巌流島の決闘

── 慶長17年


 岩流がんりゅうの兵法者を乗せた船が豊前ぶぜん小倉こくら藩領のの舟島(現・山口県)、後の巌流島に向かっていた。

「お侍様ぁ、やっぱり引き返した方がよろしいかと思いますぜぇ」

 船頭が船をぎながら言った。

「……なぜだ?」

 岩流の男は訊ねる。男は臙脂えんじ色の袖無羽織そでなしはおりを着用という、戦場いくさばで具足を装着する装いをしていた。

「先に船頭仲間が相手のお侍様を舟島へ乗せてったんですがねぇ、何でもその侍は四人の弟子を連れてってるって話なんですよぉ。とんでもねぇ卑怯者ですよ、あの宮本武蔵って奴ぁ。悪いことは言いません。引き返しましょう。むざむざ殺されに行く必要はありませんやぁ」

「拙者は武蔵殿と決闘をすると約束をしたのだ。武士に二言はない、堅く約束した以上、戦いにおもむかぬは武士の恥、もし多勢にて私を討つなら恥じるべきは武蔵、その恥じるべき行いをした時点で武蔵は負けているのだ」

「しかし、死んじまったら元も子もねぇですよ」

「戦国の世はもう終わる。徳川幕府はもう覆ることはあるまい。ならば武士の在り方は、これからの時代に合わせて変わっていかなければならない。誰がために殺すではなく、何のために死ぬかという道だ。皆が自分以外の何かのために命を捧げる、太平の世の武士道、その武士道は身分に関係なく、生きるものの道全てを照らす太陽となるだろう。……今日はそんな世の中を作るための道程どうていに過ぎない。拙者の命など、道の半ばにあって些末さまつなものだ」

 船頭は船を漕ぎながら涙をぬぐった。

「何やら今日は潮風が強ぇや。……お侍様の道理ってのは、あっしらには分かりません。けどそのお心がご立派であることは分かります。そんなら、あっしもあっしで仕事をするだけでさぁ」

「……かたじけない」

 船が舟島に到着すると、その砂浜には宮本武蔵と、四人の弟子たちがいた。

 岩流は船を降りる。膝下がまだ海につかるほどの深さだった。

 岩流が砂浜に行こうとすると、武蔵たちが前に出た。浅瀬で岩流は立ち止まる。砂浜まで出さないつもりなのか。

「やいやい、おめぇら恥ずかしくねぇのか! この御方は約束を守ってたった一人で来たんだぞ! それなのにおめぇは仲間なんぞ連れやがって! 天下無双の正体見たりだぜ!」

 愉快そうに武蔵は口をぱかりと開ける。

「何を勘違いしている?」

「……何でぇ?」

「おお、お俺たちは、そもそも一対一などと約束しとらんぞ。ただ、“決闘をする”と申し合わせをしただけだ」

「な!?」

 船頭は岩流を見る。もともと色白だった顔が蒼白していた。

「一対一とは……約束しなかったので?」

 仕方のないことでもある。決闘といえば、普通は一対一を念頭に置く。

「く、くくくく、くっくっく……。」

 武蔵は口に拳を当ててうつむいた。吃音の気もあって、武蔵のそれは笑い声なのか症状なのか、測りがたいものがあった。

「心配するな、岩流の。ここ、こいつらは、ただの俺の連れだ。決闘は一対一でやってやる。安心しろ」

「な、安心しろだとぉ……」

「武蔵殿、一対一と念を押さなかったのは拙者の落ち度。思い込みでここまでやってきて、危うく多勢に無勢になるところでした。しかし、一対一の決闘に応じていただけるとのこと。お心づかいに感謝いたします」

 岩流の兵法者は深々と頭を下げた。

「お侍様ぁ……。」

「まぁ、手を出すなとは、は言ってある。だ、だだが……。」

 岩流は頭を上げて武蔵を見る。

「もし俺に勝っても、。生きて島からは出られぬかもな。お、お俺がお主だったら、今すぐその船に乗って引き返すがなぁ」

 武蔵はぱっくりと口を開ける。嗤っているように見えるが真意は分からない。

 岩流は大きくため息をついて刀を鞘から抜いた。得物は備前長光びぜんながみつ、三尺(約1m)の大太刀だった。

 大太刀の鞘は戦闘時は邪魔になるため、使用する際には鞘は仕いの者に持たせるのが常だ、この場合は船頭に預けておくのが正しい。だが、岩流は勝っても負けても帰路につくことなど期待しない方が良いという、決死の気持ちの表明として大太刀の鞘を海面へと豪快に放った。

 武蔵が右の手のひらを出すと、弟子はその手にかいを乗せた。

後先を考えぬか勝負を捨てたか、岩流よ」

「勝ち負けや命などに執着せぬ、ただ一所懸命に挑むだけよ」

いやつめ」

 とことん挑発的な武蔵に対し、岩流は霞の構え※を取った。

(霞の構え:上段の構えの状態から持ち手を顔に寄せ、切っ先を相手に向ける。大きい刀だと、防げる場所が増えるために相手の攻撃を限定できる。)

「お、おお……。」

 思わず船頭は感嘆の声を上げた。白く輝く備前長光が、岩流の姿をより凛々しく力強くしていた。

(か、勝てるぜぇ旦那ぁ……!)

