第15話 5月24日(水)~25日(木) タナカくんの思いとお弁当の行方

○○○○☆☆☆☆



 コバヤシくんとの関係をなんとか復原できた日の夜のことです。この日はタナカくんの父・ケントさんの帰りが遅いということで、タナカくんは一人で家にいました。


 簡単に夕食を済ませたタナカくんは、そこでふとお弁当のことを思い出しました。コバヤシくんにつくると約束したお弁当のことです。

 けれど、先ほどのことがタナカくんの頭を過りました。あれがあったあとでお弁当を渡すというのは何か気恥ずかしいものがあります。


「……で、でも、約束、したし……」


 渡す際にかなり勇気を必要としそうだったのですが、そこは真面目なタナカくん。約束をすっぽかすつもりはありませんでした。


 タナカくんはキッチンに移動して棚の中を物色し始めました。


「……確か、ここに……」


 探していたのはお弁当箱。ケントさんが前に使っていたお弁当箱です。タナカくんの家は父子家庭であり、家計はあまり裕福ではありません。ですので、不要となったものでも保管してあることが多々あったのです。

 ちなみに、そのお弁当箱が使われなくなった理由は、年を重ねたケントさんには大きくて食べきれなくなってしまったから、でした。


 タナカくんが奥の方へ手を伸ばすと、カンという乾いた音がします。触れて引っ張り出してみるとお目当ての物でした。タナカくんが普段使っているものより一回り大きい黒を基調としたお弁当箱です。

 長く使われていなかったため少し埃を被っていました。そのため、タナカくんは夕食で使った食器と一緒に洗うことにします。


 綺麗になったお弁当箱を見て、タナカくんは考えました。


「……何、入れよう……」


 コバヤシくんと長く一緒にいるタナカくんですが、実は彼の食の好みはあまり知りませんでした。いつも総菜パンを食べている印象が強いです。

 タナカくんは、今度は冷蔵庫と相談します。


「……卵と、たまねぎ、にんじん、じゃがいも、グリーンピースにトウモロコシ、ほうれん草。……あ、お肉が結構ある……」


 タナカくんは献立に頭を悩ませて、二時間ほど「あれなら受け容れられるのではないか?」とか、「でも、苦手なものだったらどうしよう」などと、うんうん唸っていましたが、結局は無難なところに落ち着きました。

 それから、タナカくんは下準備を始めました。コバヤシくんの喜ぶ顔を思い浮かべながら。指摘してくれる人がいなかったので、もう終始にやけっぱなしです。


 あとは明日の朝にやっても間に合う、というところまで進めておき、タナカくんは時計を確認しました。


 時刻はもうすぐてっぺんを指そうとしていました。


 バイトが終わるのが八時前で、真っ直ぐ帰宅しても着くのは大体八時半。それから夕食やらお風呂の準備やらしていると、九時は軽く回ってしまいます。働いている日はそれほど時間がないのですが、この日は二時間も悩む時間に費やしてしまっていたためなおのこと。その上、気合を入れてお弁当に入れるおかずの下準備までしてしまったのです。この時間になるのは必然でした。

 こんな時間になってしまっては勉強の復習をしている余裕なんてありません。タナカくんは慌ててお風呂へと向かいました。



 「その身体になって風呂に入らないなんてあり得ない」とは、ツユリさんの言葉です。彼女の言っていることを、タナカくんは「女の子の身体になってしまった自分の姿を見たくないから、って風呂に入るのをやめるな」という意味に受け取りました。実際、入りたくない気持ちは多分にあったのですが、タナカくんは元々お風呂に入るのが好きだったりしました。入らないのは気持ちが悪く、その感覚には抗えないものがありました。

 服を脱いでいると嫌でも実感させられます。



――自分の姿が変えられていることを。



 実質女の子になった昨日は、ケントさんの行動によって急がされていたためによく確認することができませんでしたが、今日はケントさんがいません。ですので、タナカくんは下着を外して、それを専用の洗濯ネットに入れたのち、鏡の前に立ちました。

 そこにいたのは紛れもない女の子の姿をしたタナカくんです。タナカくんの眉はどうしても下がってしまいます。特にその主張の激しい胸は、どうしても自分のものだとは思えません。恐る恐る触れて確かめようとした矢先、


『自動の温度調節機能を終了します』


 と、AIのアナウンスが浴室から響いてきました。タナカくんはもう十二時に近かったことを思い出し、確かめるのは今度にしてお風呂に入りました。


 「入浴時に大切なこと」というツユリさんの教えは守りました。まずは髪を櫛で梳き、お湯でよく濯いでから、シャンプーをし、泡を完全に洗い流してから肌には付かないようにトリートメントをし、濡らしたタオルで覆って、七分ほど湯船につかり、その後、ぬめりがなくなるまで濯いで、コンディショナーをし、濯ぎます。あとは上から下へ。洗顔をし、身体は石鹸をしっかりと泡立てて手で。大事な個所はそれ専用のものをツユリさんが用意してくれていましたので、それを使います。


 全てを洗い終えて一息ついた時、視線に入ったのはやはり自分の姿でした。顔を上げると、その姿が浴室の鏡に映っています。


「……」


 タナカくんの手は自分の胸へと導かれました。……大きい。それは僅かに小さくなってしまったタナカくんの手では、片手ではおろか、両手でようやく収まるかどうかというほどのものです。タナカくんは自分の胸ではあるのですが、触れてしまったことに急激に罪悪感を募らせました。思わず手を離します。


