第19話 5月26日(金)の日中(part1)~初めての体育と気になる視線~
☆☆☆☆○○○○
金曜日の体育は四時限目にあります。
例によってタナカくんは誰も使わない教室まで行って一人で着替えていました。ツユリさんが言っていた通り、この日はとても暑い日です。冷房がついていないこの空き教室にいるだけで汗が出てくるほど。ですので、タナカくんは参っていました。
「……暑い。……けど、長袖じゃないと……っ」
今日の授業内容は長距離走(正しくは時間走ですが)ということで、場所は屋外になります。よって、直射日光が避けられないため、この部屋より暑く感じるであろうことが想定されます。ジャージは半袖のものを着用した方がいいでしょう。それはタナカくんもよく理解しています。理解していましたが、已むに已まれぬ事情がタナカくんにはありました。
そうです。半袖のものだと薄すぎるのです。
タナカくんがいくら規格外な着やせする体質の持ち主だとしても、生地の薄い半袖では変わってしまった体型をごまかすことなんてできません。そのため、女の子になったことを隠しているタナカくんは長袖の着用を余儀なくされたのです。長袖のジャージは生地が厚めですので、それならタナカくんの体質を活かすことができます。但し、厚いし、熱いというダブルのあつさで、服の中は凄惨なことになるのですが。
そして、何よりタナカくんに「絶対に半袖は着れない」と感じさせたのは、この学校の体育が二クラス合同の男女別々という方式の所為でした。要するに、これからタナカくんが向かうのは男子しかいない空間なのです。
(そこで、今は女の子だということがばれてしまったら――)
タナカくんはその先を考えただけで、暑いのに震えが止まらなくなりました。実際問題で考えれば、タナカくんが想像するような身の危険が迫る事態には倫理的な観点からいってそうそう起こり得ないはずです。しかし、女子に知られていないという点が男子たちによからぬ妄想を抱かせてしまう可能性があることは否めませんので、用心することに越したことはないのかもしれません。
そのようなことを思慮していると、授業開始の時間が迫っていることにタナカくんは気づきます。ただでさえ遠いところにまで着替えに行っているタナカくんですから、忙しなく鏡代わりにしたスマホで身なりを確認して急ピッチで昇降口へと向かいました。
なんとか間に合ったタナカくんは、既に校庭に来ていたコバヤシくんを見つけて彼の方へと近づいていきます。
昇降口の方へは背を向けていたコバヤシくんでしたが、タナカくんの接近に気づいて振り返りました。タナカくんの息の切れた声に反応したようです。それだけでわかる辺りが長い付き合いの照明と言えるでしょう。
「ギリギリだったね、ミナト……。また違う場所で着替えてきたの――って、なんで長袖!? 熱くない!?」
「……はぁ、はぁ……っ。……は、半袖、忘れた……」
タナカくんは、その姿を確認したコバヤシくんにツッコまれました。それは、額から汗を流しているのに長袖なんて着ていたら心配されもします。
そんなコバヤシくんの戸惑いの声を、もっともらしいことを言って受け流そうとしたタナカくん。ですが、タナカくんは時間がなくて、遠い場所から全力疾走気味に急いできていたこともあって肩で息をしていましたから、そんなタナカくんの姿に安心させられる材料なんてどこにもありません。コバヤシくんの憂いは増すばかりです。
「ほ、本当に大丈夫? これから十五分間走だけど……」
「……だ、大丈夫、だと思う。……ふぅ。……走るのは、嫌いじゃない、から……」
コバヤシくんに気を遣われるタナカくんですが、走るだけなら問題はないのではないか、と本人は捉えていました。
タナカくんは走るのが得意な方でした。クラスで一番早い、とはではいきませんが、それなりの記録を持っています。去年の体育祭では陸上部だらけの枠に組み込まれてしまいましたが、それでも、半分以上抜き去っていました。残念ながら表彰台には上がれなかったため、目立ってはいません。しかしながら、知る人ぞ知る存在にはなりました。なにせ、運動部に所属しているわけでもないのに、陸上部の半数以上を打ち負かしたわけですから。
それに、前回(去年のこの時期)の十五分間走では、タナカくんは800メートルトラックを四周と四分の三走っています。
これらの実績があったため、タナカくんは「大丈夫だろう」と踏んでいたのです。コバヤシくんも、何も問題がないと言わんばかりのタナカくんの表情に流されて気を取り直したようでした。
