第21話 5月26日(金)の日中(part3)~コバヤシくんの失態とミナイさんに誠意ある謝罪を~
現在はお昼休みです。
タナカくんは体育のあと、大変なことになっていました。端的に言いますと、男の子だったらまずそうはならないのですが、ある箇所の汗が尋常ではなかったのです。蒸れて気持ち悪くて仕方がありませんでした。タオルと着替えを持っていくよう進言してくれたツユリさんには感謝しかありません。
その対処を終え、タナカくんは今、文化部部室棟の屋上にて日陰になっている位置で涼んでいます。手にはお弁当が入った小さな袋が二つ。
「……なんでつくってきちゃったんだろ。……約束もしてないのに……」
昨日、コバヤシくんにおいしいと言われたことがよほど嬉しかったのでしょう。タナカくんは今日はつくろうとは思っていませんでした。ですが、何故か出来上がったお弁当箱は三つ。完全に思案の外でした。ただ、「またおいしいって言ってほしい」――その思いが勝手に三人分のお弁当をつくらせたのです。
折角つくったので持っては来ましたが、コバヤシくんにも予定があります。勝手につくってきているので、渡しても迷惑になるかもしれません。そう考えたものですから、この袋は今、こうしてタナカくんの手元にあるのです。
(受け取ってもらえなかったら夜ご飯にしよう……)
そう決めて、タナカくんが自分のお弁当を食べようとした時、
――ガチャン!
と、勢いよく扉の開く音がしました。
タナカくんのいる位置からは扉は見えませんでしたので、いきなりの大きな音にびくっとなってしまいます。心臓はどくどくと早いビートを刻んでいましたが、塔屋の陰から現れた人物の姿を見て、それはすっかり治まりました。ただ、今度は目を回してしまいそうになりましたが。
「はぁ、はぁ……! なんとかここまでこれた……っ」
「……ソウ?」
やってきたのはコバヤシくんでした。額に浮いた玉のような汗を拭い、蒼白い顔をして塔屋の壁に身体を預けながら日陰を目指して、タナカくんがいる場所へ向かってきていました。
「み、ミナト……? どうしてここに……――って、そうか。晴れた日は、大体ここにいるんだったね……。ここ、使う人がほとんどいないから、って理由で……」
「……うん。……ソウ、は? ……大丈夫? 顔色悪い……」
コバヤシくんの元気のなさに、タナカくんはあわあわします。どうしてここに来たのか、という疑問は吹き飛び、何があったのか、を質しました。
「うん……。大丈夫、大丈夫……――」
コバヤシくんは最初、はぐらかそうとしましたが、
「うぇっぷ……っ! おええええっ!」
そんなことができる状態ではありませんでした。口元を押さえて蹲るコバヤシくん。タナカくんは慌てて、買い物をするために畳んで持ち歩いていたビニール袋をポケットから取り出し、広げてコバヤシくんの元に持っていきました。
「◎▲$♪×¥●&%#?!」
――エチケットタイムです。しばらくお待ちください――
「ふぅ、ふぅ……っ!」
出すものを出して幾分かは楽になったでしょうが、ぐったりしてしまったコバヤシくんの背中をタナカくんが擦ります。コバヤシくんの呼吸が落ち着くまで、タナカくんはそれを続けていました。
「あ、ありがとう、ミナト。も、もう、大丈夫……」
コバヤシくんがなんとか回復したようなので、タナカくんは少しの間、コバヤシくんから離れて袋の処理に向かいました。文化部部室棟四階にあるトイレに行って、トイレットペーパーを拝借し、袋に詰め込み、口を固く結んで密閉し、可燃ごみとして捨て、手をよく洗ってからコバヤシくんの元へ。
タナカくんが屋上に戻ると、コバヤシくんは日陰で横になっていました。
「……何があったの?」
「何もなかったなんて言わせない」という意思を込めたムスッとした表情でタナカくんが尋ねると、コバヤシくんは観念したように白状し始めました。
「じ、実は、イチジクさん、今日もお弁当をつくってきてて、さ……。贅沢を言うつもりはないんだけど……っ、つくってきてくれること自体はすっごく嬉しいんだけど……っ! でも、彼女の料理は、その……っ」
イチジクさんの料理は壊滅的です。タナカくんは昨日、コバヤシくんがそれを食べて腹痛や吐き気、悪寒や発汗に見舞われたということを聞いていましたから、「まさかまた、そのような状態になる料理を食べたのか!?」と想像してゾッとしました。コバヤシくんが脱水症状気味になっていたのを目の当たりにしていたタナカくんですから、彼が話を盛ってはいないものだと認識しています。
「……食べたの? それを?」
「……食べた、っていうか、食べさせられた、っていうか……」
タナカくんが「昨日つらい経験をしたばかりなのになぜ食べたのか?」というような顔をして訝しんでいると、コバヤシくんは「自分で食べたのではない」と返してきました。コバヤシくんは食べさせてもらっていたのです。俗に言う「あ~ん」というヤツです。