 しかし、相対する武蔵を見て船頭の背筋に寒気が走った。

(ありゃあ、いったいなんだ……?)

 武蔵が振り上げている得物、あれは果たして得物と言っても良いものなのか。

 元々は舟をかいだったものである。それを木刀の形に削り上げている。長さは四尺(約1・2m)もあり、岩流の備前長光よりも長い。それだけでも異形なのだが、さらに不気味なのは、その木刀? の刃にあたる部分に、びっしりと二寸釘が打ち込まれているのだ。

 日常の、身の回りにある品を組み合わせただけの代物だというのに、その存在の凶悪さは筆舌に尽くし難いものがあった。さらにそれを身長が六尺(約180cm)の巨体の武蔵が所持しているのである。その姿はもはや殺意の塊だった。

 長年修行した鍛冶職人が、神棚を背にした鍛冶場で、幾種もの鉄を幾度も折り畳み重ね合わせ鍛え上げる、世界各国の武器の中でも特に優れた強度と切れ味を持つと信じられている日本刀、それがその武蔵の道具を前にして、光がくすみ、心許ない護身の道具にしか見えなくなっていた。

 船頭は脳裏に、あの物体で撲殺され脳漿のうしょうを垂れ流す岩流の、ほんの数秒前まで価値を確信した男の敗北の姿を浮かべてしまっていた。

 武蔵が前に出る。

 岩流は目を細めた。

 武蔵が陽の光を背にしているのだ。

 岩流は位置取りを変えようと浅瀬を横走りする。

 しかし、砂浜の上の武蔵はそれを許さない。常に自分の背後に陽の光があるように、岩流の先を行く。

 岩流は膝まで浸かった浅瀬をしばらく走らされた。

 位置取りで優位に立つのは難しい。

 このままでは体力がいたずらに削られる、ならば……。

 岩流がそう思うと同時に、武蔵も動いた。

 武蔵は振り上げ、岩流はふり下ろした。

 ほぼ同時だった。しかし、先に動こうと思った岩流よりも武蔵の方が刹那だけ速かった。

 刀と櫂がぶつかる音がした。刀の鋭い音ではなく、木材が叩かれるような鈍い音だった。

 さらに両者は武器をふり回し、その攻撃もぶつかり合い、再び鈍い音が海辺に響いた。

 さらなる攻撃、もはや武蔵の攻撃は乱暴に長い棒を振り回しているだけのようでもあった。それを迎え撃つ岩流だったが、刀の軌道が武蔵の剛力によって狂い始め、互いの得物がぶつかる音も弱々しくなっていた。

 そしてそれが武蔵の狙いだった。岩流の身体からだではなく、刀とそれを持つかいなの破壊。

 これらは後に武蔵が記す兵法書、『五輪書』の水の巻において、“無念無相の打ち”、“縁の当たり”、そして“紅葉の打ち”と名づけられる技術の原型だった。

 次に武器がふるわれた時、お互いがお互いの命を狙っていた。

 お互いの武器が躊躇うことなくまっすぐに武蔵の首を岩流の頭部を。

 岩流の斬撃が先に届いた。しかし、岩流の剣の軌道は痺れてしまった手の中で精密な動きを失い、さらに刀は曲がり空気の抵抗を受けていた。

 武蔵の首に届いた備前長光が当たったのは、刀身の側面刀の腹だった。

 一方の武蔵の道具は、胡桃くるみを割るような軽快な音を立てて岩流の頭蓋骨を砕いた。

 がぶっ!?

