第一部 動乱の江戸編
第一章 現れた剣豪
夜語り
──元治元年
数年前までは
そんな闇夜の中を堂々と歩く侍の姿があった。歩き方はやや奇妙で、肩は揺らさず足だけがすすっと前に出ていくのである。それは、ここ数年その侍に稽古をつけている先生の言いつけだった。
侍は灯りのついた居酒屋の前で立ち止まると、すぅっと店の戸を開けた。
「あら、いらっしゃいませ、お侍さ──」
家の手伝いをしていた居酒屋の店主の娘は、その侍を見るなりほぅっと息を止めた。
まるで白百合を添えた白刃、
背も高い。五・六尺(170cm)はある。平均身長が四・八尺(145cm)の当時の女性からすれば見上げるほどである。
明るめの髪は
「あ……は……。」
娘は
「もし、お嬢さん?」
侍が言葉を発すると、娘は再び息をのんだ。
女の声だったのだ。
「え、あ? お、おん……」
娘の中の走馬灯は一瞬で引き裂かれ
しかし、そんな娘をよそに侍は訊ねる。
「こちらに、石田と名乗る方がお見えになってはおりませんか?」
「いしだ……あ、ああ、はいっ、かれこれ半刻ほど前にっ」
娘の視線の方を侍は見た。総髪の髷と黒い羽織の背、変哲もない背中だが威圧感がある。
侍は小さくうなずくと、娘に微笑みを残してその石田という侍のもとへ向かった。
女と分かった後でも、娘はその微笑みに心を射抜かれ、しばらくその場を動くことができなかった。店主である父に「何やってんだよ! 酒もってけ!」と叱られ、ようやく我に返ることができたのだった。
「……石田殿」
侍は石田という男に声をかける。男は侍を横目で見ると苦笑した。
顔立ちのくっきりした男だった。くっきりしているというのは、骨や肉の造りのことだけではない。思考や感情、信条の明確さが面構えに出ていた。
初めて会った時から変わらない顔だったが、一つ違うのは肉や皮膚の質感だった。恐らく撃剣の稽古を一日も欠かしたことがないのだろう、殊、手先の堅牢さときたら、もはや素手で巻き藁くらいなら切断しそうだった。
「
遠慮がちに笑って中沢琴は首を小さく振った。
「謙遜はするなよ、新徴組は幕臣に取り立てられたそうじゃないか」
「いえ、わたくしは、その……幕臣では……」
「……そうか」
琴の事情を知る土方は、伏し目がちに杯を口に運んだ。
「おや、飲まれるのですか?」
「普段は近藤さんにあわせて飲まないようにしてるだけだ。永倉ほどじゃないが、俺だって飲む」
「そうですか」
そこへ居酒屋の娘が
「こちらに関しても江戸ではお前たちに一枚劣るようだ」
琴は「よしてください、さしてうれしくもありません」と言って、杯を手に取り酒を飲み始めた。
琴の飲みっぷりを見た土方が笑う。
「何か?」
「いや、男装が板についたものだと思ってな」
琴の顔が酒の回る前から赤く染まった。
「あ、ああ、あの頃は……とりあえず、あにさまのお下がりを勝手の知らぬままに羽織っていましたから……。」
「そうだったな……。」
懐かしそうに土方は目を細める。
「例のあにさまは息災か?」
「相変わらずですよ……。」
琴はため息をつく。
「お前たち兄妹とは、
「……はい」
懐かしさもあるが
二人の出会いは、幕末の
「尽忠報国の志があれば、身分も年齢も問わぬというのは嘘なんですか!?」
そう周囲に訴えかける琴の足元には中年の浪人が白目をむいて倒れていた。女だてらに志士を名乗るのなら腕を見せてみよ、そう喧嘩をふっかけてきたその浪人を、琴が木刀で打ち倒していたのだ。
道場主の家に生まれ、幼少期より
そんな妹を見ながら、中沢
「いいんじゃないのか、女を捨ててでもここに参加しようってんだろ? 志なら、そこいらの浪人よりも高そうだ。よっぽど頼りになるだろうぜ」
集団の中でそう声を上げたのは
「かーかっかっか! 言い過ぎだぞトシィ!」
「土方さんのおっしゃるとおりですよ。私には志の高い低いは分かりませんけど、
愉快そうに周囲を見渡すのは
近藤勇、土方歳三、沖田総司の
「たとえ腕が立つといってもだ、そんな恰好でついてこられたら、風紀が乱れようってもんじゃないのか?」
また別の場所から声が上がった。でっぷりとした腹が特徴的な
「まぁ、そんなドデカい女、組み伏せてどうこうする奴がいたらの話だが」
芹沢はにたりと笑いながら重々しい鉄扇で肩を叩く。彼の周囲には酒の匂いが漂っていた。
「まぁ、確かにその恰好では……京までの長旅はちとな」
琴の姿は、遠くの親戚のもとに足を運ぶかのような、心もとない女の旅姿だった
「わ、分かりましたっ、それなら……!」
それからしばらくして、強引に兄の替えを譲り受け、長髪を無理くり
あまりにも
頃合いを見て伝通院に現れた頭役の清河八郎はそんな琴をみてぎょっとしたものの、六十を過ぎよう老人もいる集団だった、今さら妙なものが紛れ込んでいてもどうこうもないだろうと、浪士組を京へと出発させた。
旅立つ時、琴は試衛館の面々に頭を下げた。しかし、彼らとしてはまったく何もやってやったつもりもなかった。恐らく、この女ならば自分たちが何も言わなかったとしても、我を通してついてきたのだろうから。
かくして江戸を出発した浪士組だったが、旅の途中でもさらに浪士が参加し、目的地の京についた時には二百六十名を越えていた。
そして、ここで事態は急変する。
当初、清河は幕府に対し、浪士を募るのは尊王攘夷の浪人たちが集いつつある京都において、
