琴と応為

 翌日、三笠の屯所には座頭の按摩あんまが訪れていた。

 按摩は日ごろから激しい撃剣で肉体に疲労がたまっている組士たちにはうってつけの治療なので、座頭の男が施術する道場の座敷には長蛇の列ができていた。

 そして日常に退屈している組士たちは、今日もまた武蔵に新しいことを体験させて、その反応を見てやろうと、座頭のいるところへ武蔵をつれていく。

「武蔵さんこっちっすよっ」

「桑原さまが仰っておりました。もしかしたら武蔵さまは按摩を知らないかもしれないと」

 琴と弥一郎が武蔵をいざなう。

「こいつぁ見ものだなぁ。あの宮本武蔵がどんな按摩してもらうのか」と、組士の一人が言った。

 この頃には新徴組組士たちはこの宮本武蔵を名乗る男が本物かどうかはどうでもよくなっていた。例え偽物であろうとも、この愉快な剣の達人が仲間であるという事実が大事だった。

「ああっとは」

「まぁまぁ、とりあえず武蔵さんも按摩をやってもらうといいっすよ。何せ、あれだけ激しい剣を使うんすから、そうとう体中に疲れがたまってんじゃないっすか?」

「疲れ?」

 武蔵は道場付設の御座敷に入るなり、座頭の男を見て首を傾げた。そこにいたのは頭を剃り上げた長身で細身の男だった。まるで額の先端で周囲の様子を探っているように首をゆっくりと振り、たまにまぶたの間から白目が見えている。

「おおっお前は目が見えんのか……?」

 座頭は首を武蔵の方に向けた。やはり、瞳ではなく額の先端で物を観ているようだった。

 武蔵は座敷に入る。武蔵が踏みしめると、畳がみしりと音を立てた。

「こりゃあ、随分と大きな……」

 座頭は武蔵を観てその大きさに驚いた。しかし、後の言葉が続かなかった。最初の目の前の男が発した一言で、武蔵が巨大であるのは分かった。しかし、その巨大さの向こう側にある得体の知れなさを、瞳なき瞳で多くを観てきたはずの座頭でさえ、なんと形容していいか分からなかった。

 臭いが違う。発する声の質が違う。畳を踏む足音の拍子も自分の知らないものだった。

 だが、一方の武蔵も座頭を興味深く見ていた。按摩に従事するのを座頭の組合だけと定め、そして広まったのは江戸時代の中頃だったからだ。桑原玄達が予想した通りだった。

「じゃあ武蔵さま、そこに横になってくださいまし」

 琴は畳の上を指した。

「横に? ここっこの男の前で横になれと?」

「そうですよ」

 武蔵は座頭の男を改めてみる。道具は何も持っていないようだった。

「……ふむ、つまり推拿すいなをこの男がやるという事か」

「すいな?」

「知らんのか? みみっ明の技術だ。手を使って悪い気が溜まったところを治療する」

 琴たちは顔を見合わせる。知らないであろうものを武蔵に紹介しようとしたら、さらに知らない知識を披露された。

「ななっなるほど、盲人ならば手の感覚に頼ることが多い。常人よりも推拿に向いておるかもな」

「ええ、そういうことでございますなぁ」

  座頭の男は頭を下げる。一度ではなく数度、波打つようなお辞儀だった。

「大きい旦那、じゃあ按摩は受けたことがあるという事でよろしいでしょうか?」

「いやっ、俺も書で知ってるくらいだ。そういう技術が明になるというなっ」

 そう言うと、武蔵は座頭の前に歩み寄り豪快に寝そべった。ただし仰向けに。

「だ、旦那、うつ伏せでお願いしやす」

「そうかっ」

 武蔵の巨体がごろりとうつ伏せになった。

「で、では、始めさせていただきやす……。」

「うむっ」

 座頭は手を数回こすってから、武蔵の背中に手を置いた。

「……。」

 しかし座頭はすぐには施術を始めず、首を傾げるとまた別の場所を触り始めた。数度武蔵の体を揉んで座頭は額にしわを寄せる。

「こりゃあ……。」

 座頭は驚いたように天井を見上げた。

「いかがなさいましたか?」琴が訊ねる。

「驚きましたぁ……この方、赤子みたいな体してらっしゃる……。」

「赤子っ?」弥一郎が素っ頓狂すっとんきょうな声を上げた。

「へ、へい、この御方の体……まったく疲れておりません……普段から、無駄な力を一切使わずに生活してらっしゃるのかと。……赤子ってのは、ふにゃふにゃの体でも四つん這いでやたら動けるもんですが、ありゃあ筋肉を使わず、骨を器用に動かして動いておりやして……つまり、この旦那は赤子みてぇに、普段から骨の動きで生活してらっしゃるってことです……。」

 背丈が六尺(180cm)もある赤子、いよいよこれは物の怪のたぐいではないだろうかと組士たちは疑った。

「うむっ、りきんでもけけっ剣には影響がないからなっ」

「剣に影響がない……ですか?」

 あれだけの剛剣を振るっておいて、剣に力は不要という武蔵の言うことにはさすがに説得力がなさそうなものだったが、しかし、確かに武蔵の剣には剛腕以外の何かがある、それは立ち会った者たちが感じていることだった。

