翌日の夜回りにも琴は参加していた。新徴組は十人二組の交代制で江戸の町を見回っていたが、とかく幕府の江戸の民のためになりたいと思っていた琴は、志や言葉ではなく実績が欲しかったため見回りの頻度が高かった。道を変えてしまった彼女には、それが存在証明だった。

 正規の組士ではないため、今夜琴が加わっているのは前回の伍番隊ではなく、山田寛司の指揮する弐番隊だった。

「……うむ、良い月であるな」

 山田が見上げている。どうやら、次に描く絵の題材にするようだ。山田は北辰一刀流を学ぶかたわら、著名な絵師に教えを乞うていたこともあった。本人は「絵たしなむ程度で、人に見せられるほどのものではない」と謙遜と思われる発言をしていたが、実際に組士たちが彼の絵を見たところ、何だか分からない四本足の生物が描かれていたという。

 しかし、それでも絵を描くことを愛するこの中年の男が月を眺める姿は、まるで自分自身が水墨画の題材であるかのような風流なたたずまいだった。琴はそんな自分の愛でるものにひた向きな山田に好意を持っていた。とかく、琴はまっすぐな想いを持つものに惹かれる性格だった。そういう面では、自分を嫌う千葉雄太郎に対しても琴は悪い印象を持っていなかった。というか、やや琴は惚れっぽかった。

「山田さん!」

 と、声変りを遂げたばかりの高い声をあげ、小姓の千葉弥一郎が走ってきた。弥一郎は今日は参番隊と行動を共にしていたはずだ。

「いかがした、弥一郎?」

「賊が空き屋敷に巣くっているのを、近隣住民から教えてもらったんすよっ」

 幕末は参勤交代緩和さんきんこうたいかんわのために空き家になった大名屋敷が多く、賊や尊王攘夷を目論む浪士たちがそこを根城にしていた。

「けど、人数が多いのと、それと……」

「それと、なんだ?」

「賊の中に、新徴組の組士がいるかもしれないと……。」

「なんと……!」

 当時新徴組が江戸の人々に頼りにされていた一方でうとまれていたのは、新徴組の名をかたり押し借りや強請ゆすり、無銭飲食などが多発していたからだ。酷い場合には、それが本当の組士や組を脱退した元組士という場合もあった。新徴組が庄内藩から厳しい監視が付けられていたのは、そういった事態が度々起きていたからだった。

 山田寛司は自分の隊の隊士たち十名を見ると、静かに、しかし力強くうなづき、弥一郎に「案内いたせ」と告げた。

 琴も愛用の薙刀を肩に担ぎ、彼らについて行く。

 弥一郎は山田寛司を案内しながらも、隊の中の誰かを探していた。そして探していた人物、中沢琴と目が合うと「っす!」と首を前に押し出すように頭を下げ、にかっと笑った。弥一郎は兄の雄太郎とは正反対の感情を琴に持っているようだった。

「ここか……。」

 弥一郎に案内された山田寛司は言った。参番隊の面々が遠巻きに大名屋敷を見ている様子があったからだ。

 山田寛司は参番隊の小頭の中川一(三十一歳)と示し合わせると、屋敷を取り囲み始めた。

 先陣を切るのは中川の参番隊だった。中川一は新徴組で柔術教授方も務める、揚心流(※近代柔道の源流のひとつになった柔術)の使い手だった。徒手での格闘なら新徴組で中川の右に出る者はいない。

 暗く狭い室内でも動きやすいよう、中川ははかままくし上げて右手に脇差を、左の掌を闇を探るような仕草で屋敷に入っていく。そんな中川を後ろから援護するように、彼の部下が三名、中川の見通しが効くよう、酒井家の家紋である酢漿草かたばみ提灯ちょうちんを携えて続いていった。

 中川一が慎重に声を上げる。

「近隣の者より、この屋敷に不審な輩が出入りしているとの報せがあった。もし、無宿人や、物乞いがいるならば、早々に立ち去るがよい。長らく人が住んでいないとはいえ他藩のお屋敷だ、勝手に使って良いものではないっ」

 返事はない。しかし中川は闇の中の、わずかに漂う空気に人の気配の名残を感じとっていた。

(誰かがいる。もしくは、いた)

 中川はより慎重に歩を進めていく。闇の中で、自分の鼓動だけが聞こえているようだった。

 すると、遠くから戸口を蹴破るような音がした。

(逃げられたか!?)

