一戦目・千葉雄太郎
「……と、とという顛末だったな」
武蔵は巌流島での一戦を語り終えた。
あまりにも
「けっきょく、佐々木小次郎……いや、その岩流との戦いの因縁はなんだったのです?」
桑原玄達が眼鏡をくいと上げながら訊ねる。
「うむ、話の中でも少し触れたが、俺が諸国を回って説いている兵法道を、奴が批判しおってな。では試してみようと、たた、戦いの場を設けたのだ」
「兵法道の解釈の違い、ですか」
「かか、解釈の違いどころではない。奴の説いていた兵法はとんでもないインチキだ。やれ精神だの根性だの
「武士に求められるのは剣の腕だけなのですか?」と、中沢琴が問いかける。「それでは、武士はただのならず者の賊と変わらなくなってしまいます。武は
「もとより、止めるという字は“足で踏む”という意味だ、すなわち戈を以て相手を踏みにじり制圧するのが本来の武よ。ゆえに、武に必要なのは勝ち抜くことなのだ。どんなに無様だろうとな。その執念が力を、勝利を呼び込む。すべては武のため、武が精神を鍛えるのではない。精神を道具にして武を高めるのだ。もし、武士に勝利する以上のものを求めるとしたら、何のために勝いそして勝つか、その目的を忘れぬことだ。お家のため、郷里のため、何かを手に入れ生み出すための戦い、それに役立てるのが兵法よ。そして目的が変われば準じて手段は変わり、必然とものの考え方も変わる……精神性などと、そんなものは行き着くところ美しく
「し、しかし、死の覚悟を持ち、一所懸命、雑念を持たずに生きるのが武士道とも言われております」
「死の覚悟など誰でも持ってる。坊主だろうが町娘だろうが、理不尽に死ぬのが世の常だ。
琴はふと、武蔵を名乗るこの男のものの言い方で、暗闇だった自分の中にわずかな光が射した気がした。
そして同時に、自分と話している時には、武蔵の吃音の気が消えている事にも気づいた。
「もう十分だ」
静かに、しかし重々しい一言が道場に響いた。千葉雄太郎だった。鉄面がより一層、硬く冷たくなっているようだった。
千葉弥一郎が「兄貴……。」と呟く。
「いつまでこいつに武公(武蔵の敬称)を騙らせておくつもりだ。面白くもなんともない」
もの狂いを弄る後ろめたさのある余興だった。しかし、当の本人が乗り気であったこともあり、許される範囲内だろうと思っていたが、ここにきて雄太郎の一言で皆が我にかえった。各々が顔を背ける。
「かかっ“騙らせる”とは? 俺は宮本武蔵だ。まぁ、俺自身も俺の身に起こっていることが、しし、信じられんから無理もないがな。……さて、どうやったら、信じてもらえるものか」
「どうやっても信じるわけがない」
「それは困る」
「何がだ」
「おおっ俺はここで世話になるつもりなのだからな」
にやりと笑い、武蔵は顎髭を撫でた。
「ここまで不敵な物乞いもめずらしいな」
雄太郎の歪んだ口から白い歯が見える。
「ではここっ、こうしよう」武蔵はぱんと手を打った。「ここにいる剣の達者を俺が倒せば良い。そそっそうすれば、俺が宮本武蔵であろうとそうでなかろうと、ここに置かざるを得まい? どうやらここは剣客集団みたいだからな」
全員の顔色が変わった。剣客集団の自負を持つ新徴組に対して、それは明らかな挑発行為だった。
「武蔵さんそれは、ちょっと……。」と、困った顔をして沖田林太郎が言う。彼にはまだ、場を収めようという心遣いがあった。
「いいだろう」
千葉雄太郎は立ち上がった。
「とっとと打ちのめしてこいつをここから追い出すぞ。もう十分だ」
「ちょっと待ってください」中沢琴が言う。「この方は、昨晩わたくしたちを助けてくださいました。確かに……様子のおかしい所はありますけど、命の恩人を追い出すのは、人としての礼節に欠けますっ」
「お前はこの男を宮本武蔵だと信じているのか?」
「宮本武蔵さまであってもそうでなくとも、命の恩人は大切にしなければなりません」
「ここっ琴よ、心配するな。俺は負けん」
自信たっぷりに武蔵は言う。
「では負けたらどうする?」千葉雄太郎が訊く。
「ここを出ていくしかないな。俺の剣がもう通用しないということだから」
「吐いた唾をのむなよ」
「うむ……ととっところで、俺が勝ったらどうする?」
「貴様の処遇に対する権限は俺にはない。だがせめて、お前のことを宮本武蔵と呼んでやる」
「そうか、では手始めにお前からということか」
「なに?」
「ここっここに置いてもらうためには、お前の次に誰に勝てば良い?」
武蔵は首を動かさず、眼球だけをぐりりと回転させ周囲を見渡す。
「……俺に勝つこと前提か」
「うむ」
武蔵は立ち上がった。
千葉雄太郎は道場の壁にかけてある木刀を手に取った。
「好きなものを使……なっ?」
「おいおい……。」
一同が驚愕した。武蔵が手にしていたのは、素振り用の木剣だったからだ。
柄は木刀と同じ太さだが、刀身は小ぶりの丸太の様に太くなっている。
「……それは素振り用だ」
「そそっそうか? だが武器としても使えそうだ」
道場の中央に立っていた千葉雄太郎の顔から、すぅっと表情が消えた。
弟の千葉弥一郎は知っていた、あれは怒りを通り越した兄の顔だった。
武蔵も道場の中央に立った。
そして武蔵が構えた時、全員が絶望した。
──ど素人!