 岩流はぺたりと尻もちをつき倒れる。

「あ……あ……。」

 目から血涙けつるいを流す岩流。頭蓋はだけでなく顎の先まで骨の接合が、つまり顔の内側では骨という骨がほどけていたのだ。

 武蔵は道具を大きく上段に構え、じわりじわりとにじり寄る。とどめを刺す気だ。

「……く!」

 力をふりしぼり、血涙を飛ばしながら四つんいの状態で岩流は刀を横に薙いだ。

 刀は武蔵のカルサン※の裾を切り裂いた。だがそれだけだった。

(カルサン: 裾幅が狭く、筒状の裾継ぎを付けたはかまの一種。近世初期には、身分を問わず広く用いられ、江戸時代には武士が旅装として着用)

 武蔵は櫂を振りおり下ろし、岩流の頭部の同じ所を渾身の力で叩き、岩流の頭蓋骨を容赦なく粉々に砕いた。

 一瞬にして、内出血で岩流の顔が青紫色に染まった。

 岩流はうつ伏せになり、波にうたれたまま動かなくなった。

 絶命したようだ。

「……うむ」

 武蔵は岩流の死を確認すると弟子たちのもとへ行き、そして語り始めた。

「あの様だ」

 遠くから武蔵の声を聞いた船頭はぎょっとして武蔵を見る。

「武士としての約束だの体面だのとこだわった挙句に、あのすす、姿がある」

 武蔵は得物を弟子に放り投げる。受け取った弟子は、その重さで腰が曲がりそして驚愕する。この重さの道具をあんなに軽々と。

「おお、俺は一度も奴に一対一などとは言ってはいない。だが奴は一対一だと思い込んだ、それが武士の習わしだとな……吉岡との決闘では逆に俺が多勢を相手にしたこともあったというのに。しかもこの場所に約束の時間通りに、くくっ来る始末だ。見知らぬ場所で利をとるならば、昨日からでもこの場所を検分するべきだ。準備がまるで足りていない。自分の信条を相手が受け入れてくれることが前提で、自分の思い通りに相手が動いてくれることが前提の兵法、自分が外出するのだから空は晴れるのだと考えるようなものだ。まるで役にたた、立たん。兵法の作法とは、作法を護ることではない。作法に相手をめることだ。船を降りた時の奴の動きを見たか? 俺たちが前に、ででっ出ただけで、奴はそれ以上は進めぬと勝手に解釈した。と、とっとと砂浜に上がればよいものを、結局奴は膝下を海に入れたまま戦う羽目になったのだ。さらにだ、鞘を捨て勝負に対して勝ち負けにも、あまつさえ命にも執着せぬとぬっぬかしおったわ……。」

 往々にして、強者にたかる人間には性根が下卑たところがある。弟子たちは武蔵が岩流をあざ笑っているのだと思い、にやにやと笑っていた。しかし……

「命を捨てるような奴にいったい何ができるッ!」

 突然の武蔵の激昂と、片方の眼球だけが器用に、そして極端に動く武蔵の瞳に射すくめられ、弟子たちの笑顔が引きつった。

「いかに無様にでも、最後の瞬間まで命を拾う機会を見逃さぬのが兵法だ! それが公家も坊主も及ばぬ兵法の、武士の道なのだ!」

「は、はいっ!」

「あの男を見ろ! 泰平の世の武士道などとぬかし、礼節や習わしなどを重んじたが故にあのような醜態しゅうたいをさらした! あそこに兵法などない! 兵法は能や仕舞しまいなどの芸事ではない!」

 武蔵はたかぶると吃音の気が消える。それを知っている弟子たちは、体中の筋肉をこわばらせていた。

「ひ、ひでぇや……。」

 船頭が言った。

「どんな遺恨がお互いにあったかは知りゃしませんが、それでも、命を賭けて戦いあった相手をそんな言い方するなんざぁ……それが武士ってもんなんですか?」

「こいつのことは否定していない。俺が否定しているのこいつの兵法だ。命を取り合う兵法と兵法のことわりが交わる時、それはどちらかが死ぬ時だ。そいつも納得の上だろう」

「……俺ぁ武士の事なんか分かりゃしませんが、それでも、この方が人として立派だということは分かりますよっ。……あんたなんかよりずっと出来たお方でした」

 武蔵の弟子が「何だとぉ?」と食いつくが、武蔵は手でそれを制す。

「信奉されることが奴の兵法なのだろう、ならば奴の事を貴様が語り継ぐがよい」

 後年、武蔵に言われたように、この船頭は不利な条件を承知の上で死地に乗り込み、そして死んだ悲劇の英雄として岩流の男のことを語り継いでいく。やがてこの島はその男を悼み、通称・巌流島と呼ばれ日の本に知られるようになるのだった。

 帰りの船に乗った武蔵は、ふとある事を思い出し遺体に寄りそう船頭に訊ねた。

「そういえば、その男の名は、なな何といったか?」

 岩流の遺体に寄りそう船頭は武蔵を睨みつけた。

「そんなことも知らねぇのかい! てめぇで調べやがれ、それが礼儀ってもんだろう!」

「うむ」

 武蔵たちが船を出し、沖に出ると船頭は言った。

「お侍様ぁ、お名前……なんてぇんすか……?」

 この兵法者に佐々木小次郎という名がつけられるのは、この戦いから実に百三十年以上も後の話である。

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