幕府の
「
浪士たちはざわめいた。しかし、清河八郎が関白からの書状を持っているということ、すなわち自分たちの背後には天皇がいるということだった。
字も読めぬ者の多く、今上天皇の名も知らぬ浪士の集団だったが、天皇がこの国の権威の最上位であることは知っている。ならばついて行く他ないだろう。
だが、それに反旗を
芹沢鴨の水戸派と近藤勇の試衛館組だった。
我らは将軍警護のため、徳川幕府のために上洛したのだ。尊王攘夷など聞いたこともない。武士がおいそれと道を曲げ、あまつさえ引き返せるわけがなかろう。
芹沢鴨はそう清河に食い下がると、同じ水戸派の
芹沢鴨が出て行ったあと、近藤勇と土方歳三も「我々は
しかし、新徳寺から出て行ったのは二百六十名中、わずか二十名だった。
それ以外は、清河が口にした天皇の権威に疑問を抱かなかった者、そして……。
「あにさま、いかがいたしましょうか」
去り行く土方たちを視界に入れながら、中沢琴は兄の良之助に訊ねた。
しかし、良之助は琴を見るなり「ぶっ」と吹き出した。
「わ、笑っている場合ですか?」
「いや悪ぃ、お前がまじめな顔をすればするほど愉快で……。」
不格好な
「ですから、そんな場合ではないと……。」
「何、どうしたんだよ?」
「わ、わたくしたちはどうするのです?」
「どうするもこうするも、江戸に戻るんだろ?」
「わたくしたちは江戸から来たばかりなのですよ?」
「確かに急だよな、もう少しばかり休みたいし、京の街を見て回りたいしなぁ……」
「そうではなくて、わたくしたちは徳川のため、将軍さまのために集まったんです。それを勅命だのと、そのひとことで志を変えるというんですか?」
良之助は「まいったなぁ」という風に頭をかく。良之助の癖であった。
そして良之助は軽く琴の肩に手を置くと、軽い口調で言った。
「いいかい、お琴? 何事にも保障ってのは大事なんだよ。今出ていった奴ら、勇ましいのは結構だけど、これから一体どうするか分かるかい? どうせにっちさっちも行かなくなって、ご立派な志を口にしながら商人の家に
良之助の言うことは半分あたっていた。その後の芹沢鴨の蛮行を顧みるならば。
「士道をも天秤にかけるのですか?」
「そこはまぁ、生活できてこその士道じゃない? それに、いま目の前にある道はふたつにひとつ、でも、どっちを選んでも正解の可能性だってあるし、その逆だってある。だったらさぁ、勝手知った道を行くべきだろう? お琴ちゃん?」
「そ、それは……。」
兄の飄々としたものの言い方は、芯が通っていなかったが、むしろそれが柳の様であり反論しづらかった。
こうして中沢琴は、新徳寺に残ったその他大勢と行動を共にすることになった。
浪士集団はその後いくつかの騒動に巻き込まれ鞍替えをくり返し、数奇な運命の中で幕府より剣客集団「新徴組」と命名され、最初の志と同じく「尽忠報国」の集団として江戸の警備にあたることになっていた。
「……まさか、あの時の
思い出話をする土方は、酒のつまみの漬物を箸でつまみ口に運ぶと、「だが、これに関しては
「一度、わたくしも京に
「ふむ……時に、
「林太郎……ああ、はい、沖田さまですね……どうしましたか? まさかあの弟君がご心配を?」
「いやいや、あいつはそんなこと一向に気にはしない。だが、林太郎さんは試衛館からそちらに行った数少ない仲間だったからな、少し気になっただけだ」
「そう……ですか」
「うむ……。」
ふたりは少しの間、沈黙した。それを聞くために分かっていることなのに、上手く切り出せないでいた。切り出し方が分からないのだ。
「……手紙でお伝えした件ですが」
琴が言った。
「あ、ああ、それだ、その話だ……。」
「はい……。」
「その、それは……本当の話なのか?」
そう訊ねる土方に、琴は困ったように眉をつり上げた。
「違うのか?」
「今この時でも、改めて人に説明するとなると、やっぱり……あれは違うんじゃないかと……。」
「何だそれは、俺は君たちが彼は本物だというから……。」
「そうなんです、会っているとあの方は間違いなく本物だと確信できるんですっ。けれど、やはり、言葉にするとなると……分かりますでしょう? これがどんなに奇妙な事か?」
「ま、まぁそうだが……。しかし、君も、そして新徴組の組士たちも彼は間違いなく……。」
「今や疑っている人はいません」
「なるほど……手紙には彼が新徴組にいるという話だったが、詳しい経緯は書かれていなかったな。どうやって、現れたんだ彼は? それこそ……空から降ってきたのか?」
「まさかぁ」
琴は苦笑する。
「いや、それくらいまさかの話だろう。誰が信じられる? 彼が現世にいるなどと。彼がいったい何百年前の人物だと思ってる?」
「それは……そうですね」
琴はうなずくと、くいっとおちょこの酒を飲み干した。そして外を見て語り始めた。
「あの頃わたくしはずっと迷っていました。新徳寺で土方さまたちの背中を見送りながら、本当に自分はこれで良いのかと。兄に説得されて江戸へ戻りましたが、その後の
「……それで……君たちはどのように出会ったのだ? あの……宮本武蔵と」
格子窓から外を見ていた琴の顔が、急に青ざめた。
「まるで、
決して暖かみのある思い出ではないようだった。
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