 中川が後ろの隊士たちに、外の山田寛司の弐番隊にそのことを伝えるために命じようと振り向くと、そのすきを狙って物陰から二人の男たちが襲い掛かってきた。

 中川は身を翻し、一人の男の顔面を脇差で切り裂いた。男の眉間から鼻筋、上下の唇を通して刃が走った。

「あぎぃぁ!」

 長どす・・を両手に構えているもう一人の男に対して、中川は胸元に縦拳で当身を入れた。

「ぐぶっ?」

 そして男が怯んだところを相手の右手首をつかみ、その腕を肩に担ぐ。

「痛っ」

 さらに中川は右ひじの関節が逆に極まっているところを一本背負いで投げ落した。

「ぐぇ……!」

 ダメ押しとばかりに、中川は体重をかけて男の右ひじと右肩を捻じる。

 二か所の関節が同時にめりりと破壊される音が武家屋敷の暗闇に小さく響き、次に暴漢の悲鳴が大きく響いた。

 すぐさま立ち上がると中川は組士たちに言う。

「ひとりは山田さんに伝えろ、賊は裏口から逃げたと! もう一人は俺に続け!」

「は、はい!」

 隊士たちは同時に言うと、同時に反対方向に向かった。一人は外の月明かりへ、一人は中川と共に暗闇へ。

 飛び出てきた隊士を見て同じ隊の男たちは言う。

「どうした!?」

気取けどられてた! 賊の奴らは裏口から逃げたようだ! 隊長は中から賊を追う! 裏口に回った弐番隊に至急伝言を!」

 そう言い残し、隊士は山田たちの下に駆けていった。

 一方の、建物の裏にいた弐番隊、山田寛司の顔色は優れなかった。

「……賊の中に組士か」

 理由はふたつ。

 新徴組には、常時二百名を越える組士がいた。増減のあった新選組と比べるとかなりの大規模である。組士の入れ替わりも多く、お互いに顔を知らない者も多いのだが、その賊とやらが見知った顔の可能性がないわけではない。

 気さくな中年男だと思い仲良くしていたら、実は過去に強盗殺人を働いたやくざ者だったということも、新徴組内ではままあることだった。

 もしかしたら、これから切らなければならないのは知人かもしれない。そう考えると、刀を握る力は常のものではなくなる。

 またもうひとつの理由として、新徴組の隊規の乱れもあった。その乱れは、江戸の人々からの信頼の喪失へも繋がっていた。不審者の情報や組士の立ち寄り場は、市井しせいの協力で成り立っている。だが先日、「報国忠士ほうこくちゅうじ」を名乗る者が新徴組を誹謗ひぼうする立札を立て世間を騒がせたばかりである。いわく、世間ではいつのまにか盗人の集団を武士に仕立て新徴組などと名乗らせている、と。新徴組を快く思わない江戸の町民は一定数いるのだ。

