兵法者

 逃げる琴たち、途中で武蔵が振り返る。

「武蔵さまっ?」

「早くいけっ」

 追う男たちに武蔵が立ちはだかる。

 一戦交えるのかと思いきや、武蔵は袖から棒手裏剣を出し浪人たちに次々に投げつけた。

「ぎぃああ!」

 手裏剣の一本が、浪人の目に刺さっていた。

 武蔵の父、新免無二斎は十手術、縛法、そして手裏剣術といった総合武術を実践していた。武蔵自身が二天一流以前に創流した円明流でも、剣術以外に脇差や小刀を投げる投術も技術の中に含まれていたという。一見、手裏剣と剣術は異なるもののようだが、上げた腕を正確に剣の軌道がずれないように振り下ろす所作など、剣術にも手裏剣術にも共通するところがある。正確な軌道で振り下ろされる、力の逃げていない一刀だからこそ、武蔵の攻撃は強烈なのである。

 武蔵は敵が怯んだのを見ると、次は蔵屋敷の塀に手をかけ、その向こうへ飛び込んで行ってしまった。

「なっ?」

 顔を見合わせる浪人たち。一部は琴たちを、一部は武蔵を追うことを目配せして確認し合う。

 さっそく一人の男が塀をよじ登り始めたものの、六尺(180cm)の武蔵だからこそ軽々と越えられたが、一般人ではそうはいかない。

 何とか塀を乗り越えようとしたとき、その先に合ったのは瞳が爛々と輝く武蔵のかおだった。逃げたのではなく、塀の向こうで武蔵は待ち構えていた。

「なっ!?」

 武蔵は浪人の襟首をつかむと、塀の向こう側に引きずり込み、そして木刀で滅多打ちにした。

「くそっ、塀はよか! 屋敷ん中で取り囲め!」

 塀を上るのは危険だと判断した浪人たちは、入り口から入り武蔵を討とうとした。しかし……。

「あ、あれ? どけ行た?」

 武蔵は別の場所から塀を越えて外に出て行っていた。

 外に出た武蔵は琴たちを追う浪人たちを追った。

 一方で、琴たちは示し会わせた場所に逃げていた。

「お、追ってきてるよ!」

 弥一郎が振り返りつつ言う。

「振り返るな! 走ることに集中しろ!」

 雄太郎が叱責する。

 すると、後ろから悲鳴が聞こえてきた。

「な!?」

 弥一郎を叱責したばかりの雄太郎も振り返った。

 そこにいたのは、追手に追いつき背後から攻撃を加える武蔵の姿だった。

 五尺木刀は、突けばその間合いで槍のごとく敵を吹き飛ばし、叩けば金棒のように刀をへし折っている。

 でたらめな強さだった。三笠の道場では苦汁をなめたが、味方にすればここまで心強いものかと雄太郎は感心する。

 五人いた浪人たちは武蔵を取り囲もうとするが、武蔵は歩きながら得物を振り回し、突き、その包囲網を悠々ゆうゆうと突破していく。

 二天一流は歩く行為そのものが攻撃になっている。陰陽のごとく足を交互に前に出し、上半身は揺らさず滑るように動いては木刀を振るう。そんな変化自在の武蔵の剣術は、琴たちには舞っているように見えていた。事実、武蔵の晩年の弟子である中西孫之丞は「武公(※武蔵の敬称)の兵法の遣い方は至極静かで仕舞を見るようであった」と語っている。

