三戦目・中沢琴

「琴っ」

 流石の良之助も慌てた様子だった。周囲の組士たちもざわつき、中には「やめておけよ」という声もある。

 一方の琴は周囲の音も聞こえないくらいに思いつめた様子だった。

「ほぉ……。」

 武蔵は目を爛々らんらんとさせる。

 琴はつかつかと力強い足取りで道場の端まで行くと、木製の薙刀を取った。

 組士たちの何人かが「おぉ」と声を上げた。

 確かに木刀では難しいが、中沢琴の薙刀ならばあるいは、といった所感である。

 薙刀を持った中沢琴には柏尾馬之助でさえも勝てると断言できないため、誰もが敬遠して立ち会わないほどだった。

「ふむ、俺も薙刀は好きだ」

 宮本武蔵は大阪夏の陣、島原の乱と、合戦では薙刀で出陣している。しかし、新徴組組士たちはそれを知らないので、ぽかんとするばかりだった。

「では、ここっこちらも趣向を変えるとするか……。」

 そう言って武蔵は素振り用の木剣をもとの場所に戻し、大小二本の木刀を取った。

 その瞬間、道場中がざわいつた。

 誰もが知る宮本武蔵の二刀流、二天一流を目にできる。

 すでに柏尾馬之助を一撃で片づけたこの男のことを、少なからずの人間が宮本武蔵、もしくは武蔵の剣技を受け継いだ何者かだと思い始めていた。

「……なぜ、わたくしには二刀を?」

「褒美だ」

 武蔵の口がぱっくりと開く。わらっているのかもしれないが真意は測れなかった。

「これだけ俺の腕を見ても、なおも挑んでくる貴様へのな」

「それは……感謝すべきところでしょうか」

「もちろんだ、ありがたく思え」

 道場の中央でふたりは構えた。

 中沢琴は薙刀の中段。

 武蔵は二刀の下段。

 琴はまっすぐに進み出て、躊躇とまどいのない下段での脛を狙う。

 だが、武蔵は左手の木刀を下げるだけでそれを防いだ。

 武蔵が溜めの作らない所作での前進、一気に間合いが縮まる。

 立ち合いを見守る柏尾馬之助は目を細める。


──なぜ、あの歩法で早く動ける?


 そして剣の達者である馬之助はすぐに気づいた。


──違う、早いのではない。少ないのだ。


 が、捻じりが、そして兆しが少ない武蔵の歩法だった。


“ 足つかひの事。

足のはこび様の事、つまさきをすこしうけて、くびすをつよく踏べし。足つかひハ、ことによりて、大小遅速は有とも、常にあゆむがごとし。

足に、飛足、浮足、ふみすゆる足とて、是三つ、嫌ふ足也。

此道の大事にいはく、陰陽の足と云、是肝心也。

陰陽の足ハ、片足ばかりうごかさぬもの也。

切とき、引とき、うくる時迄も、陰陽とて、右左/\と踏足也。

かへす/\、片足踏事有べからず。

能々吟味すべきもの也。”

──五輪書 火之巻より


 武蔵の歩法、それはやや爪先を上げるように意識し、踵に重心を置いて移動するものだった。そうすることで、脚部の中で一番柔軟な爪先の緩衝で力が逃げることがなくなり、重心を乗せた攻撃と動きの少ない移動が可能になるのだった。

 しかし、これは古来の武道のみならず、近代スポーツのあらゆる常識からかけ離れている。最も競技人口の多い格闘技であるボクシングも、未だに最強神話の根強い合気道であっても、重心は爪先に乗せることを旨とするのだから。

 以上のことから解釈するに、宮本武蔵の剣術とは、古今東西の競技、そのどれとも異なる体動によって実現されるものだということになる。

 一目見ただけではその術理は理解できない。今まさに相対している中沢琴にとってはより見破り難いものになる。

 正体不明の武蔵の剣術を警戒し、琴はすぐさま後ろに飛び、再度の逆脛狙い……と見せかけての小手打ち。

 武蔵はそれを右手の木刀で受け止め、同時に琴の薙刀を左手の木刀で打ち据えた。衝撃で琴の右手から薙刀が外れる。

 琴は距離を取って右手で持ち直した。

 千葉雄太郎の立ち合いから始まっていた疑問が、新選組組士たちの中でより一層強くなりつつあった。

 なぜ、武蔵の打突は振りが小さいにも関わらずあれほどに強力なのか。打突だけではない、受けにしても武蔵の得物は雄太郎の攻撃にも馬之助の攻撃にもピクリともしていなかった。

 琴の小手打ちからの踏み込んでの突きという連続技、早業だったが小手打ちは二刀持ちという、握り合わせない両手の間をすり抜け、突きは武蔵の体が一枚板の様に横に素早く動き空を切った。

「……工夫がないな。強いし迅いが、すべて同じ拍子だ」

 立ち合いの最中だというのに、武蔵は琴に語り掛ける。

 琴が小細工の嫌いだったこともあるが、この自分の目の前に現れた男に、彼女は少しの恐怖を抱いていた。今まで自分の信じていたものを覆されそうな恐怖、一刻も早くそれを打ち消さなければならないと。

 武蔵は二刀を上げ上段に構えた。大小の切っ先が琴を向いている状態で、音のない静かで、しかし早い歩法で距離を詰める。

 琴は脛を狙うが、武蔵の歩きが早く、勢いをつけてからの打突が間に合わない。

 琴は面を打つ。打突は武蔵の左手の木刀で遮られ、同時に武蔵は右手の木刀で打ち込んできた。

 からくも琴は薙刀の柄で攻撃を防いだが、木刀の薙刀の柄を打つ音、片手だというのに激しく、さらに琴の体は傾いていた。


 二天一流 石火の当たり


“ 石火のあたりと云事。

石火のあたりハ、敵の太刀とわが太刀と付合程にて、我太刀少もあげずして、いかにも強く打也。

是ハ、足もつよく、身も強く、手も強く、三所をもつて、はやく打べき也。”

