第3話 革命の進行と一族のマルセイユへの移住・そしてトゥーロン包囲戦への参加

 さて、フランス革命が起こった際に私は当然革命軍側についた。


 幼年学校時代に受けた上級貴族や教師からのいじめなどを考えれば、王侯貴族側につく理由はもちろんあるまい。


 結果がどうなるかもわかっているしな。


 この頃の私は、自分の政治信条を語るボーケールの晩餐を著して、革命政府の有力者の一人ロベスピエールの弟オーギュスタンの知遇を得ていた。


 また、海軍士官のうち上級貴族は処刑されたり国外に亡命したりしてどんどん居なくなっていった。


 提督や佐官に相当する艦長クラスは四分の一ほどの数になっていたため海尉から提督になるものもいた。


 これらの要素によりある程度パリで起こっていることも私にもわかっていた。


 まあ、この後で生まれたフランス国民でそれなりに教養があるものであれば、この革命の時どういうことが起こったかは当然知っているがね。


 独立したアメリカや立憲君主制に移行したイギリスと違いアンシャン・レジームというフランスの絶対王政のもとでは聖職者と貴族は年金の支給と非課税特権を持っていたが、その数はあわせてもおおよそ50万人程度、一方第三身分と呼ばれた平民はおおよそ2600万人。


 そして中世と違い重火器が発達したこの時代では、人数が集まれば貴族の私兵や傭兵が武装した民衆に打ち破られるようなことも普通になっている。


 数万人ともいわれる市民がパリのオテル・デ・ザンヴァリッドで銃器を奪い、その後弾薬庫であったバスティーユ牢獄を襲撃、制圧し、守備していた司令官やパリ市長、元陸海軍総監やパリ知事も殺されるに至った。


 この時バスティーユ監獄はほとんど空の状態で市民の襲撃は政治犯を解放するための行動というわけではないのだな。


 この民衆によるバスティーユ監獄制圧があっという間に各地に伝えられると暴動はフランス全国にひろまり、農民達が貴族や領主の館を襲って借金の証文を焼き捨てるという事件が各地で発生した。


 王であるルイ16世は、貴族と平民の争いを収めたかったようだが、聖職者や貴族などの特権階級の人間は、平民を侮蔑しており国王の周囲は強硬派で占められていたので板挟みになって、民衆にいい顔をしながら貴族や外国と通じたりしていたようだ。


 やがて物価高騰を理由にパリの数千の女性達が武器を持って雨の中パリ市役所前の広場に集まり、ヴェルサイユ宮殿に乱入、国王と議会に食糧を要求する。


 この時に言ったとされる有名なマリーアントワネットの台詞が、


「パンがないなら菓子ブリオッシュを食べればいいじゃない」


 というものだが実は彼女はそんなことはいってないらしい。


 そしてマリーアントワネットは夫の宮廷改革を支えようとしていたようだが、他国から嫁いできた女が貴族の伝統を壊すことを良しとしない保守的な伝統的大貴族勢力から反感をかっていた。


 さらに革命発生後はフランスの情報を実家であるオーストリア皇室などに流し反革命の立場を取ったことが裏切り行為ととられた。


 つまりフランス王夫妻はかなり孤立していたわけだな。


 マリーアントワネットはむしろ性格は善良な人間だったようであるから運が悪かったと言うしか無いな。


 この時期の革命政府はミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・ド・リケッティや独立戦争の英雄でもあるマリー=ジョゼフ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベール・デュ・モティエ, ラファイエット侯爵ら身分的には貴族だが立場として平民側に加わった立憲君主制派によって指導されていたが、1791年のミラボーの病死と、その死後にミラボーがルイ16世と交わした書簡と多額の賄賂の存在が暴露されて立憲君主制派は立場を失い、王政打倒を主張するジロンド派や山岳派が勢力を大きく拡大させた。


 そしてフランスは革命の自国への波及をおそれたプロイセンやオーストリアと戦争状態になっていたがフランス軍の士官達は殆どが貴族階級であったため、革命政府に協力的ではなく、王や王妃はオーストリアなどにフランス軍の作戦を漏らしていたのもありフランス軍は各地で戦いに敗れていた。


 しかし王妃が世間知らずなのが致命的だった、1791年王やその家族はフランスから脱出してオーストリアへ亡命しようとしたが、家臣の国王と王妃は別々に行動するようという提案を王妃は断り、家族全員が乗れる広くて豪奢で足の遅い馬車に乗って逃げようとした。


 そして、結果として国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、パリへ連れ戻された。


 このヴァレンヌ事件はたちまちフランスの国内に広まり、国を捨てたと国王一家はそれまでの親国王派の国民からも見離されてしまうことになる。


 そして、王や王妃がオーストリアと通じていた証拠の文書が発見されたと、開催された国王裁判の結果、王であるルイ16世の死刑が決定し、ギロチンにかけられることになった、そしてマリーアントワネットなどの家族もそれに続くことになる。


 王と王妃を処刑したフランスに対し、イギリスを中心としたヨーロッパ諸国は第一次対仏大同盟を結成し、フランス包囲網を形成する。


 一方経済や軍事面での革命政府主戦派であるジロンド派の失政に対し、ロベスピエールを中心とした山岳派が優位に立ち、やがて革命政府内の内ゲバによってジロンド派が粛清され、パリでは恐怖政治が展開されていくこととなった。