 美しく流れるように、しかし容赦なく敵を打ちすえて行く武蔵に見とれてしまう琴たち、だが……

「何をしている! 打合せどおりにやれ!」

 武蔵に叱責され、全員が散っていった。

 こうなっては、誰を追うでもなく、戦力は武蔵に集中するようになる。

 しかし相手は宮本武蔵である。しかも、手には全盛期に愛用した五尺木刀を携えている。すでに二人の浪人の刀は折れ、一人の浪人の腕は折れ、一人の浪人は指が折れていた。

「だ、だいか、だいかこっち来え!」

 武蔵の下には十人の浪人たちが集まった。だが、すでに半分以上が武蔵によって十分な戦闘を行えない状態だった。

 しかし、手負いと言えど十人もの敵に囲まれては剣の上手であっても不覚を取りかねない。

 武蔵はぱかりと口を開けて嗤うと、背中を向けて走り出した。その行く手を阻もうと浪人が立ちはだかる。だが浪人は武蔵の“石火の打ち”で頭を割られ気絶してしまった。後ろから襲おうとした浪人に対して、杖術に近い働きをする武蔵の木刀の柄が、背中越しから伸び腹部を強かに打つ。浪人は悶絶して倒れた。

 武蔵は包囲網を突破する。浪人たちは体をよたよたと引きずらせながら追い続けた。

 武蔵は逃げながら、追手のひとりが「こげんこっになっなんて聞いちょらんかったぞ!」と言うのを聞いた。

 武蔵は廃墟となった寺の中に逃げ込んだ。

 寺の真ん中、大黒柱の隣に立つ武蔵。その周りをようやく追いついた浪人たちが取り囲む。

「えーころ加減にせい……。」

 手首が折れて曲がっている浪人が言った。片手で何とか脇差を持っている。

「うむ、前ら、ご苦労であった」

「ご苦労じゃと?」

「なぜ俺たちを付け回したかは、後からゆっくり訊こう」

 武蔵を取り囲む十人の浪人たち、一人が武蔵の足元に鉄兜が置いてあるのに気付いた。

 武蔵はぱかりと口を開けて嗤う。

 そして鉄兜を被った。すでに道具が置いてあるということは、ここが武蔵たちの張った罠だということだ。

「鉄兜被ったくれで、おいたちに勝つっち思うちょっとか?」

 武蔵は柱に抱き着いた。

「当然だ、兵法とは常に勝つための道を作るのだからな」

 そして武蔵は怪力で柱を押し倒しにかかった。

 めきめきと音を立て大黒柱が傾き、寺は斜めに崩壊し始めた。

「え? あ? ば、ばかぁ~!」

 理解不可能な武蔵の暴挙に浪人たちは悲鳴を上げる。

 大黒柱を倒された廃寺は枯れた音を立てながらぺしゃんこになり、寺の中にいた人間を押しつぶした。

 ただ一人を除いては。

「武蔵さまっ、武蔵さま~!」

 琴が元寺だったものに呼びかける。目的地をこの寺だと示し合わせていた琴たちは、廃材の山となった寺に集まっていた。

「ま、まさか巻き込まれて潰されちゃったってことはないっすよね……。」

 弥一郎が言う。

「滅多なことを言うな」

 雄太郎が言う。

「武蔵さ……あ」

 廃材の山が音を立てると、そこから巨大な柱が伸びた。

 宮本武蔵だった。

「うむ、計画通りにいったな。愉快愉快っ」

 武蔵は廃材の山を降りてくる。鉄兜を被っていたとはいえ、その貌には何の苦痛の後も感じられなかった。

「武蔵……さま」

「す……すげぇ」

「化け物め……」

「……さて、縄の用意はいい、いいな?」と、ほこりを払い落しながら武蔵は言う。

「はいっ」

 そして武蔵たちは、寺に押しつぶされ動けなくなった浪人たちを捕縛した。

 千葉兄弟が気絶、または負傷して動けなくなっている浪人たちを縄で縛る。その様子を見ている武蔵に琴は言った。

「……しかし、彼らはわたくしたちの命を最初からとるつもりはなかったみたいです。対話の余地もあったのではありませんか?」

「言っただろう、ここっ交渉の皿に命を乗せた時点で、それはただの命の取り合いだ。ならば、やられる前にやる。戦では常に先手が有利よ。べべっ別に良いではないか、話を聞くなら十人もいらん。二、三人活かしておけば

