苦悩

 翌朝、三笠みかさ町(現・墨田区)の屯所とんしょの稽古場で琴は独り、薙刀の型稽古を行っていた。まだ組士の誰も来ていないのは、昨夜の見回りで成果を上げたため、幕府からの扶持ふちの増加が見込めるということ、何より生きて任務を終えたという達成感と開放感から、組士たちは遅くまで酒を飲み交わしていたのだ。

 床板の冷たい道場で幾度も琴はすり足をくり返し、声を上げては薙刀を、手強い相手を想定しながら挑んでいた。

 上段構えからの面打ち、振り上げ、ふり向きざまのすね、型稽古のようだが、一方でどこか肉体を虐げているような動きだった。

 幼少の頃より、道場主の娘として生まれた中沢琴は他の兄弟や父に混じって剣術の稽古けいこを受けた。琴にとってそれは、お手玉遊びやあやとりと同じようなものだった。しかし、気づいた時には剣は彼女の人生の一部となり、肉体もそれに応えるがごとく、常人から外れた体躯を彼女に与えることとなる。

 だが、中沢琴はどうあがいても女であった。印可を与えられないため道場を継ぐことも開くことも許されなかった。剣を教えた父は剣の道を本気で行こうとしている娘に対し、「お前にはたしなみとして剣を教えただけだ」と言葉をにごしさえした。

 五体に馴染ませた技を、真剣勝負はおろか試し合いで活かすこともできずに腐らせてしまうのか、そう苦悩していた矢先に、兄が持ってきた浪士組募集の報せだった。

 兄は田舎でくすぶりたくないという立身出世の野心から、妹は女であっても剣で身を立てたいという想いから、兄妹は清河八郎の下へ集った。

 しかし、想いは強かったものの曖昧だったのかもしれない。昨夜のごとく、抵抗できない者を殺め、守るべき人々に恐れられ、仲間は手柄におぼれ酒席で祝う。それは自分が志した道だっただろうか。

「精が出るな、お琴」

 うっすらと湯気が湧きたつほどに琴の体が温まった頃に声をかけてきたのは、妹を浪士組に誘った当人の良之助だった。熱い妹と違い、冷ややかで爽やかな青年だった。すでに語られているように、飄々として周りの流れに決して逆らわないような男だが、その流れに揺蕩たゆたううあまり、昨年大きな事件に関わってしまっていた。

 浪士組の仲間たちと共に、横浜の外国人街を焼き討ちにしようとしたのだ。

 多くの攘夷を唱える者は、薩摩や長州の敗北を見て以来、実際には攘夷が可能などとは考えていなかった。それを材料に幕府を批判しその力をそぎ落すための手段だった。しかし、清河八郎は純粋な男だったが故、本当にこの国から外国人を追い出そうとしていたのだ。

 だが、清河が江戸に戻った浪士組たちと共謀きょうぼうし、その計画を実行しようとした前夜、計画実行に恐れをなした一部の浪士が幕府に密告し、彼らの計画は破綻はたん、計画に関わった浪士たちは捕縛されていた。その中には良之助も含まれていた。

 しかし、時代の混迷故か、それともこの男の持って生まれた気質が強運を呼び込んだのか、良之助は放免ほうめんとされた上、この新徴組で剣術指南助教授としての仕事さえ与えられていた。

 そんな強運の良之助のことを郷里の穴原あなばら村の人間は「こいつを見ていると真面目に生きているのが馬鹿らしくなる」と評していた。

「あにさま……。」

「昨日の夜回りにはお前も出ていたんだろう。なのに、酒席には顔を出さなかったそうじゃないか」

「……そういう気持ちには到底なれませんから」

「……そっか」

「それにわたくしは……。」

 皆まで言わずとも良いとばかりに、良之助は道場の壁に立てかけてある木刀を手に取ると、琴の前に立った。

 琴が薙刀で構えると、良之助は「たのむよ~」と苦笑した。良之助は法神流の免許皆伝だったが、それでも薙刀を手にした琴を相手にするのは荷が重かった。

 琴は壁に薙刀を立てかけ、木刀を取り良之助の前に立った。

 正眼で構えるふたりの剣士。

 すり足で近づき、互いの木刀の切っ先と切っ先の間は、一寸もなくなりつつある。

(琴ちゃんの切っ先、ちょっと熱いかな……。)

 そう良之助が思うや否や、琴は良之助の切っ先を叩いて面打ちを繰り出す。

 良之助は木刀でそれを受け止め、逆に横面で琴の側頭部を狙う。

 琴もその攻撃を受け止めると、再び面打ちをくり出す。

 両者の木刀が激しい音を立てて交差し、ふたりは鍔迫り合いの状態になった。

「……工夫がないなぁ、琴」

 琴は首を傾けて、兄をうかがうように首を傾ける。

 良之助は体を傾け、琴の力を流そうとする。

「!?」

 しかし、琴はバランスを崩すことなく鍔迫り合いで良之助に食らいつき、さらに力で良之助を押し始めた。良之助は思わずたたらを踏むように後退する。

 女でありながらこれほどまでに真っ向から正面勝負を挑むとは、そう思った良之助だが、すぐにその考えを訂正する。

(そもそも、こいつは……。)

