葛飾応為

 武蔵たちが応為に連れてこられたのは、顔料を卸している店だった。かなり年季の入った店で、店内からは各種顔料が混ざったような匂いが放たれている。

「……どうしてここに?」

 琴は応為に訊ねる。

「あたいはだしご主人も高齢でね、前々から棚から品物を卸すのに難儀してたんだよ」

「はぁ……。」

 応為は琴と武蔵を見てにやりと笑う。

「そこに、ちょうどあんたたちみたいなデカいのが来てくれたってわけ」

「……なるほど」 

 そうして、琴と武蔵は応為に言われるままに、脚立やはしごを使わないと取れないような場所の品を次々に下ろし、最終的には店主に頼まれ応為の買い物とは関係のない顔料の整理も手伝うことになった。

 せっかくの機会だからと顔料を買い込んだ応為、大量の荷物は武蔵が全て持つことになった。

「最初は怪しい奴だと思ったけれど、ここまでやってくれると便利なもんだね。最初は失礼な事を言っちまって申し訳なかったよ」

「ここっこの体であれこれ言われるのはむしろ誉れだ。お前の気性があの絵を生み出しているのと同じでな」

「すんごい前向きなんだね、あんた」

「くくっ悔いを抱くには、人生は短すぎるからな」

「そりゃそうだ」

 武蔵たちは応為の作業場に案内された。

「うわぁ……」

 思わず弥一郎が口にする。応為の部屋は散らかっているという言葉で表現できないほど物が散乱していた。一見すると、ゴミの山のようにも見えるが、ゴミの上に使いかけの塗料が入った皿が乗せられているし、唯一足の踏み場かと思った場所には描きかけの絵がある。整理はめまいのするほどできていないが、本人的にはどうやら整頓はされているようだった。

「どうせもうすぐ引っ越すからね……そのままにしてるんだよ」

 しかしこれはの次元を超えているだろう、と琴と弥一郎は顔を見合わせた。

 応為は子供が敷石の上をでやるように、片足で飛び跳ねて部屋の中を移動する。その様が愛らしくて、琴は思わず笑みを浮かべてしまった。

「あんたたちは……」

 応為は琴たちが入る場所を探して部屋を見渡す。

「あ、わたくしたちはこちらからお仕事している様子を見せていただきますので……。」

「せっかく来たんだ、遠慮しなさんな」

 そういって応為はゴミ山の一部を蹴り飛ばし空間を作った。もしかしたら、整頓もされていないのかもしれない。

「あ、そういやぁ、そこのデカいのはどうしたって入りようがないから、裏から回ってくれるかい」

 応為は顎をしゃくって武蔵を差す。

「うむ」

 武蔵は裏に回った。不快な表情一つ浮かべない、聞き分けの良い武蔵に応為は拍子抜けするが、武蔵とはそういうものだと分かりつつある琴と弥一郎には驚きはなかった。

「さて……」

 応為は煙管きせるに火をつけぷかぷかと煙草を吸い始める。子供の様ななりをしているが、その様を見ると成人の女性だという事が確信できた。

 だが、「さて」と言ったものの応為は中々絵を描きはじめない。描きかけの絵をじっと見つめては筆を取り、しかし筆を濡らすだけで絵には触れず、触れたかと思えばほんのひと塗してまた煙管を吸い始めた。

 自分たちがいると邪魔なのだろうか、そう思って琴と弥一郎は武蔵を見るが、武蔵はその様を興味深そうに見ていた。

「あんた、女なのに男の恰好してんだ?」

 突っ伏すように絵と向き合いながら応為は訊ねる。

「は、はい……。」

「ふぅん……かぶいてるねぇ」

「そう……ですね……。」

「そういやぁ最近ちまたで噂になってる新徴組、そこにも男の格好してる女がいるってぇはなしだねぇ……。」

「で、ですねぇ……。」

 自分たちが新徴組であると打ち明ける機会を逃してしまっていることに琴たちは気づいた。

「何だか気に食わない奴らだよねぇ」

「……ですかね?」

「農民とか町民の中でも、特に脛に傷があったりいわくつきな奴らを集めたってぇ話じゃないのさ。そんな奴らがお上の墨付きもらった途端に偉そうにして、ほんの少しまで自分と同じだった町民連中を問答無用で斬ってんだよ。やだねぇああいうのは、立場が変わった時ってのはそいつの本性がうかがえるんだが、刀持った途端に人を斬れるってのは、性根が人を殺すような奴らだってことなんだよ」