「よ、世の中にあるもので、力んでどうにかなるのは角力すもうくらいだ」

「へ、へぇ……。」

 いつの間にか、座頭の方が武蔵の話を聞くようになっていた。

「え~と、つまり……」弥一郎が言う。「武蔵さんには、按摩やっても意味がないってことっすか?」

「あっしの技にゃあ……御用がないお体ですねぇ……。」

 座頭は「は~」と感心しながら、武蔵の体を揉み続ける。

「こんな体にゃお目にかかったことがありやせんやぁ……。」

 武蔵の尋常ではなさに、改めて組士一同は驚きを隠せなかった。

「お琴さん、お客さんですよ」

 そこへ、沖田林太郎が顔を出した。

「お客さま? わたくしにですか?」

 琴が屯所の道場の外に出ると、屯所の門の前に、遠巻きからでも葛飾応為かつしかおういが立っているのが分かった。小さすぎても人は目立つようだ。

「応為さんっ」

 琴は手を振った。

 しかし、応為は顔をそらして気まずそうに小さく手を振る。

「……?」

 琴は改めて応為に近寄って話しかける。

「応為さん、どうなさったんです? わざわざ新徴組うちの屯所に来るなんて……。」

「昨日はさ、買い物に手伝ってくれた礼をきちんと言ってなかったからさ」

「え? だって、わたくしたちが応為さんのお家にお邪魔したんですから、お買い物くらいは当然の事かと……。」

「と、とにかく、礼を言わないとあたいの気が済まなかったんだよっ」

「あ、そ、そうですか……。」

「ところでさ、あんた、今日は時間ある?」

「え? 今日ですか? えっと、あるといえば……ありますけど……。」

「じゃあさ、今日も買い物に付き合っておくれよ」

「は、はい……。」

 応為は「ん」というと歩き出してしまった。

 琴は、応為が「礼を言う」と言ったが、特に礼はないことに気づいた。

 その後、琴と応為は茶屋に行き団子を食べた。琴がおすすめの店だというと、応為は「いいんじゃない?」とボソッと言うだけだった。

 その後も、琴は応為に蕎麦屋や芝居小屋に連れて行かれた。琴がお金を出すといってもことごとく断られた。応為はそのたびに「この間の礼だから」と言うだけだった。

 ぎこちない散歩だった。二人の身長がかけ離れているだけではなかった。想いが掛け違いになっていた。

 琴は何かを言おうと口を開きかけるが、むすっとした応為の様子に黙ってしまうのだった。

「……あれ?」

「なにさ……?」

 二人の視線の先には、琴の兄の良之助がいた。琴と同じく非番だった良之助は、町の女といちゃつきながら往来を歩いていた。いちゃつくにしては体をお互いに預けすぎている。まるで、すでにをやった後かのようないかがわしい雰囲気がしている。しかも、着物の着崩し方からして、女は恐らく気質かたぎではないようだった。

「あにさまっ」

「ん、おお~、琴ちゃんじゃないかぁ」

 良之助も琴に気づいて手を振った。

「まだ日も高いうちからなんてふしだらなっ」

 琴は怒って、地面を踏みしだくようにして良之助に近づいていく。

「怒らないでくれよぉ~、せぇっかくいい気分なんだからさぁ」

「うわっ、お酒くさっ、もう飲んでいらっしゃるのですかっ?」

 勢いよく近づいた琴だったが、良之助から漂う酒の臭いに顔をしかめ手を振る。

「いいじゃないのさぁ、俺たち新徴組はぁ、命かけてお江戸を護ってんだよぉ? いつ死んじゃってもおかしくないんだからさぁ~」

 隣の遊女風の女は「まぁ」とわざとらしく驚き、良之助は「おゆいちゃ~ん」と、かぶりつくように女に体を寄せる。

「ま、まったく、そんな風だから、良い歳をしても縁談をことごとく断られるのではありませんかっ」

 整った顔立ちにも関わらず、背中に背骨が通っていないような性格のせいで、良之助は郷里の女たちからは評判がたいそう悪かった。

「母上みたいなこと言うのやめてくれよぉ、せっかくあの片田舎から出てきたっていうのによぉ。それ言うんなら、お琴はどうなるぅ?」

「わ、わたくしは、妹の務めとして、兄より先に縁談を結ぶわけにはいきませんからっ」

「うはぁ、こりゃ一本取られたたまらんたまらん」

 良之助はわざとらしく頭を抱え、側の女とくすくすと笑いながら去っていった。

「……お兄さんかい?」

 後ろから応為が訊ねる。

「……恥ずかしながら」

「兄妹であんなにも違うものなんだねぇ……あ、もしかして悪いこと聞いちまった……」

「実の兄妹でございます……たぶん」

「へぇ、世の中、不思議なもんだ」

 応為は横目で琴の様子を一瞥する。

「ま、何だかいけ好かない奴だったね」

「そ、そうなんですよっ、女癖は最低で、村でも町でも女性にょしょうをとっかえひっかえっ」

「そのくせ、女にやさしいって訳でもなさそうだ」

「おっしゃる通り、さすが絵師でございますね、人を見る目がございますっ」

 ふたりは微笑みあった。

「そ、それでさ、あの、このあいだは……その……」

 応為は何かを言おうとしどろもどろし始めた。

「はい……?」

「お、お待ちくだせぇ、旦那方ぁ!」

 二人のあいだの静けさが、町人の叫び声で打ち破られた。

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