 琴は五・六尺(170cm)にもなる長身だった。これは当時の男の平均身長が五・三尺(160cm)にも満たなかったことを考慮すれば、女として尋常ではない身長である。良之助も身長は五、五尺(160cm半は)で、平均よりは高い方であったが、兄として、妹の方が頭一つ背が高いというのは劣等感を刺激されずにはいられず、良之助は改めてそれを思い知り苦笑いをする。

「どうした……? 昨夜の件で昂っているわけではないだろう?」

「それは……。」

「……ちょいと自分たちの流儀でやってみるかい」

 涼しげな良之助の顔が暗い影を帯びた。顔が良いのに、この歳になっても女が寄り付かないのは、良之助がたまに見せる二面性にもあった。

 良之助は大きく足を開き腰を落とした。木刀を上八相※(柄を持った両手を顔の横に持ってくる)から切っ先を後ろに向けた、法神流独特の構えだ。

 新徴組は剣術教授方に北辰一刀流が多く、またこの流派は撃剣の稽古で有利になりやすいため、道場では多くの者の剣が北辰一刀流に修正、もしくは影響を受けていた。

 故郷の流儀、琴も同じく深く構える。

 さらに、二人はすり足ではなく、大股開きでゆっくりと、抜き足差し足のように動き始めた。

 琴の横面、良之助が斜に構えて受け流す。

 さらに逆方向からの横面、それも良之助は斜めに構えて受け流した。

 横面を防がれた琴は、次に体を低くして足を狙う。良之助は片足を大きく上げてそれをかわし、木刀を片手で持つと連続して横なぎに琴に打ち込んだ。

 連続の打ち込みを木刀で防いだ琴は、再び身を沈めて足を狙う。

 良之助は再び足を上げるが、琴は小さく跳んで面を打った。

 辛くも良之助はその打突を防ぐ。

 他に類を見ない躍動感のある大きな動き、天狗剣法とも称される法神流の一部だった。

  古い剣術は秘密主義であったため、ふたりは自分たちの流儀をあまり同志の組士たちには見せていない。久しぶりに開放した自分たちの剣に、ふたりは血肉沸き踊る感情を覚えていた。

「おう、中沢兄妹! 早朝から殊勝しょしょうなことであるなぁ!」

 そこへ、新徴組の他の組士たちががやがやと入ってきた。ある者は上機嫌に、ある者は二日酔いの頭を抱えている。

 三笠の三羽烏と称されている山田寛司やまだかんじ(三十九歳)は琴と良之助を見ると声をかけてきた。

「お琴殿、昨夜はどうして酒席に参らなかった?」

 山田寛司は北辰一刀流ほくしんいっとうりゅうの使い手で、新徴組では剣術指南役、かつ弐番隊の小頭を務めている組士だった。出身は農民だが、剣術に加えて俳句や絵をたしなんでおり、剣術以外の教養の面で一目置かれている。三羽烏と称されるのも、剣の腕だけでなく人間性あってのものだった。また、新徴組を管理している庄内藩の中老、松平権十郎まつだいらごんじゅうろうの命が、彼を通して組士たちに伝えられるという重要な役割も担っていた。

「いえ、その……。」

 男衆の中から、羽賀軍太郎はがぐんたろうが顔を出して言う。

「ああん? どうせ月のもんだろう? これだから女ってやつはよぉ、侍ぶって俺らの後ろに金魚の糞みてぇにくっついてきて、いざとなりゃあ女だからか弱いんです見逃してくださいだとか命乞いするに決まってんだ」

「そういう言い方はないよ軍太郎君、昨日はお琴さんが逃走した賊の一人を仕留めてくださったんだ。僕たちだけでは危うく不始末をしでかすところだったんです。諸事情で正規組士とは認められてはいないが、彼女も大事な我々の仲間なんですから」