武蔵は、木剣の柄を握る左右の手をぴったりとくっつけていたのだ。
それは新徴組結成当初、よく見られる光景だった。立身出世の身を抱いた農民出の参加者が、道場での練習時にまずやる失敗。そこで最初に素人かどうかの見分けがついていた。
つまり、この宮本武蔵を名乗る男はずぶの素人なのだと。
しかし、それでも中沢琴と弥一郎は違う印象を持っていた。彼らは昨晩、武蔵の剣技の片鱗を見ている。
だが、それを知らない雄太郎はとことん白けた気分になっていた。戦闘意欲さえもなくなりつつあった。
武蔵が木剣を構えて近づいてくる。近づき方もまた、素人臭かった。ろくにすり足もできておらず、まったく普通の歩法だった。
「ところで……」
「なんだ?」
「き、き奇妙な握り方をしているな?」
「……なに?」
その瞬間──
爆ぜたような音と共に、中段に構えていた雄太郎の木刀が道場の床に叩きつけられていた。
「……え?」
二天一流 一つ拍子の打ち
“ 敵をうつに、一拍子の打の事。
敵を打拍子に、一拍子と云て、敵我あたるほどの位を得て、
敵のわきまへぬうちを心に得て、我身もうごかさず、心もつけず、
いかにも早く、直にうつ拍子也。
敵の、太刀ひかん、はづさん、うたん、とおもふ心のなきうちを打拍子、是一拍子也。”
──五輪の書 水之巻より
相手が打つ意思を持つ前に打ち込む、先手必勝を旨とする技だ。
道場にいた新徴組一同、何が起こったか分からなかった。いや、見た通りではあるのだ。突然、ものすごい速さで武蔵が木剣を振るって雄太郎の木刀を叩き、そして落したということが起こった。ただ、その現象が常識離れしていた。
確かに武蔵は大きい。六尺(180cm)という類を見ない巨体だが、それでもあの木剣を、あんなにも速く繰り出せる理屈が分からなかった。
「潔く散るか?」
武蔵の口がぱかりと開く。
「それとも、無様でも生き延びるか?」
「ま、待った……。」
「うん?」
雄太郎は手を前に出し、腰を曲げて木刀を拾った。
しかし、武蔵は拾ったその場で雄太郎の木刀に打ち込んだ。木刀が再び床に叩き落とされる。
「な、“待った”と……」
「待ったと言って通用する相手ならば、剣を持つ必要がどこにある!」
「ぐっ」
雄太郎は目を見開くと、木刀を再び拾い、立ち上がらずに転げ回って距離を取り、そして立ち上がった。
「まぁ、及第点としよう」
武蔵は
雄太郎は中段に構えなおす。
(たかをくくっていた、あの木剣では速く動けぬと! 宮本武蔵ではないにせよ、かなり使える男だった!)
雄太郎は拍子をとりながら細かく足を動かし、切っ先も揺らしながら攻撃の機会をうかがう。
「きぃええええい!」
雄太郎が面を打つ。だが、武蔵が太い木剣を突き出すだけで、その攻撃はいとも簡単に弾かれた。
眼前に突き出された木剣、それは持ち上げると言った方がいいくらい、少し切っ先を上げた程度のものだった。
しかしそこから振り下ろされた木刀への一撃は、大きく上げているわけでもないのに、雄太郎は危うく木刀を落としそうになった。何とか持ちこたえたのはさすがに三度目の正直といったところだろう。
武蔵が再び木剣を上げる。少し高く、間合いもこれまでより近い。
攻撃の意思を感じた千葉雄太郎は木刀を斜めにして受けの態勢を取った。
だが、武蔵はその構えている木刀に打ち込み、そして木刀は再び道場の床に叩き落とされた。
「……。」
無言で雄太郎は武蔵を見る。
「二度あることは三度あるなぁ。三度負けてもまだ負けを認めぬか? 千葉雄太郎とやら。良いぞ、何十本でも相手にしてやる」
千葉雄太郎はどすどすと道場の床を鳴らして歩くと、他の組士と一緒の場所に座り込んでしまった。
「雄太郎よ……。」
千葉雄太郎は視線だけを向ける。
「俺の名は?」
雄太郎は小さく「くっ」と呟いた。
「宮本……武蔵」
「よしっ」
武蔵は道場を見渡す。
「つつ、次は誰だ?」
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