二戦目・柏尾馬之助

 千葉雄太郎は目録を持っている訳でもなく、幼少期から剣術の道場に通っていたわけでもない。しかし、日々怠らない鍛錬で、組内の経験者からも一目置かれるほどの腕にはなっていた。その雄太郎がいとも簡単に敗れたのだ。

 並みの使い手では勝てない。誰もがそう思っていた。

 皆の視線は、まず“三笠みかさ三羽烏さんばがらす”の山田寛司に行く。しかし、それは難しかった。山田寛司は北辰一刀流の使い手で新徴組の剣術教授役も務めるが、彼の評価は教養に裏打ちされた人間性にあった。

 次に同じく三羽烏の中沢良之助に行った。しかし、これも難しい。中沢良之助の飄々ひょうひょうとした性格には裏表がない。そのため、いざ実戦となった時に物怖じせずに戦い、そして人を斬れるという、ある種の冷酷な剣さばきから三羽烏と呼ばれているが、いかんせんその性格に難がある。法神流ほうしんりゅうの皆伝でありながら、剣術世話心得という指南役の助手であるのも、そこに原因があった。要領の良い良之助は面倒ごとを避ける癖がある。きっと良之助は頼まれても武蔵とは立ち会わないだろう。

 ならば全員の視線は柏尾馬之助かしおうまのすけに必然と行き着く。

 柏尾馬之助も、それに気づいて「まいったなぁ」と人差し指で顎をかいた。

 柏尾馬之助は北辰一刀流の大目録皆伝であり、新徴組随一どころではなく、江戸随一の使い手だった。馬之助は純粋な剣の腕のみで三羽烏と呼ばれていた。

 武蔵は組士たちの視線に気づき、口をぱかりと開けた。

「つつっ次はお前か?」

「そういう……流れのようですね」

 父が徳島藩蜂須賀家とくしまはんはちすかけの家臣のという、生まれついての武士だった柏尾馬之助は、物腰から他とは違っていた。侍という自負があるためか、自意識の強いふるまいをする。座り方から立ち方に至るまで、まるで正しい作法に則ったかのような折り目正しい動きだった。所作の一つ一つに品があるが嫌味はなく、その様は新品の絹の織物が歩いているような清潔感さえあった。

 全体的に洒落者の美男子ではあるが、風体はどことなく蛙に似ていた。完璧なものこそを陰で哂うのは人のさがらしく、雨が降ると性格の悪い組士などは「馬之助さんが鳴いてらっしゃるよ、馬だというのにあら不思議」と冗談を言うことがあった。

「お琴さん、木刀を持ってきていただけるかな」

 琴が木刀の場所に近かったので馬之助は頼んだ。

「はい」

 琴は壁に掛けてある木刀を取り馬之助に渡す。まっすぐな者が好きな琴だったが、なぜか柏尾馬之助には惹かれるものがなかった。美麗な鞘の中で刀が曲がっている、そんな印象が馬之助には感じられたのだ。

 柏尾馬之助は木刀を取ると、道場中央に立った。

 武蔵もそれに相対する。

「木剣は、そのままお使いになられますか」

「うむ、ぐぐ、具合が良い」

 柏尾馬之助は微笑んでから静かに構えた。

 武蔵は首を傾けて言う。

「そそっその構えが流行ってるのか?」

 柏尾馬之助の構えは正眼だった。中段に竹刀を向け、常に右足を前に出しすり足で移動する、近代剣道の基礎となる北辰一刀流の構え、防具と竹刀を使用した仕合においては、もっと実用的とされる動きだ。