「そうかもしれませんね……。」

 会話をしているようだったが、会話が進むにつれて応為の筆は速くなり始めていた。

「で、でも、江戸の平和を守ってるって人たちもいるっす」

 弥一郎が言った。

「息苦しいよ。平和って事と住みやすいって事は別もんじゃあないのさ」

「うむ、そっそそいつの言う通りだ。泰平あっての自由だが、自由なき泰平など流れをせき止められた川の様なものだ。やがて沼と化す」

「良い事言うねぇ……。そうだよ……人ってのはさぁ……何のために生きてるかじゃない……ただ生かされて感謝しろなんてねぇ……自分のために生きてこその人生じゃないのさ……斬った張ったでつないで平和の中じゃあ……良い絵なんて描けやしないよ……。」

 そういう応為だが、ほとんど上の空の様な声色だった。受け答えをしているようであるものの、完全に絵に集中しつつある。

 やがて応為は何も話さなくなり、黙々と絵に筆を走らせ始めた。

「あんたさぁ……」

 琴たちは応為が誰に話しかけたのか分からずに、互いに顔を見合わせる。

「おねえさんだよ」

「あぁ、はい」

「今度さ……あんたの絵ぇ描かせてくれないかね?」

「絵……ですか?」

「そ……あんたのからだ、服越しでも立派なもん持ってるってのが分かるよ」

「えっ?」

 驚く琴、弥一郎を見ると、弥一郎は慌てて顔をそむけた。

「変な意味じゃないよ。あんた、成りだけがかぶいてるってわけじゃないね、そうとう体も作りこんでる。あんたみたいな女、そうそういないからさ。絶対に良い絵が描けると思うんだよね……。」

 口の形こそは微笑んでいるが、応為はまっすぐに絵を見て筆を動かしている。

「その、絵の被写体になるってことは……。」

 琴は応為の部屋に散らばっている絵を見た。春画だった。あられもない姿で男女が絡み合っている。みるみる琴の貌は紅潮していく。

「裸にするのもいいけど、花魁おいらんの恰好なんかどうだい?」

「花魁? わ、わたしがですか?」

「そう、すごく似合うと思うんだよねぇ。すらりと手足は長いし、首も長い。花魁の恰好させたら、映えると思うんだけどなぁ」

「わたくしが……花魁ですかぁ……」

「ただ立ち姿じゃあもったいない、ちょいと着崩したいかな。肩だして……足もさ、が見えるかどうかぎりぎりのところまで見せて……足腰強そうだからさ……きっと他にはない絵になるよ……。」