 一方1792年から1793年にかけて、コルシカ島ではフランス革命のゴタゴタのスキをついてイギリスに亡命していたパスカル・パオリがコルシカに帰還した。


 そしてパオリとその腹心ポッツォ・ディ・ボルゴらがイギリスの間接統治を主張するパオリ派を形成、独立戦争の英雄であるパオリ派の支配するコルシカ島から、フランスに寝返った裏切り者であり前のフランス総督とも仲の良いブエナパルト一族は島から追放された。


 コルシカに居場所をなくした一家は読みをコルシカのよび方であるブエナパルトからフランス語読みのボナパルトと改め、一族全員でマルセイユに移住した。


 そして移住先のマルセイユで、裕福な絹商家であるクラリー家と親交を深めた。


 ジュゼッペからジョゼフに呼び方を改めた兄は、クラリー家の娘ジュリーと結婚した。


 私もクラリー家の末娘デジレと恋仲となった。


 しかし貧乏仕官であった私との結婚をデジレは父には反対されたようだ。


「うむむ、貧乏というのは辛いものだな」


 気落ちしている私にデジレは慰めの言葉をかけてくれた。


「大丈夫よ、ちゃんと父は説得してみせるから」


 やはり良い娘だな。


 1793年私はフランス革命軍の指揮官カルトー将軍の南方軍の麾下に加えられた、海軍である私がなぜゆえにということだが、単純に革命後のフランスにとっては士官が不足していたし、この時地中海では運用可能な艦隊もないに等しい状況だったからだ。


 実際他の海軍士官や水兵も加えられていたしな。


 そして、重要な戦略拠点であり近代的城郭を備えた港湾都市トゥーロンはフランス地中海艦隊の母港でもある、そのトゥーロンの攻囲戦に参加することになった。


 1793年ジロンド派議員の逮捕と粛清の後、フランスのリヨン、アヴィニョン、ニーム、マルセイユ各市が相次いで反乱を起こし、港湾都市トゥーロンでも、穏健派によるジャコバン派の追い出しが行われた後で多数の王党派によって占拠された。


 しかし、山岳派の派遣した革命軍によるリヨン及びマルセイユの奪還と、その後の山岳派によって行われた虐殺がトゥーロンのダンベール男爵に伝わると彼らはイギリス・スペイン連合艦隊に援助を求め、イギリスとスペインはイギリスやスペインを中心としたフランス包囲網の同盟国各軍からなる13,000人の軍隊を送り込み、ダンベール男爵はルイ17世のフランス王位継承を宣言して王党派の旗「フルール・ド・リス」を掲げ、トゥーロンの町をイギリス海軍に委ねた。


 これはフランスの王家をイギリスに売るようなものではあるとは思うがな。


 さて、フランス革命政府軍は画家からフランス革命を機に将軍になった、ジャン・フランソワ・カルトー将軍を総指揮官としてトゥーロン包囲戦は開始された。


 そして、カルトー軍の配下の砲兵隊長の負傷により、私はオーギュスタン・ロベスピエールとアントワーヌ・クリストフ・サリセティによってその後任となった。


「私の立案した作戦を何故採用しないのですか?!」


「貴様のような若造がでかい面をするな」


 無能なカルトーにより私が提案した作戦は改悪され、要塞への無謀な攻撃は失敗し、敵は防備を一層固めてしまった。


 最終的にカルトーは解任され、以前は医者だったドッペが指揮官となった。


 しかし彼も攻撃に失敗し自らの無能に気づいて辞任した。


 彼の後任のジャック・フランソワ・デュゴミエはたたき上げの職業軍人で、私の作戦を受け入れた。


 おおざっぱにいえば港を見下ろす二つの高地を奪取し、そこに砲台を設置して敵艦隊を上から狙い撃ちにするというものだ。


 結果としてはイギリスの指揮官チャールズ・オハラ将軍を捕虜とし、諸外国の艦隊をトゥーロンから追い払い反革命軍を降伏に追い込んだ。


 その後ポール・バラスとスタニスラ・フレロンによる捕虜の銃殺もしくは銃剣での刺殺が行われ、王党派に協力した市民は大部分が虐殺され、財産を没収されたと考えられている。


 私は作戦中にイギリス軍の軍曹の銃剣で負傷した脚の治療を受けていたため、この大虐殺には立ち会わなかったがな。


 結果として私は海尉から一度陸軍中佐に相当するフリゲート艦艦長に二階級特進した後、少将に再度二階級特進し、提督と言われる立場となった。


 まあこれは階級の高い海軍士官は貴族階級がほぼ独占していたため、革命に伴い、処刑や亡命によってその人数が激減したから行われたことではあるのだが。


 そして陸軍も同じようなものだった、無能な元画家や医者が将軍になれる状況を考えればわかるだろう。


 そして、私は地中海方面海軍司令となりトゥーロン軍港とフランスの地中海艦隊を預かる立場になった。


 これで正式にトゥーロン軍港の海軍提督府にて製鉄所や造兵廠、海軍施設ドックなどを作ったり、船や砲、銃器などの改良もできそうだな。

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