 と、五番隊小頭の沖田林太郎が言った。昨夜人を切ったとは思えない愛嬌あいきょうのある声だった。

「いえ、軍太郎さまの仰る通りです。女のわたくしがここにいるのは、ひとえにわたくしのわがままなのですから、きっと快く思わない方もいらっしゃると思います」

 羽賀軍太郎は、手応えのない琴の反応に、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「沖田さんっ」

 そこへ、千葉雄太郎の弟、弥一郎がやってきた。十三歳の、少年ともいってもいい幼い彼は、琴と同じく正規の組士ではなく小姓として新徴組で働いていた。

「どうしたんだい弥一郎君?」

 沖田が言う。

「京の弟さんからお手紙っす」

 そう言って弥一郎は手紙を掲げた。

「おお……。」

 弥一郎から手紙を受け取ると、沖田はそれに目を通し始める。

 山田寛司が訊ねる。

「弟君たちは、たもとを分かって以来、都でどうやっていくか案じていたのですが……手紙には如何様なことが?」

 山田寛司は、農民出身であることを意識してか、硬いものの言い回しをする。

「ええ、どうやら隊内でいくつかがあったようですが、隊の名前を新選組と改めて、近藤君が局長、土方君が副長として再出発したようです。これより、ますます将軍家のために忙しくなりそうだと」

「新選組、でありますか」山田寛司が言う。「我々新徴組と似ておりますね。参考にされたのでしょうか」

「はは、どうなんでしょうねぇ。……ふぅむ、どうやら総司たちの新選組は、会津藩預かりですが、かなり自由に隊の活動ができるようですな」

「そりゃうらやましいや」と、良之助が言う。

 新徴組は出羽国(現・山形県)の庄内藩、酒井家預かりだった。幕府から命が下り、江戸にいる酒井家中老の松平権十郎が指揮を執り、そして新徴組の組士たちが実行する。しかし、組士たちの上層部には、取扱役や監視役といった彼らを厳しく管理する役職が設けられ、活動は不自由なものだった。

「そうも言ってられないようです。土方君が局中法度きょくちゅうはっとなるものを規律としたらしく、それがたいそう厳しいのだと総司の奴がぼやいていますねぇ」

「厳しい? 隊の名前を使って悪いことをしたら即除隊とか?」

 良之助が問う。

「……士道ニ背キ間敷事しどうにそむきまじきことは……切腹らしいです」

「はぁ、何ですかそれ?」

「厳しいわりには、漠然としておりますな。士道に背くとは、どういう状況をいうのです?」

 良之助と山田寛司が口々に言う。

「当然です。武士たる者が道に背くということは死ぬことです。それを明文化しただけのものではないですか」

 千葉雄太郎が口をはさんだ。千葉雄太郎は『葉隠れ』を愛読していたため、侍はいつ死んでもおかしくはない、そして死ねば名だけ残ればよい、そういって襟元に自分の名を縫い付け死後の有り方を決めているような、新徴組の中でも特に侍であることの矜持が強い男だった。

「いやはや、近藤君や土方君が武士への思い入れが強いのは知っていたが、まさかここまでとは……ん?」

 一同は驚いた。いつの間にか、琴が彼らの近くにいたからだ。琴は目を見開いて沖田が話す様子を見ていた。

「どうしたんです、お琴さん?」

 と、沖田が言う。

「あ、いえ、何でもありません……っ」

 すぐに身を引いた琴だったが、内心はその手紙の内容をもっと詳しく教えてほしいと思っていた。

 あの時、清河八郎に背を向けたあの方々は、今はまっすぐに己の道を歩んでいるのだ。

 琴の中にあった、自己嫌悪の種が芽を出していた。

 稽古終わり、琴は道場の裏にある井戸に向かうと水浴びを始めた。

 上着をはだけ、あられもない姿で水浴びをする琴だったが、男衆おとこしゅうばかりの新徴組の敷地内において、琴は周囲を気にする様子はなかった。

 ひとつは、さきほどの沖田総司からの手紙だった。あの時新徳寺しんとくじで自分は選択を誤ったのではないだろうか、そう思うと土方たちのあの背中が羨望でまぶしくなり、後悔で視界が狭く暗くなっていた。

 もうひとつは、男の目を元から気にする必要がないためだ。稽古着のはだけた琴は、男装をしている時と打って変わっていた。大きめの乳房と砕けた腰、きめ細やかな肌は、浮世絵師が見たならばすぐにでも題材にしたがるかもしれない。しかしそれでも──

 一匹のオニスズメバチが庭に迷い込んできた。気が立っているのか、スズメバチは琴の周りをまとわりつくように浮揚ふようしている。

 スズメバチを一瞥いちべつする琴、濡れた手ぬぐいを手に取った瞬間、細やかな肌は筋張こわばり、ほっそりとした四肢には筋肉の凹凸おうとつが現れた。高速で振るわれた手ぬぐいは一転して凶器となり、浮遊していたスズメバチを空中で粉々に砕く。スズメバチに手ぬぐいが当たる刹那せつな、手ぬぐいと空気との衝突で小さな破裂音が音が周囲に響いていた。

 和らげな乙女の肉体からだだが、同時に刃のごとく鍛え上げられている中沢琴の身体からだだった。性的興奮を持って見る人間は新徴組にはいない。それは本人がよく分かっていた。

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