そうこうしているうちに授業が始まります。
体育教師に集合を掛けられ、クラスごとに二列横隊で並ばせられました。今日、金曜日は二年一組と二年四組の合同授業です。一組には男子が二十人いるのですが本日は欠席者が二人いたため十八人(今は違うのですが、この中にタナカくんは含みます)、四組には欠席者なしで十八人いますので、合計は三十六人になります。
きちんと並んだタイミングを見計らって、体育教師が言いました。
「よし。それじゃあ今日は予告通り十五分間走を行う。今の列の前後でペアになって、先に前の生徒が走って、後ろの生徒はペアの子が何週走ったかをカウントするように。最初の十五分間が終わったら入れ替わって、後ろの生徒が走り、前の生徒がカウントをしてもらう。五分後、最初の十五分間走を始めるから各自準備体操をするように」
タナカくんの出席番号は十二番であり、本来なら後列にいるはずなのですが、タナカくんの前の番号で休んでいる子がいたため、繰り上げられて前列に並んでいました。後ろに並んでいたのはあまり話したことのないナカムラくんという子でした。
「……よろしく……」
「……」
タナカくんが声を掛けてもフイッとそっぽを向かれてしまいます。「こんな感じでちゃんと計測してくれるのだろうか?」とタナカくんは気にかかりました。
一人、隅の方で準備運動をしながら、これならコバヤシくんとペアになりたかった、などと無駄な要望を抱いてしまったタナカくんですが、悪いことばかりではありません。何故なら、休んだ生徒の一人がタナカくんとコバヤシくんの間の番号の子だったからです。そのため、コバヤシくんの出席番号は九番なのでペアにはなれませんが一緒に走ることはできるのです。タナカくんはその休んでくれた出席番号十番のササキくんに心の中で感謝しました。
ちなみに、もう一人の欠席者はタナカくんより後の番号の子でした。
「……ソウと一緒に走れる……」
「いやぁ、ミナトの方が大分早いんだけどね。僕、去年、三週と半分だったし」
「っ! ……き、気分の問題……!」
嬉しくなってつい呟いてしまったタナカくんの言葉は、近くにやってきていたコバヤシくんに聞かれます。嬉しがっていたことをコバヤシくんに悟られたくなかったタナカくんは咄嗟のことに思わず取り繕ってしまいました。
そんなやり取りをコバヤシくんとしていると、タナカくんは何かを感じました。
「っ!」
肌を突き刺すような感覚でした。「見られている」と、これほどまでに強く感じ取ったのは初めてのことで、タナカくんは恐る恐るその方へ視線を向かわせます。しかし、空恐ろしさを覚えて動きが緩慢になってしまったのが原因でしょうか。振り向いた時には、そこにいたはずの突き刺す視線を送ってきていた人物はいなくなっており、「見られている」という感覚もなくなっていました。
「……?」
「? どうしたの、ミナト?」
首を傾げて辺りを見渡すタナカくんを、コバヤシくんは不思議がります。コバヤシくんはあの視線を向けられていたことに気づいていなかったようでした。
「……今、視線が……っ。……ううん、なんでもない……」
タナカくんはそういうしかありません。コバヤシくんにこれ以上無用な心配は掛けたくありませんでしたから。見られていたという決定的な証拠はありませんし。それに、一年前なら露知らず、入学して一年が経過してタナカくんの存在はそれなりに知られていました。今になって注目される理由に心当たりなんてなかったというのも、はぐらかそうという考えに繋がりました。
あっ。ちなみになのですが、タナカくんの学校では男女の出席番号は分けられています。男女平等が叫ばれる昨今、珍しい形ですが、これは女子生徒が男子生徒の間に一人だけ挟まれる、または男子生徒が女子生徒の間に一人だけ挟まれることを事前に防ぐための措置です。「こういうのが嫌な子はそれだけで学校に来たくなくなることさえあり得る」という声に対処した形です。
準備期間の五分はあっという間に経過し、タナカくんたちが走る時間がやってきました。スタートラインに並べさせられて、教師の合図で十五分間走が始まります。
ちなみに、今回走らない生徒たちはスタート地点の外側に熱中症対策として設営されているパイプテントの中です。
タナカくんは真ん中あたりの位置で、コバヤシくんと一緒に走り出しました。