彼女が食べさせてくれると言うのに断るわけにはいきません。好意を無下にはできなかったコバヤシくんは茨の道を進みました。結果、待っていたのは、
――「口からキラキラしたものを出すよ」という未来でした。
「……はぁ。……自業自得……」
タナカくんは溜息を零しました。「あ~ん」につられて地獄にわざわざ足を踏み入れるなんて、欲に目が眩んで後先を考えられなくなっていたとしか言いようがありません。呆れ果てます。
ですが、タナカくんの視線は自分がつくったお弁当の方へ持っていかれました。そして、その視線を今度はコバヤシくんの口の方へと持っていきます。意識はしていませんでしたが、タナカくんは今、無性にお弁当をコバヤシくんに食べさせたがっていました。
タナカくんがじーっと口元を見てくるものですから、コバヤシくんはわけがわからなくて落ち着きません。
「み、ミナト……?」
「――っ」
コバヤシくんに呼び掛けられて、タナカくんは正気に戻ります。
「……それで? どうしてここに?」
タナカくんが経緯の説明を促すと、コバヤシくんはそれに従いました。
「う、うん……。一口食べて、やっぱり無理だったから、トイレに行くって言って脱け出してきちゃった……。なんか、もう、頭の中、ワーッてなっちゃって、気づいたらここに向かってたんだ……」
コバヤシくんの言葉に、無自覚でこの場所へ向かうことを選んでいたということに、タナカくんはコバヤシくんと心の奥深いところで繋がれているのではないか、と胸に熱いくらいの温かさが込み上げてきます。ですが、そんな場合ではないことに思い至って、現状と向かい合いました。
コバヤシくんは心身ともに深刻な状態でした。それは想定していた以上に、です。その原因は、イチジクさんに物申せないからではないか、とタナカくんは推論しました。
タナカくんはコバヤシくんに呈します。
「……ソウ。……イチジクさんに、ちゃんと言わないとダメ。……『君の料理は食べられない』、って。……そうじゃないと、ソウが保たない……っ」
「……そう、かも。……ううん、そうだね。相手を傷つけたくないからって何もかも肯定するのがいいことだとは限らないよね。僕が倒れたら意味がないかもだし……。ちゃんと伝えるよ」
タナカくんの思いは、コバヤシくんの
コバヤシくんはふらふらとした様子で立ち上がり、覚束ない足取りで扉の方へと歩を進めました。けれど、その顔は震えている脚とは違い、正鵠を得た、といった感じのしっかりとした表情をしていました。
「ありがとう、ミナト……。ちょっと、(イチジクさんに)言ってくるよ……」
コバヤシくんはこれからイチジクさんの元へ向かうようです。タナカくんは、壁に寄りかかりながら移動しているコバヤシくんのその姿に、心配を募らせました。
「……待って、ソウ。……これ、持っていって……」
元気がないコバヤシくんの力に少しでもなりたくて、タナカくんは持ってきていた二つの小さい袋のうち、その大きい方をコバヤシくんに差し出します。
「……お弁当。……今は食欲ないかもだけど、食べられるようになったら、食べて?」
渡されたコバヤシくんは目を丸くしていました。ここに自分の分があるとは思ってもみなかったようです。タナカくんはあげてしまってから「迷惑だったかな?」と不安に駆られましたが、コバヤシくんは微笑んで、
「……ありがとう」
と言ってきました。コバヤシくんが少し元気になったこと、それだけで、タナカくんは幸せな気持ちに満たされました。
それから、コバヤシくんは扉を開けて棟の中へと入っていきます。普段なら、自分のヒーローだと認識しているコバヤシくんがどこかへ行ってしまうとなれば寂しさを覚えていたタナカくんですが、この時はそうなることはなく、穏やかに見送ることができました。
タナカくんのこの行動と、コバヤシくんが採るこのあとの行動によって、波乱が巻き起こるのですが、それは少し先のお話。
……………………
放課後になります。
今日はちゃんとコバヤシくんは最後まで授業を受けていました。そのことにはホッとしたのですが、タナカくんは帰りの時間が迫るにつれて心は憂鬱になっていっていました。
というのも、本日は金曜日。バイトの日です。別にタナカくんはバイトをすること自体を嫌がっているわけではありません。理由は、前回のバイトの時、今週の水曜日にタナカくんはやらかしてしまっていたからです――バイトの時間帯に脱け出してしまうという行為を。
「……はぁ。行きたくない……」
あれから、タナカくんが働いている喫茶店の店長であるミナイさんはぷりぷりしていて、機嫌を損ねている状態が続いていました。ミナイさんは可愛い仕草を取っていましたので、心の底から怒っているというわけではなさそうなのですが、何分、容姿が容姿であるため妙な威圧感があるのです。タナカくんはこの発想がよくないことだと理解しているつもりなのですが、感じてしまうものは感じてしまうのです。