 対する武蔵は、千葉雄太郎の時と同じく両足をそろえたままだった。握りも両手が離れていない。

「なぜ、あんな握り方で……。」と、沖田林太郎が声を潜めず例の愛嬌のある声で不思議そうに独りつ。

「源平から関ヶ原に至るまで、絵巻物で描かれた戦場いくさばでは……」それに答えたのは桑原玄達の冷静沈着な声だった。「武者の剣の握りは両手が揃っているのです」

 組士たちが一斉に桑原玄達を見る。

「すなわち……」桑原玄達は眼鏡を人差し指で持ち上げる。「あの方の剣の握りは、戦場での作法……。」

「桑原さん、もしかして彼が本物だとおっしゃる?」

「いえ、いえ……そうではありません。しかし、古い流儀を修められていることは間違いないかと……。」

 武蔵が左右の足を交互に動かすという、普段と変わらない歩法で前に出ると、柏尾馬之助は小刻みに足を動かし距離を取った。

 体を左右に揺らさずに、腰の下だけが動く武蔵の歩法は、床をすべるようにして馬之助との距離を詰めていく。

 だが、馬之助は詰められればその幾度、後ろに下がった。

 その馬之助を臆病者と誹ることはできないだろう。すでに、新徴組の面々は武蔵の尋常ではない剣術の片鱗を見ている。仕方のないこととはいえる。

 切っ先を細かく揺らし、馬之助は機会を見て武蔵の木剣に打ち込んだ。

 打ち込んだにもかかわらず、弾かれたのは馬之助の木刀だった。

 武蔵の木剣が重量があるためだけではない、その握り手から腰、足に至るまでの体幹、それがかなり鍛錬されたものだからだ。

 まるで、巨大な大木に打ち込んでいるような心許なさだった。例え真剣を手にしていても有利になる気が全くしない。


──あの木剣はまるで城壁、こちらは深く入り込まなければ一本はとれぬ。だが、向こうは間合いがこちらよりある。


「いやぁぁぁぁぁ!」

 馬之助は、木刀を打ち付けながら、武蔵の外へ外へと回っていく。攻撃を仕掛けていたが、狙うのは武蔵の攻撃に合わせての小手打ち。間合いが遠い現状、それが最善だった。

 数回木剣を叩いた後、馬之助は大きく横に飛んだ。武蔵の動きはそれについてこれなかった。

 馬之助は次に踏み込んで間合いを詰める。

 木剣の切っ先を上げて、武蔵が攻撃の兆しを見せた。


──幾也


 馬之助は小手打ちで武蔵の手首を狙う。

 だが、叩かれたのは馬之助の手首だった。

 馬之助の一打が、遅れて繰り出された木剣の振り下ろしによって軌道をずらされ、逆に手首を強かに打たれたのだ。

「う……!」

 軽く打たれただけの様に見えたが、馬之助の手首は骨が折れたかのような鈍痛に見舞われていた。

「馬之助殿ッ!」

 組士たちが一斉に立ち上がった。

「……まだやるか?」

「く……。」

 痛みは何とか耐えられる。だが……。


──遠い


 それは間合いではない。技術の彼我ひがだ。

「……もしや、私の打ち込みに合わされましたか?」

「いや、打ち込むように誘った」

 馬之助は首を振って笑った。

 千葉雄太郎は、構えていただけの切っ先を打たれ木剣を落とし、次に防御受けに回ったところで木剣を落とされた。自分は攻撃に合わされ木剣を落とされていた。


 二天一流 無念無相の打ち、及び紅葉の打ち


“ 無念無相の打と云事。

敵もうち出さんとし、我も打ださんとおもふとき、身もうつ身になり、心も打心になつて、手ハ、いつとなく、空より後ばやに強く打事、是無念無相とて、一大事の打也。


 紅葉の打と云事。

紅葉のうち、敵の太刀を打落し、太刀とりはなす心也。

敵、前に太刀を搆、うたん、はらん、うけんと思ふ時、我打心ハ、無念無相の打、又、石火の打にても、敵の太刀を強く打、其まゝ跡をはねる*心にて、切先さがりにうてバ、敵の太刀、かならず落もの也。”


──五輪書 水之巻より


 巌流島で片鱗を見せた剣技の完成形だった。

 遅れて打ったにもかかわらず、なおも敵より先に届く、二天一流にはカウンターとも呼べる無念無相の打ちがある。そして紅葉の打ちという剣技は、術理だけを解説するならば単純で、敵がどこに剣を置いていようと“強く打って”叩き落すというものだ。これは無念無相の打ちと合わせれば、相手の攻撃の時も例外ではなくなる。極端に言えば、二天一流の剣技は相対した者の剣をいかようにでも叩き落せるという理屈になる。

 ちなみに、柳生新陰流の合撃がっしと一刀流の打ち切り落としも似た原理によるものだが、他の流派が奥義としているこの技術を二天一流では基本技としている。

「……勝てませぬ」

さかしいと、さ、さ先が見えてつまらんな」

 武蔵は周囲を見渡す。

「つつ、次はもうおらんのか?」

 柏尾馬之助が負けたのだ。それはもう、新徴組でもはや敵う者はいないということだ。いや、新徴組だけではない。千葉家の娘をめとり北辰一刀流の道場を任されていた馬之助は、新徴組というよりも北辰一刀流をも代表していた。

 しばらく組士同士がお互いの顔をうかがうも、誰も名乗りを上げることができなかった。しかし……。

 一人の組士が立ち上がった。

 中沢琴だった。

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