「そ、そんなみだらな恰好、できるわけないではありませんかっ。ねぇ弥一郎さん……どうしました、弥一郎さん?」

 弥一郎は頭を畳に着けそうなほどに前のめりになっていた。腰は抜けたかのように引いている。

「な、何でもないっす……!」

「わ、わたくしが絵になるんだったら、む、武蔵さまなどどうですか? わたくしなんかより、ずっと立派な体をしてらっしゃいますよっ」

 応為は武蔵を一瞥いちべつする。

「いいね、妖怪とか描けそう」

「よ、妖怪ですか……。」

 すでにもう妖怪みたいなものではないか、琴と弥一郎はひっそりと思った。

「よよっ妖怪とは光栄だな。良いだろう、この体を使いたい時が来たら遠慮なく言うがいい」

「おぉ、うれしいこと言ってくれるねぇ」

「お、俺は何をすればいいっすかっ?」

「あんたかぁ……あんたも体つきが良いからねぇ、裸の絵とかどうだい」

「は、裸っ」弥一郎は春画を見る。「そ、それはっおねえさんと一緒に、その、こう、くんずれほんずれとかっすかっ?」

 鼻息荒くする弥一郎を琴はやや引いて見ていた。

衆道しゅうどうの旦那衆に受けそうだよ……あんたみたいに若くてうぶな奴……。」

 真っ赤だった弥一郎の顔が一瞬で青ざめる。

「そんな趣味は……。」

「いいじゃないのさ。どんな形でも……求められるってのは嬉しいし甲斐のあるもんだよ」

「弥一郎よ、戦場での衆道はたしなみのようなものだ。信長公も信玄公も、気に入った小姓には禄を与えておったぞ」

「そんなの興味がないっす……。」

「尻で天下を取ることに何の躊躇ためらいがあるっ?」

「ためらいしかねぇっす!」

「まったく、ああ、あきれたやつだ」

「だったら武蔵さんだって、尻で天下を取れるって言われたらやるんすか?」

「おお、俺は天下に興味はない。俺が興味のあるのは天下を取る方法だけだ」

「ずりぃ……。」

「いいねぇ、愉快だねぇ、筆も乗ってきたよ……。」

 応為は口に筆を咥え両手に筆を持ち始めていた。瞬きを忘れたかのような瞳、はいつくばって爪を立てる四肢、その様はさながら絵を描くことに呪われた獣のようだった。武蔵を恐れた彼女のほうが、むしろ絵巻物から出てきた物の怪のようでさえあった。

 そんな応為を見ながら武蔵は怪しい微笑えみを浮かべている。本人はいたって普通の笑みかもしれなかったが、琴や弥一郎には怪しく見えた。

 半刻ほど応為が絵を描いているのを見続けた三人だったが、その頃にはもう応為が三人の事を意識さえしていないようだったので、三人は邪魔しては悪いと、声をかけないで長屋から出て行った。

 応為はそのまま集中して絵を描き続けた。日が暮れてようやく武蔵たちが帰ったことに気づいた。それでも、応為は気にすることさえ時間が惜しいように、油に火をともし、その光で作業を続けた。

「……?」

 集中を続けた応為だが、夜の静けさに異変を覚えた。

 すでに夜四ツ(22時)だというのに、長屋木戸を動かしている様子がなかった。

 長屋木戸とは、夜になると防犯のために長屋が並ぶ縦長の一帯、その前後の入り口を塞ぐ大きな木戸の事だ。長屋の大家がその木戸の鍵を管理しており、そろそろ準備を始めてもおかしくはない。特に、応為の部屋は木戸のすぐ裏にある。大家が木戸を閉める準備をしていたら、すぐに気づくはずだった。

「あたいの耳が遠くなったのか……?」

 応為は木戸に向かうと木戸は空いていた。

「おいおい……。」

「なんだぃ応為さんじゃないかい」

 そこへ、長屋の大家の女将さんがやってきた。

「なんだいじゃないよ、どうしてこんな時間まで木戸を開けっぱなしなのさ」

「え? だってさぁ、夕方頃まであんたのところにいたの、あれって新徴組の奴らだろう?」

「え?」

「おまわりさんがここいらにも直々に来てくれるようになってことでしょぉ? 夜を怖がる必要がないんだからさぁ、そんなに慌てて門を閉める必要もないかなって思ったんだよ」

(あいつらが新徴組だったのか……。)

「大家のおかっちゃん、随分あいつらを頼りにしてるんだね?」

「そりゃあねぇ、悪い奴らなんて問答無用で切っちゃうんだから、お奉行様よりも頼りになるじゃないのさ。最近じゃあ“新徴組がないとお江戸は立たぬ、おまわりさんには泣く子も黙る”って言われてんだから……どうしたのさ?」

「いや……何でもないよ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る