 何の感情も込めずにそう話す武蔵に、琴は息を飲む。

「うむぅ、もし生きて捕らえることを考えぬのなら、ててっ寺に火をつけてもよかったなっ。そちらの方が手際が良いしこちらで怪我を負う人間もいない」

 いかに効率的に勝つか、すなわち、いかに人を殺すかばかりを将棋を指すように考えている。琴は、同じ武士を名乗りながら、会話ができるが意志の通じない別世界の生き物を見ているような気がしていた。


   ※


──元治元年


 土方歳三ひじかたとしぞうは、酒をやりながら静かに琴の話を聞いていた。

「……あの方の武士道は純粋なんです」

「純粋……とは?」

「徳川の天下が始まる前、混沌としていた時代に求められた原初の兵法、それがあの方の武士道なんです。まつりごと修身しゅうしんとは無縁の、ただ戦いに勝つための道具。心の在り方、生き方も、すべて戦いに捧げられる」

「なるほど……。純粋に、まっすぐか……。」

「いえ、純粋ですがまっすぐではありません。あの方の心は常に曲がります」

「なに?」

「心も生き方も道具ならば、戦いに合わせてそれが変わるという事です。……つまり、忠義を尽くす相手さえも」

「曲がった刀にいったい何ができるというのだろうか……。」

 すると琴は笑った。

「どうした?」

「同じことを言った組士がおりました。けれど、武蔵さまはこうおっしゃったのです。“曲がらぬ腕にいったい何ができる”と。……あの方にとって、刀は特別なものではありませんから」

「中沢琴……君はどう思うんだ?」

「これは……武蔵さまではなく、桑原さまがおっしゃってたのですが……日の本のまつりごとはとても特殊なのだと」

 土方は伺うように右の眉を吊り上がる。

「清などがそうなのですが、国を治めるのが、王と将軍が同じであるとは限りません。まつりごとに秀でた者、国を作った者の血を引く者、中には口が達者な者が治める国というのもあります。そんな世界の中で、我が国は武人によって治められている数少ない国なのだそうです。思うに、元はいくさの道具だった武士道が、徳川の泰平が続く中、武士の規範たる道として、戦をしない場所で使われるものになったのではないでしょうか。つまり、武蔵さまの武士道とわたくしたちの武士道は、数世代を経て別のものになったのではないかと……。」

「……なるほど。確かに、泰平の世においていくさしか頭にない為政者などに国を治められるわけがない。武士道……同じ名前を冠した別の道具というわけか……。どうした?」

「わたくしは迷っております。武蔵さまのおっしゃることももっともです。ですが、衣を着替えるよう、生活や生き方も変わっていくものではないでしょうか。鎧をつけながら畑仕事ができないのと同じです」

「だが、今は鎧を着るべき時だろう」

 土方に言われ、琴はやや遅れて頷いた。

「……興味がわいてきたな」

 土方は遠くを見るようにして笑みを浮かべる。

「……新選組は、土方さまは武蔵さまの武士道をどう見ますか」

「近藤さんや総司は分からん。……だが、俺は新選組に必要なものだと思えるな。乱世の武士道、礼式などではない勝つための実践的な道、まさに俺が探し求めていたものだ……。」

 自分の生き方の手がかりをつかんだ土方の表情は、朝焼けのように輝きを帯び始めていた。しかし、琴にはそれが不吉なものに見えていた。

 火縄銃が伝来した後、どの武将も火縄銃を求め改良し、戦はより激しいものになっていった。

 武蔵の兵法が優れているならば、きっと誰しもが求めるようになるだろう。それこそ、武蔵の生きた時代は誰しもが武蔵を求めたように。

 しかし、その先はどうなるのか。誰もが優れた兵法を受け入れた先の世界では……。

「……ん?」

 ふたりが座っている席の隣では、店の娘が頬杖をついてぼおっと二人を見ていた。

「あの……?」

 娘は琴に話しかけられると、猫のように体をびくりとさせ、「失礼しましたっ」と店の奥に駆け込んでいった。

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