「山田さま」

 そんな心配事をしている山田に中沢琴が声をかける。

「中沢の」

「山田さまは毅然としていてください。小頭がそれでは動揺いたします」

「……。」

「簡潔にご命令を。刃の務めは振るわれ、そして斬るだけです」

「ふむ……。」

 正規の組士ではないが、そこいらの男衆よりはずっと頼りになる。山田は肩が軽くなるのを感じた。

「琴さんの言う通りっす。武士は迷うもんじゃないっすよ」

 そう言ったのは千葉弥一郎だった。そんな弥一郎を見て山田は怪訝けげんな顔をする。

「お主は今日は参番隊についているのでは?」

「あ、いや、そ、その……虎穴に入らないと何とやらじゃないっすか。俺は手柄立てて、すぐにでも新徴組の組士になりたいんですっ」

 琴の方をちらちら見ながら弥一郎は言う。

「なるほど、見上げた根性であるな」

 そこへ、「小頭殿!」と参番隊の隊士が駆け込んできた。

「いかがした!?」

「賊は裏口より逃走を図ったと中川さんから!」

「……裏口?」

 しかし、弐番隊が裏口ではっていたが、賊は出ててくる気配がなかった。

「もしや、中で待ち構えておるのか……。」

 暗闇、かつ閉所での戦い。数の利が絶対ではなくなる。山田は自分の隊の隊士たちを見る。

「……ほんとうに裏口、でしょうか?」と、中沢琴が言う。

「どういうことだ?」

「こういう古いお屋敷です、手入れも長い間あったようには見えません。もしかしたら、抜け穴などが……。」

「……なるほど」

 山田寛司は顎を指でなぞり、そしてすぐに決断を下す。

「三人は儂とこのまま裏口をはる。三人は屋敷の中へ行け、中川殿と挟撃になるように。後の四人は、別に出口がないか、屋敷の周辺を検分せよ」

「では、言い出したわたくしが行きます」

 琴が言うと、弥一郎も「自分も行きます」と挙手した。

「お主がか?」と山田寛司は言った。

「弥一郎さん、賊がどこに潜んでるか分かりません。あなたは山田さまと一緒に……。」

「琴さん、俺にだって兄貴ほどじゃないかもだけど、侍としての覚悟くらいはありますよっ」

 弥一郎のまっすぐな眼差しに、琴は自分の発言を恥じた。身辺を理由に正式に組士として認められてくれない、他の男たちと同じことを少年におこなってしまっていた。

 しかし、実際のところ弥一郎のまっすぐな眼差しは別の所から来ていたのだが、それは琴以外の全員が気づいていた。

「剣だって、毎日馬之助さんに稽古つけてもらってるんすからねっ」と、弥一郎は腕まくりをする。

 柏尾馬之助、組を統括する新徴組肝煎きもいりの一人で、北辰一刀流の大目録皆伝であり、新徴組随一の使い手だった。山田寛司と並ぶ「三笠の三羽烏」のひとりであるが、彼に関しては完全な剣の実力での評価だった。人格者でもあり、剣術の稽古は一日たりとも休まない彼のもと、剣の教えを乞う者は多い。

「……わかりました弥一郎さん、では供に行きましょう。半人前同士で、ちょうど一人前で良いかもしれませんし」

「そうこなくっちゃっ」

 琴と弥一郎、そして三人の隊士が屋敷のさらに裏の、雑木林と面している方向へ駆けて行った。

 そして道などないような草木の茂る前の壁を見て弥一郎が呟いた。

「やっべぇ……。」

 琴の懸念通りだった。土壁に穴が開いていた。屈めば大人一人が通れるくらいの。

「どうします? 山田さんたちに伝えますか?」

「しかし、賊がここから出ていったとは限らんだろう。もしかしたら、まだ屋敷の中にいるかもしれない」

 追うか留まるかだが、とにかく独りでいるのはまずい。新徴組が結成から消滅するまでの十年間、危険な任務にあって一人も死者・重傷者を出さなかったのは、集団戦の利を心得ていたからだ。裏を返すなら、不意打ち、しかも二人以上からのそれを喰らえば、いかな剣の上手でも簡単に命を落とすということだ。

 新徴組の発起人、清河八郎の最期がそうであったように。

 琴は雑木林の中に足を踏み入れると、真新しい足跡が残っていることに気づいた。

「賊はここから逃げ出している可能性が高いと思います。壁穴を見張る方と賊を追う方、二手に分かれましょう」

 琴は弥一郎を見る。弥一郎はうなずいた。

 もう一人、琴たちについてきたのは、新徴組組士の中でも一、二を争う高齢の佐々木如水(六十二歳)であった。新徴組加入前は浪人だったが、元々は代々どこぞの藩の家臣であったらしく、気ぐらいからか、総白髪だが若者には負けない活気のある老人だった。体は細く小さいが、その気性はささくれた枝先のようにとげとげしい。

 結局、追跡する三人は、自然と結成されたとはいえ、構成が女性と老人と少年になっていた。

 琴は足跡を追いはじめてから違和感を感じ始めていた。

 まるで、こちらの分断を図るような逃走経路の様な気がしていた。

「……ん? いぃ」

 大きな声を出そうとする弥一郎に琴は口に指を当てて鎮める。彼らは視界に賊の背中をとらえていた。

(……結局、あの人たちはあの壁穴から出て行ったってこと?)

 琴の違和感は強くなった。

 弐番隊の隊士の話では裏戸を壊す音が聞こえたという。しかし、あの穴を通るときに、戸を壊す必要があるのだろうか?

 琴は彼らの逃げる背中を見ながら悪寒が走った。ひとりが、追っているこちらを振り向いて確認したのだ。

(わたしたちのことに気づいている?)

 賊はさらに奥へと雑木林に入っていく、やがて雑木林が開け、そこは長いこと放置されていた廃墟のような古寺だった。

 先頭を走っていた琴は左手を伸ばして後続の弥一郎と佐々木を制した。

「……琴さん?」

 寺の近くでは物乞いだろうか、男が何かを焼いていた。

 どうやら、その男は今回の件とは関係がないらしい。賊にしても恰好がみすぼらしすぎる。

 それよりも、問題は自分たちの周囲だ。仕組まれた気配がしている。

「……まずいかもしれません。皆さま、お覚悟を」

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