第二章 平和を護る者たち

昔日の夢

 ──寛永元年(1624年)尾張藩名古屋城道場


 尾張柳生やぎゅうの高弟の顔は青ざめていた。

 彼に相対するのは、大小二刀の木刀を構えた宮本武蔵だった。

 すでに二人の新陰流の高弟が武蔵によって敗れている。その前の二人の犠牲を以てしても、なおも武蔵を攻略する突破口が見えないのである。

 二刀で構える武蔵の剣の制空権はあまりにも広く、打ち込むことが全くできなかった。打てば片手の一刀が防ぎもう一方が攻撃する。守れば一刀に押され二刀目が必ず当たる。

 不思議なものである。腕ならば一本よりも二本あった方が武術では有利だ。なのに、なぜ多くの者が二刀を使わないのか。武蔵を前にすると、そんな疑問が誰しもの頭に浮かぶ。

 しかし理由は明瞭めいりょうだ。片手で持つ剣は、両手で持つ剣には打ち負けるからだ。

 だが、この宮本武蔵玄信の二刀は片手でも常人の一刀の強さを持っている。

 こうなってしまってはどうしようもない。

 武蔵が刀を交差させ近づいていく。柳生の高弟の眼前には木刀の輪ができたように見える。

 この輪、こちらが打てば崩れて二刀同時の攻撃となり、何もしなければ交差したまま押し切られ、一刀で鍔迫り合い、もう一刀で切り込んでくる。

 もはや完全な剣法としか言いようがない。

 武蔵と同時代に生きた朱子学派儒学者・林羅山は武蔵の剣をこう評している。


 ──剣客・新免玄信(宮本武蔵)は、一手ごとに一刀を持ち、称して曰く「二刀一流」。その撃つところ、また刺すところ、縦横抑揚おうだんよくよう屈伸曲直くっしんきょくちょく、心に得、手に応じ、撃てばすなわち摧くくだく、攻めればすなわち打ち敗る。「一剣は二刀に勝てない」とうべし。


 結局、柳生の高弟は武蔵の前に剣の素人のごとく敗れ去った。

 その後、尾張国名古屋藩藩主・徳川義直とくがわよしなおは武蔵をいたく気に入り、五百石で召し抱えたいと申し出てきた。これは尾張藩剣術指南役の柳生利厳と同じ禄高だった。破格の待遇である。

 それに対して武蔵が願い出たのは、もう五百石の増加で千石という桁外れのものだった。しかし、本当に武蔵は千石を欲したわけではなかった。武蔵はあくまで尾張滞在の間、名古屋藩で世話をしてもらうことを文にて願ったのであり、剣の腕を見せたのはその謝礼のつもりだった。それに値段をつけられてはかなわぬと、元より払いようがない額を提示したのだった。

 しかし、名古屋城を後にした後、待てども使いの者からの便りがない。ようやく城からの使いが来たと思いきや、「申し訳ないが義直様の下では世話はできかねる」との言伝だった。

 武蔵は困惑する。自分が、この宮本武蔵が受け入れられぬなどという道理が一体どこのあるのだろうか。

 訳も分からず武蔵は城下を去ろうとした。そんな武蔵に声をかける者がいた。

「相も変わらずやなぁ、新免玄信よぉ」

 街道の側の塚の上、そこに立っていたのは初老の僧侶だった。得体の知れない活気にみなぎっていて、武士でもないにもかかわらず、色白の体は白蛇のごとく引き締まっており、瞳は小さく、しかしそのせいで黒目が強調され、さらに眼光の鋭どさから目が輝いているように見える。その姿は、木の上から獲物を見下す白い大蛇のようでもあった。

