江戸の日常

 その日は、中沢琴と千葉弥一郎が武蔵に江戸の町を案内することになっていた。行先は武蔵の願いで地本問屋じほんどんや(地本を出版する本屋。江戸中期以後,娯楽用の絵入り本の出版が盛んになった)だった。自らも絵をたしなむ者として、自分が生きていた時代から二百年経った今、絵がどうなっているのか興味があるようだった。

「剣は俺のいた頃より酷いものだが、絵に関しては酷くなるという事はあるまい。……くっくくく、もっとも団子のようではたまらんがな」

 道中、武蔵は上機嫌だった。とかく、何かを見聞するのが好きでたまらないようで、この男があれほど有名になりながらも、一所にとどまらずに諸国を放浪していたのが何となく分かる気がしてきていた琴だった。


 ──馬喰町ばくろちょう二丁目角・永寿堂えいじゅどう


「武蔵さま……武蔵さまっ」

 琴は周囲を気にしながら武蔵に小声で声をかける。

 武蔵は食い入るように一枚の絵を見ていた。食い入るという表現がこれ以上見あたらないというほどに食い入っていた。武蔵が見ていたのは夜の吉原遊廓を行き交う人々の様子を描いた絵だった。

「気に入られましたかな」

 店主が恐縮そうに武蔵たちに声をかける。

「素敵な絵でございますね」

 琴は慌てて取りつくろうように言う。

「ててっ店主よ」

 武蔵は目を見開いて店主を見る。

「はい」

「ここっこの絵、光っておるぞ」

 その浮世絵は当時の日本の絵画とはかけ離れた技法が使われており、提灯の灯が明暗を強調した表現によって、あたかも本当に光っているかのように描かれていた。

「え、ええ、そうですねぇ、素晴らしい浮世絵ですよ」

「うきよえ」

 浮世絵が成立したのは、宮本武蔵の死後四十年ほど後のことだった。

「ここっこれを描いたのは誰だ」

「書いた絵師でございますか。こちらは、葛飾応為かつしかおういの作になります」

「葛飾……。」

「葛飾……北斎ほくさいではなくてですか?」と、琴が訊ねる。

「はい、葛飾と言えば北斎ですが、その絵師は北斎の娘になります」

「娘?」声を上げたのは琴だった。

 武蔵の片目がぎょろりと動き、その琴の様子を見る。

「ふむ、そそっその絵師に会うことはできんか?」

「え? その絵師にですか? その……絵のご依頼などでしょうか?」

「いや、ただその絵師に興味がある。武蔵がまったく知らない絵を描くのがどのような人物か、ちょいと面相なりを見てみたくてな」

「はぁ……しかし……。」

 奉公人が手に手紙を持って言う。

「旦那様ぁ、ちょうど応為さん宛てのご依頼があるんで、彼らに変わりに送っていただいたらいかがでしょうか?」

「代わりにってお前、初めてこの店に来なさった方々に小間使いみたいな真似を……。」

「でも、お侍さんにお願いしたほうが安全じゃないですか?」

 店主は武蔵たちを見る。琴と弥一郎は武蔵を見た。

 武蔵たちは奉公人に代わって葛飾応為に手紙を届けることになった。なぜ直接依頼人が行かないのかと琴が訊ねると、応為は住む場所を頻繁に変えているので、お客様が応為のいる場所までたどり着けないことがしばしばあるからということだった。

 武蔵たちが向かったのは、裕福ではない町人たちが住まう裏長屋の密集地だった。

 細い路地を曲がり、教えられたとおりの場所に向かっていたところ、何やら口喧嘩が聞こえてきた。

「おうおう、冗談じゃねぇぞ! てめぇが先にぶつかってきたんだろうが! なにぃ、小さいから見えなかっただとぉ!?」

 物が壊れる音がすると、長屋の角から男が頭を抱えて飛び出し、そして武蔵たちの横を走り去っていった。

 何かしらの厄介ごとがあの角を曲がったところにあるのではないか、琴と弥一郎は顔を見合わせる。

 次に角から出てきたのは女だった。かなり背が低い。四・六尺(140cm)もないようだった。背が低い上に童顔であるために年齢は測りづらい。

 そんな小動物のように人畜無害そうな女だったので、琴と弥一郎はその女は先ほどの喧騒けんそうとは関係ないと思った。しかし──

「……な、なんだてめぇはーっ!」

 その女は武蔵を見るなり下駄を脱いで投げる構えを見せた。声から言って、先ほどの怒鳴り声の主とみて間違いなかった。

「お、落ち着いてください! わたくしたちは怪しいものではありません!」

「そのデカブツはどう見たって怪しいだろうがっ!」

「みみ、見た目で判断しないでくださいっ」

「その限度を超えてんだよそいつぁ!」

 背が低く童顔だが、その内側に詰まっている感情の大きさは、本体の倍はありそうな女だった。

「ここっ琴よ」

「何ですっ?」

「そいつがかかっ葛飾応為だ」

「え?」琴は小さな女に言う。「あなたさまが葛飾応為さまですか?」

 葛飾応為は下駄を持ったまま言う。

「……そうだけど、あたいに何の用だい?」

「あの、永寿堂さんからお手紙を……。」

 琴が目配せをすると、弥一郎が手紙を見せながら応為の下へ行く。

「何だい、あんたら永寿堂の旦那の所の使いかい? にしては……」

 いかがわしいものを見るように応為は武蔵を見る。

「すみません、永寿堂に無理を言ってわたくしたちがその手紙をお届けすることになって……。」

「なんでさ?」

「それは……」

 琴は武蔵を見る。

「うむ、おおっお前の絵がやたら素晴らしいのでな、どんな人物があの絵を描いているか知りたくなって店主に無理を言ったのだっ」

「あたいの絵が最高だってのは、あたいが一番よく知ってるよ」

「だろうな、他と比べても明らかに頭一つ抜けておるわ。富士が他の山に謙遜などしても嫌みにしかなるまい」

「……熊みてぇな奴だけど、物は分かるみたいだね」

「うむっ、で、お前はどどっ何処で絵を描いてるんだ?」

「何処でって、あんたもしかして、描いてる所まで見に来るつもりかい」

「そのつもりだ。いかんか?」

 だめだとは言えるはずなのに、目の前のこの男はまるで人の話を聞く気配がない。応為には、武蔵は絵は分かるようだが、絵は分かる熊みたいな存在の様な気がしていた。応為はせめて話が通じそうな琴を見る。

「あ、あの、だめなのは当然だと思います。本当に急で失礼な話です。ただ、この方はどうにも好奇心が強くて……あ、でも、本当にお嫌だったらわたくしたちはこのまま帰りますので……。」

 応為は伺うように琴を見る。

「あんた、女なのかい」

「は、はい……。」

「ふぅん……。永寿堂の旦那のお使いってんなら、ついでにあたいの頼み事も聞いてもらえるかね。それを聞いてくれるんだったら、仕事場も見せてやってもいいけど」

「あ……ありがとうございます」

 琴はぺこりと頭を下げた。

「じゃあついてきて、ちょうど出かける所だったんだ」

 そう言って、応為は武蔵たちの間を通り抜ける。

 先頭に立った応為がふり返って言う。

「ところで……あんた、どうしてあたいを見てすぐに葛飾応為だって分かったのさ?」

「ててっ手に塗料がついている」

 自分の応為は手を見る。

「それに俺を見た時、怪しいと言ったな」

「見たまんまじゃないのさ」

「見たままを見た儘に直感として口に出す、絵師ならばそれくらいの眼と心臓を持っていないとな」

「ふぅん」

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