政権に対する信頼はますます失われるであろうよ」
フリュクチドールのクーデターとフロレアルのクーデターで王党派とジャコバン派を追放したことで政府には表向きは反対者がいなくなり、一応の安定を見い出したかと思われた。
だが、ラザール・カルノーがフリュクチドールのクーデターによってギアナに流されたりすることで、革命戦争にてフランスの勝利を支えていた人材は姿を消しつつあった。
そして隣接している各国の国境線に駐屯していたフランス軍の司令官たちは、軍閥を作ってそれぞれが好き勝手にフランスの衛星国を作ったり、その内政に干渉したりしており、イギリスやオーストリアを中心として列強の間に再度の対仏大同盟を結成しようという機運を盛り上がらせている。
そんな時1つの法令が成立した。
ジャン=バティスト・ジュールダンが提唱した世界初の近代的徴兵制度、国家総動員法とでも言うべき、ジュールダン法である。
フランス人男子はすべて兵士であり、祖国の防衛に就く義務を負っているとされ、20歳になった者を兵士として徴用するこの法律は絶対王政下では貴族や騎士、傭兵などの特殊な環境のものがつく1つの職業に過ぎなかったものが国民全員の義務になることで国家は無尽蔵に兵士を手に入れられるように見えた。
そして1799年ジュールダン法の運用が開始された。
しかし、海上戦力を大きく失い窮地に陥ったイギリスはロシアやオスマントルコを巻き込んで第2次対仏同盟をなんとか成立させた。
オスマントルコはフランスのエジプトとインド進出によりフランスと敵対する方針を明確としたのだ。
その他ロシア、イギリス、オーストリアがこの同盟には参加したが、オランダ、スペインはフランスと手を組んでおり、スイスはフランスの占領下に有った、プロイセンは今回は中立だな。
しかし、第二次対仏大同盟とフランスの間での戦争が始まった時、フランス軍の全兵力はわずか28万人にまで減っていた。
1793年にはモンターニュ派の下で実施された国家総動員体制は、あくまで祖国が危機に晒されている期間に限った臨時的な措置で最大で100万人を超える空前の兵力動員に成功したもののその兵数を維持をし続けることはできなかったのだ。
これによりライン川、イタリア、スイスの各戦線で数に勝るオーストリアとロシアを中心とした連合軍はフランスを圧倒し、フランス軍は次々と打ち破られて退却した。
しかしオランダを攻撃しようとしたイギリスはその攻撃に失敗している。
戦線をライン川の西に後退してもなおフランス軍は自然国境の外にいた。
しかし、権力基盤の脆弱な総裁政府にとってはこれ以上ない危機でも有った。
一方エジプトだが1799年1月、イギリスはオスマン帝国と軍事同盟を締結した。
実質的にイギリスは地中海の制海権は失っていたがプロイセン、オーストリア経由でオスマン帝国をエジプトを奪ったわがフランスに対して焚き付けることに成功したというわけだ。
私はインドに持ってきたコルベットの半分と、1万の兵を東インド会社の守備として残すと、エジプトへ帰還する。
「ふむ、コルベットは紅海防衛のためにスエズに残すか」
マルモンは頷いた。
「それがいいでしょうな」
本来であればオスマントルコのシリア総督アーメッド=パシャに最後通牒を送り、シリアに遠征を行うわけだが、結局シリア遠征には何も得るものもなかったはずだ。
我々はアレキサンドリアまで5000の兵とともにナイル川ぞいを行軍する、現状は5月でさほど暑くはないのが救いではあるな。
6月にはアレクサンドリアに到着したが、すでにオスマントルコもムスタファ=パシャが2万人の兵をロードス島を経由して運びエジプトの沖合いに姿を現していた。
「では彼らを海に叩き落としてやろうではないか!」
「おおう!」
16世紀のオスマン帝国は最強の海軍でありその提督であったピリ・レイスの世界地図は有名だが、もはや旧式化したオスマントルコの船などは我がフランスの敵ではない。
こちらの一方的な攻撃によりオスマントルコの護衛艦隊はほぼ壊滅し2万の兵は大半が海の藻屑になるのだった。
オスマントルコは海軍戦力を失いアレキサンドリアの占領に失敗した。
「ではロードス島及びキプロス島とクレタ島を制圧しようか」
我々は余勢をかってオスマントルコの地中海の海上基地であるロードスとキプロス、クレタを攻略した。
これで地中海の制海権はほぼ確立できた。
黒海にはロシア海軍がアドリア海にはオーストリア海軍が存在はしているがな。
その後、私はマルムークのムラド・ベイやオスマン帝国と講和を結ぶにいたった。
しかしながらその頃フランスはロシアとオーストリアの連合軍に押されていた。
「さて、そろそろフランスに戻るべきか」
私はクレベール将軍に後を任せ、フランスへ戻ることにした。
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