「おお、お前は……。」

 武蔵はその後の言葉が続かなかった。

「……なんや、まぁだ儂の名前を覚えてくれ取らんのか。沢庵や沢庵宗彭たくあんそうほう

「あ~~」

 武蔵は人間の名前をあまり憶えない傾向にあった。特に、自分が興味のない人間ならなおさらだった。

 しばらく見つめ合う両者、武蔵は無表情で、沢庵は薄笑いを浮かべていた。そして何かを悟った武蔵は口に拳を当て、せき込むような笑い声をあげた。

「くくっくくく……。そ、そそそうか、これはお前の手回しか」

「せや。……意外やったか? 宮本武蔵ともあろうものが、こんな無下に扱われるんわ? 何せあんさん、お釈迦様並みに唯我独尊やからなぁ」

「かかっ可愛がっている柳生を打ちのめしてやったのが、そんなに気に食わなかったか?」

 沢庵宗彭は柳生一族、特に現在の将軍家御流儀の柳生宗矩やぎゅうむねのりとは、時に師として、時に友人として互いに導き、助け合う仲だった。

「やから、そないなことやないんやって……。」

 忌々し気に沢庵はため息をつく。

「分かっておるわ、俺の兵法道が貴様には邪魔なんだろう」

「儂にはやない、や」

 沢庵は柳生と共に剣禅一如、剣の成長はすなわち精神の成長でもあるという武士道を教え広めていた。

「何をいうか、兵法は何処でも誰にでも必要なものだ。れれ、歴史を鑑みろ、明でも朝鮮でも南蛮でも、常に武は必要とされてきた。人の歴史とは武の歴史よ」

「せやから、儂ぁその歴史の輪からこの国を外そうしとるんやないかぃ」

「……なんだと?」

「剣なんぞ要らん、剣を捨てても人は互いに生きていけるっちゅう新しい道や。徳川の、泰平の世のために武士が捧げるもんは武やない、自分以外のもんに身ぃ捧げて、剣をお互いに預け合あえる、人と人とが信頼に値する世の中を作るためのなぁ」

「くくっくく、聞こえこそは良いが、その実、一人の主と数多あまたの犬が生きる世界だろう。人には剣を捨てさせ、自分だけはしっかりと握っておるのだからな」

「ええやろ、それで世の中が平和になるんやったら。のぉ武蔵ぃ、この世にはなぁ、皆で信じ込まなあかんもんがあんねん。それが嘘っぱちのやろうが、皆で信じ込んでりゃあ世の中はまとまるもんなんや。せっかくそういう世の中になりつつあるっちゅうのに、あんさんがやろうとしとるんは乱世に時代を巻き戻そうとしとるのと同じ事やぞ」

「は、花が咲くから春が来るのではない。俺の兵法で世は乱れんし、どれだけ徳川が上手く治めようが世はいずれ乱れる。そして世が乱れたその時、おおっ俺の兵法が必要とされるはずだ。泰平の間にも種は撒いておかなければならん」

「あほか、雑草が湧いたら花が咲かん。儂がその芽を全部引っこ抜いたるわい」

「やれば良かろう、俺がそれ以上の種を撒くだけだ」

「……早ぉ失せんかい、こん疫病神が」

「くっくくく……」

 去り行く武蔵の、黒い陽炎が立つ背中を見ながら沢庵は呟いた

「疫病神っちゅうか、ありゃ厄災やな……。儂の目ぇ黒いうちは、お前を江戸には近づけさせへんで……。」


 ──文久三年、江戸


「……武蔵さん?」

 座禅を組んでいた武蔵に、千葉弥一郎が話しかける。

「む、むぅ……」

「あ、おとりこみ?のところすいません、琴さんが呼んでます」

「うむ……うっかり寝ておったわ」

「寝てたんすか?」

「なんだ、俺が寝ないとでも思ったか」

「い、いえ、そうじゃないっすけど」

「昔の夢を見ておった」

「昔の夢っすか? なんか楽しい夢とかですか?」

「ふぅむ……。」

 武蔵は顎に手をあて考える。

「結局、という夢だ」

 弥一郎は、自己肯定感の塊のような武蔵にあきれにも近い感心をする。

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