武蔵と新徴組

 翌日、三笠の屯所の道場では、宮本武蔵の話を聞こうと新徴組の面々が一人の男を取り囲んでいた。

 とはいっても、本当にあの宮本武蔵が現れたとは思っておらず、この狂言師がいったいどれほど自分を宮本武蔵だと言い切れるのか、それを試そうという悪趣味な暇つぶしだった。

「では、武蔵殿はなぜ昨晩、我々の味方をしてくださったので?」と、組士のひとりが訊ねる。

「うむ、そこのご老人に聞いたところ、お主らは徳川の御用方だと聞いたのでな。右も左もわからぬこの状況なら、ここ、公儀に味方するのが得策だと思うたのだ」

「お~それは賢い判断ですね~」

 にやにやと組士たちは顔を見合わせて笑いあう。その光景は、琴にとって気持ちの良いものではなかった。琴はあの時、武蔵に命を救われている。そして、あの剣さばきには「もしかしたら」と思わせるものがあったのだ。それは、佐々木如水も千葉弥一郎も同じだった。彼らに笑みはない。

「それに、俺の名を再び売ることができる。と、と特に徳川へ直接となれば、もうそれに乗らない手はないだろう」

「名を売る?」

「さよう。あの時代、誰も彼もが俺を欲しがった。おお、俺が武芸指南役になってくれるならば、いくらでも禄を出すと言ってくれた大名もいた。だが俺はひとところにとどまるのは、すっす好かん。この世には見るべきものが無限に広がっているのでな。とはいえ、旅には金子がいる、屋根もいる、もちろん食い物もだ。だからな、当時俺は名を売って各地を回っていたのだ。名が売れてしまえば、誰もが頭を下げて援助をしてくれるのだからな。ここ、これほど効率の良いことはあるまい」

 昔日せきじつの楽しい思い出を語るように、武蔵の目は輝いていた。

「はは~、しかし、当時とは言いますが、十年二十年のお話ではありますまい? その、武蔵殿がおられたのは……二百年も前の……ですよね?」

「うむ!」

 即答だった。

「ふ、ふふ不思議なこともあるものだ。兵法書を書き終えたと思っていたのだが、いろいろ思案した挙句、どうもあれでは不完全な気がいたしてな。そう思ってしまうと、死を覚悟したものの、どうにも生を手放すのが名残惜しくて名残惜しくて……何とかならんかと霊洞で悩んでいたところ、気づいたらこの場所へ来ていたというわけだ。いやはや、何とも奇妙なこともあるものよ! しかしまぁ、一念は岩をも通すともいう。俺ほどの兵法者の一念ならば、とと、時を通してもおかしくはないということだ!」

 詐欺師の類にしては瞳が真っすぐすぎた。これはどうやら本気で自分のことを宮本武蔵だと思っているらしい。ただの虚言癖ならそれを暴いてやろうと思っていたが、組士たちの中にはこの男を気の毒に思い始める者もいた。

「ははは……そうですか。ではいろいろとお伺いしたいこともありますが……。」

 組士たちは顔を見合わせる。ある種病人のこの男に、いったい何を聞いたらいいのか。

「それでは」一人の組士が口を開いた。「あの、佐々木小次郎との一戦を詳しく聞かせていただけないでしょうか?」

 それを聞くと、組士たちは口々に「それはいい」と相槌を打った。この頃、宮本武蔵の巌流島での一戦は、講談や浄瑠璃、狂言の題材となっていた。

「ささき……こじろう? ……誰だそれは?」

 武蔵は目を剥いて尋ねる。

「いや、ほら、あれですよ、巌流島での……武蔵殿の最大の好敵手だった兵法者ですよ!」

「最大の……。」

「巌流島の佐々木小次郎ですよぉ」 

「がんりゅう……。お、おお、もしかして、お前たちの言っとるのは、舟島で戦った岩流の男のことか?」

 一堂は白けたように沈黙した。

「いや、佐々木小次郎を知らないって……」と、組士のひとりが呟いた。

「いや、妙な話ではないと思いますよ」

 そう言ったのは桑原玄達くわばらげんたつ(五十四歳)だった。漢方医であり儒学者という出身で、新徴組においては文学教授方を務めている。読み書きができない者が多くとも、ただの剣客集団ならば問題がないかもしれないが、新徴組の組士たちは幕府に取り立てられており、かつ組の中には庄内藩出身の、生まれついての武家の次男三男がいた。品格のため、また組内の格差を作らないためにも、桑原玄達のような、組士に教養の基礎を叩き込む役職は、新徴組においては必要な存在であった。

「巌流島の相手が佐々木小次郎と称されるようになるのは、武蔵が没してからかなり後だと聞きました。当初は確か、録されていたのは流派のみだと……」

 半分以上が白髪になっている長髪を撫でながら玄達は言う。

「じゃあ、武蔵最強の相手ってのも違うのか?」

「いや、こまでは……」

 玄達は武蔵を見る。

「うむ、あいつはそこそこ強かったぞ」

 かなり簡単だった。

「そこそこ……ですか」

 玄達の丸眼鏡がずれた。

「少し、ああ、危なかったかもしれん」

「すし……」

 玄達は抑揚が少し人と違うところがある。それは放言の類ではなく、玄達独特のものであった。

「そもそも、俺は関ヶ原をはじめいくつもの合戦に出たのだぞ。疲弊や一瞬の気の緩みで、取るに足らぬ雑兵に命を取られることもある。一対一の戦いなど、それに比べれば大したものではない。確実に強ければ、かか、確実に勝てる。真剣勝負などそんなものだ」

「ほぉ~」

 最高齢の佐々木如水ですら、合戦を知らない時代だった。その言葉を使われると説得力もあるが、反面おとぎ話のような胡散臭さもあった。

「なら……いったいなぜ、その巌流は吉岡一門と並んで武蔵殿の相手として語り継がれたのです……?」

「そりゃあれだ、あいつと吉岡以外、名前をおおっ覚えておらんからだ」

 さらりと武蔵は言った。

「覚えて……ない? 命を懸けて戦った相手を……?」

「お、俺は年に四、五回は真剣勝負をやってたからなぁ、そんなのいちいち覚えてられんぞぉ。流派も自分で立ち上げた奴らばかりで、天真爛漫流みたいなごちゃごちゃした名前もあったし、かかっかと思えば新法流だとか新念流だとか、名前も技も変わり映えのない流派も多かったしなぁ」

 組士たちは顔を見合わせた。説得力があると言えばあるが、よくできた嘘にも思える。

「で、では武蔵殿、その巌流? とはどういった戦いをなさったのです」

 ならばと、組士のひとりがあえて踏み入った質問をする。

 武蔵は顎髭を撫でて一考した後、牛鬼のような瞳で組士たちを見てからと笑った。

「……き、き聞きたいか?」

 その問いに、道場にいる組士たち全員が思った。

(もちろん!)

「うむ……昨夜はここで宿を取らせてくれた上に、あ、あ、あさげまで出してもらったのだ。話くらいで支払いになるのなら……話すとしよう」

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