可能であるならば休みたかったタナカくん。ですが、その選択が得策である、とは言えないこともわかっています。逃げていては問題は解決せず、むしろ避けていた時間がより謝りにくくさせて問題を悪化させてしまう恐れすらあるのですから。
タナカくんは腹を括り、バイト先であるデパートへと向かいました。
バイト先、喫茶店『ミナイ』の前にタナカくんが着きます。
一度深呼吸をして、タナカくんは自身に気合を入れ、その扉を開きました。チリンチリン――と来客を知らせる鈴の音。聞き慣れているその音にさえドキリとしてしまう精神状態のなか、タナカくんは店内にいたミナイさんの元に行って声を掛けました。
「……お、お疲れ様、です、み、ミナイ、さんっ。……あ、あの、この前は本当に、すみません、でした……!」
タナカくんが頭を下げると、数十秒して、ミナイさんがゆっくりと口を開きます。
「いいのよ、ミナトちゃん、反省しているなら、ね。私、社会人ですもの。誠意を見せてくれるならいつまでもネチネチなんて言わないわよ?」
いつも通りのミナイさんのその声色にタナカくんが顔を上げると、そこにはいつも通りの
「ねえ、ミナトちゃん?」
気がつけば、ミナイさんの姿はすぐ目の前にあって、更にじりじりと寄ってきていたのです。タナカくんはぞくっとして後退りますが、ミナイさんはすぐに詰めてきます。そして背中が閉められている扉にピタッとくっつきました。ドアのバーハンドルに手を掛けようとしたタナカくんですが、先にミナイさんにそれを掴まれてしまい、逃げ場を失います。『直感』が働いた時に行動に移せていればこうはならなかったのですが、もう手遅れでした。
片手でバーハンドルを固定しながら、ミナイさんはもう片方の手でどこかから例のものを取り出して言ってきました。
「じゃあ、これ、着ましょうか!」
それは、このお店の女性従業員用の制服です。
「――着ないっ! 着ません……っ!」
拒むタナカくん。すると、ミナイさんはとんでもない手段に打って出てきました。
「あら? ミナトちゃん、反省しているのよねぇ? ごめんなさいって言ったその気持ちは嘘だったのかしら? あなたの誠意はそんなものなの?」
「……はぅ……」
何も言い返せません。悪いことをしたのはタナカくんですから。ご免で済むなら警察はいらないのです。タナカくんは「誠意を示さなければ」という気持ちになっていきました。罪悪感が自尊心を追い遣ります。
「……なーん――」
ミナイさんが何か言いかけていましたが、タナカくんの耳には届いていませんでした。
女の子として見られたくないタナカくんからしてみれば、これはまさに究極の選択だったのです。ミナイさんとの関係をこじらせて今後働きにくくなるか、今日一日したくない女の子の格好をして働くか、の二択。どちらも嫌でしたが、タナカくんは選ばなければならないと感じていました。それが、やらかしてしまった自分の責務だ、と。そのため、タナカくんの感覚器官は
タナカくんは決断したした。
――女性従業員用の制服を着ることを――
「わかり、ました。……着ます……っ!」
「えっ!?」
そうしなければ償いにはならない、と判断したからです。これが、タナカくんの示すことができる最大の誠意でした。
目に涙を湛えながら、タナカくんはミナイさんの手から制服を半ば強引に受け取ると、奥の従業員スペースへ。
実は、先ほどミナイさんは「なーんてね。冗談よ。これに懲りたら次は時間内に勝手にお店から出ていかないようにね?」と言おうとしており、「女性従業員用の制服を着ろ」云々はただの脅しだったわけですが、落とし前をつけなければならないと囚われて必死だったタナカくんがミナイさんの真意に気づくわけもなく……。
女性従業員用の制服、ロリータ調のメイド服に身を包んだタナカくんは、従業員スペースへ入っていった時の勢いはどこへやら、です。手が震えながらもなんとか着替えることはできたタナカくんでしたが、「これからこれで人前に出なければいけないのか」ということに思い至り、急激にしおらしくなって、それでも「これは自分への罰なのだ」と奮い立たせ、おずおずとミナイさんの前に姿を現しました。
この究極完全体カワイイの権化を目にしたミナイさんの反応は、
「てんしぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!」
奇声を上げ、その場で卒倒する、というものでした。
ちなみにこのあと、喫茶『ミナイ』に訪れたお客さんはそのほとんどがミナイさん同様に倒れることになります。営業する上でかなり問題があると思うのですが、その日の売り上げはいつもの十倍を計上したそうです。
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