──五輪書 火之巻より


 剣が当たる瞬間、腕、体、足を固定することで、わずかな体の動きの中にあっても全体重を乗せて打つことができる剣技、先ほどから新徴組の組士たちを驚愕させている武蔵の一撃は、六尺(180cm)という巨体の怪力から繰り出されているわけではなく、れっきとした二天一流の技の一つだった。

 そして、その石火の当たりを用いて武蔵は左右の木刀を連続で振るい始めた。でたらめな連打のようだが、木刀の軌道は琴の防御の隙に吸い込まれるように変化していく。さながら、琴はばちで打たれる太鼓の様になっていた。

「う……く……!」

 やがて琴の防御は間に合わず、打突は琴の体に当たり始めていた。有効打一本は取れない当たりかもしれなかったが……真剣ならば切りにされているところだ。


 二天一流 縁の当たり


“ 縁のあたりと云事。

我うち出す時、敵、打とめん、はりのけんとする時、我打一つにして、あたまをも打、手をも打、足をも打。太刀の道ひとつをもつて、いづれなりとも打所、是縁の打也。”

──五輪書 水之巻


 打つ(斬る)ではなく当たるだけでも、場所によっては命を絶つことができる。とかく隙を見て石火の当たりによって強撃を連続で繰り出し、相手を仕留める剣技だが、この場合も状況を見て無念無相を、そして落葉の打ちにつなげる。

 すなわち二天一流とは各技が独立しているのではなく、すべてを陰陽一体として同時に使用することにその真髄があるのだ。

 組士たちは狼狽えて兄の中沢良之助を、仕切り役の山田寛司を見る。

「ぬぅ!」

 琴は攻撃をかいくぐり薙刀の柄ごと武蔵に体当たりを仕掛ける。

 武蔵は二本の木刀を交差させそれを受け止める。

 武蔵と琴の顔が近づいていた。

「……よし

 武蔵が目を輝かせて言う。

「なんですっ?」 

「最期まで生きる意志が消えぬ目よ」

 そう言うと、武蔵は交差させた木刀をはさみのようにして、琴の首を薙刀の柄ごとを挟んで前にせり出た。

「う!?」

 そして、その状態のまま、強引に琴の首を薙刀ごと床に叩きつけた。

 倒れた瞬間、琴は自分の首が切断された幻影を見た。

「あ……か……。」

「琴!」

 良之助や他の組士たちが駆け寄る。

 すると武蔵は振り返り、彼らに二刀を突き出した。

「全員やる気か、構わんぞ」

 尋常でない様子だった。武蔵は本気で近づいてきた全員を敵だと思っている。

「あ、いや、琴の容態ようだいを……。」

「……案ずるな」

「え?」

「見よこの目を」

 琴は打倒されてもなお、何とか起き上がろうと体を持ち上げ、そして武蔵をにらみ続けていた。片手で首を抑えているのは、本当に自分の首が斬れていないか確かめるためだった。

首実検くびじっけんにしてもこの面構えをやめそうにない。将門公まさかどこうでさえもっと穏やかであったろうに」

「は、はあ……。」

「二百年も経てばこんな女も生まれるかっ、まっことに愉快よ!」

 突然武蔵は大口を開けて笑い始めた。

「だが気落ちすることはないぞ、琴とやら! 真剣であったならば勝手が違う、あの脛への初太刀、俺の脛を斬りこんでいたかもしれん!」

 武蔵は雄太郎と馬之助にも言う。

「お前らもだ! そもそも、練習用の木剣あんなものを使ってどこで戦おうというのだ? お前らは今この場での比武に後れを取ったに過ぎん、気にするな!」

 励まされているのか慰められているのかは分からない、しかし組士たちの心の底にあった敗北感は薄まっていた。

「しかしまぁ、なんというか……。」沖田林太郎が言った。「新徴組は剣の腕が確かであれば、来るもの拒まずです。彼が本物の宮本武蔵かどうかは分かりませんが、組士として迎え入れてもよいのでは」

「それは困る」

 武蔵が言った。

「え、困……る?」沖田林太郎は困惑する。「うちに入ろうというお話をなさっていたの……では?」

「おっ俺はどこにも属せん、昔も今もな。俺はここで客分として世話になるつもりだ」

「それを決めるのは貴様ではない」と、千葉雄太郎が言う。

「言っておくが、おおっお前には加減したんだぞ」

「なにぃ?」

「ま、いいんじゃないですか?」中沢良之助が言う。「今だってほら、もぐり小姓弥一郎君みたいなのがいるんだから」

し、彼が本当に宮本武蔵であるならば、私も一学者として彼の話を今後とも是非聞きたい」と、桑原玄達が言う。

「彼が我々より強いのは事実。それにもし彼を手放して、長州や薩摩に引き入れられたら、それはそれで厄介ではないかね」

 そう山田寛司が言うと、組士の何人かは「それもそうだな……」と同調した。

 武蔵はそれを聞きながら、琴に「薩摩がどうしたのだ、ずっと南のあの国だろう?」と訊ねる。

「後で説明いたします」と、琴は言った。

 こうして山田寛司の一言が決め手となり、宮本武蔵……を名乗る男は新徴組の客分として迎え入れられたのだった。

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