この姿になってから一度走ったことがあったタナカくんですから、その時のことを思い出して、男の子だった時のように走るのは少し躊躇われました。あの時は、下着のホックが外れてしまう心配をさせられていたのです。けれど、今回タナカくんが着けているのはスポーツ用の下着です。ですので、ホックがあるタイプではなく、また、しっかりと固定されており、胸が揺れることは回避できていました。
そうなのですが……。
「……っ!」
タナカくんは身体を大きく動かせないことを自覚しました。身体をひねってしまうとジャージがよれ、胸の形が浮き出てしまうのです。制服で走っていた時にはこうはならなかったので、タナカくんは油断していました。学ランは生地が固く、胸を押さえつけようとする働きが強かったようですが、ジャージは学ランより柔らかい素材でできているためゆったりとしていて胸を押さえつけてくれてはいなかったのです。
タナカくんは大きな誤解をしていました。極めて着やせする体質であるタナカくんは、胸が主張しなくなったように見えたことで本当に小さくなったのではないか、と勘違いしてしまったのです。「着やせ」とは大概、原理としては目の錯覚によるものであり、決して身体が細くなっているわけではないのです。そのことを、タナカくんは理解していませんでした。
タナカくんは早急に身体のひねりを抑え、胸の横に手を持っていって陰をつくりました。一歩目で気づいたため、タナカくんの変化したその身体を目撃した人はいないようでした。
タナカくんは可愛く、変化した身体は暴力的なまでに男子の欲情を掻き立てる姿をしていますので、もし、タナカくんの変化に気づいた人がいればそのあとの行動は、タナカくんの身体に釘付けになるか、あまりの刺激に顔を赤くして視線を逸らすかの二択になります。タナカくんはなんとなくですがそのことを把握しており、不自然にならないよう周りをちらっと見て、誰もそのような反応をしていなかったことを確認したため、女の子になってしまったことが周りにばれていない、と悟ることができました。
タナカくんは本気で走れなくなってしまったため、コバヤシくんと並走することにしました。普通に一緒に走りたかったということもありますが、これには、他の生徒たちからの視線をなるべく避けるためにコバヤシくんに盾になってもらおう、という思惑もちょっとあったりします。
「? どうしたの? 僕と一緒に走ってたら、記録伸びないよ?」
「……いい。……ソウと一緒に走りたい……」
タナカくんが真面目なことを知っているコバヤシくんですから、横について速度を合わせるタナカくんの行動を訝しみました。いつもは授業に真剣に取り組んでいるタナカくんがこのような行動を取ったのは珍しいことだったのです。ですが、コバヤシくんはタナカくんに追及してくることはありませんでした。タナカくんのことを信じているからです。
それからおよそ十二分。タナカくんはコバヤシくんの陰に隠れるようにして、他の生徒からは見づらい位置をキープしながら走っていました。
しかし、その時は訪れます。
「……はぁ、はぁ……っ!」
息切れ。それに、汗も身体中から噴き出していました。「前はこれほどまでつらくなかったはずなのにどうして?」とタナカくんは困惑させられます。
これは、男の子から女の子に変わってしまったことが原因でした。一般的に女性の力は男性の力の80~85%ほどと言われています。そのため、「呪い」で男の子から女の子にさせられてしまっていたタナカくんは、体力の低下を引き起こされてしまっていたのです。
「……んくっ」
苦しくて顎が上がってしまいます。腕も振らないと走っていられません。つらくて、つらくてやめてしまいたかったのですが、タナカくんの生来の真面目さがそれを良しとはしませんでした。タナカくんは続ける判断をしてしまいます。
タナカくんは腕を前後に振りたかったのですが、男の子だった時よりも肩幅が若干狭くなっていて、反対に骨盤は若干大きくなっていましたので、前後には振りづらく、段々と横に振るようになっていきます。女の子走りと呼ばれる走り方になってしまっていたのですが、疲弊しきっていたタナカくんの思考力は削ぎ落とされていて、このことに考えが及ばなくなっていました。
それでもタナカくんの本能はちゃんと働いてくれたらしく、コバヤシくんの陰に入ることは継続させていました。
「よーし! 終了! 五分後に後列組をスタートするぞ!」
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