 それにしても、とタナカくんは鏡を見ながら思いました。



(――これは、どのくらいの大きさなのだろう?――)と。



 測ってもらっているので数値としては知っているのですが、同年代の子と比べてどうなのか、ということをタナカくんは知りませんでした。また、女の子に苦手意識を持っていたタナカくんです。胸を、というより女の子を注視したことが全くと言っていいほどありません。ですので、これが普通なのか、それとも普通から外れているのか、ということが気になりました。

 そうして悩んでいると、ふとあることを思い出します。それは、イチジクさんに抱きつかれた時のこと。あの時に、彼女のものには接していました。ただ、タナカくんはまだ男の子だったものですから、思考がショートしてしまったためによく思い出せませんが。それでも、ここまで大きくはなかったように思います。


 自分のものが他の人と比べて大きいのだとしたら――



「……ソウは、どう思うんだろ? ……大きいの……――っ!」



 不意にコバヤシくんの顔が浮かんできて、タナカくんはそんなことを口ずさんでしまいます。自らの口を衝いて出た言葉にタナカくんは自分でも耳を疑いました。「何を言っているんだ!?」と猛烈に恥ずかしくなったタナカくんは鏡にシャワーで沢山の水紋を立たせます。それが引く前に浴室から逃走しました。


 スキンケアをし、ドライヤーで髪を乾かし、ツユリさんからもらった肌触りの良いパジャマに身を包み、さっさと歯を磨いて寝室へと移動したタナカくん。もう寝てしまおうとしたのですが、悶々としてしまってなかなか寝付くことはできませんでした。



☆☆☆☆○○○○



 よく眠れなかったとしても、朝はやってきます。タナカくんはお弁当を仕上げるために五時に目を覚ましました。


 タナカくんがリビングを訪れると、そこにはソファで泥のように眠るケントさんの姿がありました。陰になっていたため一見しただけでは気づかなくて、「うわっ」とタナカくんは驚きましたが、見た目と声はそれほど驚いていないような反応でした。こういう経験をしたのが初めてではないということもありますが、これがいつも通りのタナカくんなのです。表情の変化に乏しいと言われる所以です。


 ケントさんがリビングで寝ることはままあることなので、タナカくんは籠に畳んで置いてあったブランケットを取り出し、ケントさんに掛けます。それからタナカくんは、洗面所で朝の支度をしてキッチンへ向かいました。


 タナカくんはエプロンを着用して、昨日下準備を終わらせていた調理の仕上げに取り掛かります。タコさんウインナーにポテトのフライ、鶏のから揚げ、ほうれん草のお浸し、そしてメインのオムライス。暑くなっているこの時期のお弁当なので、ふわとろというのは衛生面に不安が残るためできませんでしたが、しっかりと火を通したオムライスでもタナカくんにはおいしくつくる技術があります。


 タナカくんが全てをつくり終えて、調理器具を洗う一方で粗熱を取っていると、ケントさんがむくりと上体を起こしました。


「ふっ、うぐぐ……っ! しまった、またソファで寝てたか……。それにしても、おいしそうな匂い……」


 立ち上がって伸びをすると、ポキポキと音を鳴らすケントさんの身体。それからのろのろとダイニングのテーブルまでやってきます。並べられたお皿に乗っている料理を覗き込むようにして、ケントさんはこれらがお弁当箱に盛り付けられた様を想像しました。垂涎すいぜんものです。


「……ほう。今日の昼はオムライスか! おかずも合いそうなものにしてるのが流石はミナトって感じだな」

「……先に顔、洗ってきて……」


 タコさんウインナーを抓もうとしていたケントさんをタナカくんは制して、先に朝の支度をしてくるように、と促しました。


 タナカくんがおかずの熱が取れたのを確認してお弁当箱に詰めようとしていると、洗面所へ行ったはずのケントさんが戻ってきて口にしました。あることが疑問に思ったようです。


「って、ミナト? なんで弁当箱が三つあるんだ? それって、父さんの昔使ってたヤツだよな?」


 そうです。タナカくんはお弁当を三つつくることをケントさんに伝えていなかったのです。ですから、ケントさんに違和感を持たれました。初めは寝惚けていたのでスルーしていましたが。別に友人につくったものなので、報告する必要はないかな、とタナカくんは認識していたのですが、考えが甘すぎました。


「? ……これ? ……これは、友だちと約そ――」


 タナカくんは聞かれたので答えようとしましたが、見事に遮られます。



「その大きさ……! まさか――彼氏おとこか!?」



「――ぶっ!? お、おと……っ!?」


 その上、あらぬ嫌疑を掛けられて。タナカくんは、ケントさんが導き出した突拍子もないその答えに噴き出してしまいました。


「だって! これは、これはそういうことだろう!? 一回り大きな弁当をつくっているということはそういうことなんだろう!? それ以外に考えられないんだもん!」


 ……いい大人の男性が「だって」だの「もん」だのと喚き散らかすのは如何なものなのでしょう? 妙な思考回路に至って口調がバグり始めます。それはさておき。

 

「……と、父さん……?」

「父さん、認めませんからね!? ここまで手塩にかけて育てた愛娘をどこぞの馬の骨にやるなんて絶っっっっ対に許しませんからね!? 幼い頃に『パパと結婚する』って言ってくれたのを糧にパパは生きてます! パパの元から離れて行っちゃったら、パパ死んじゃうからね!?」

「言ってない! 娘でもないっ!」


 ケントさんが止まりません。暴走を始めていました。そして捏造しています。タナカくんが元々女の子だったという捏造を。タナカくんは頭を抱えました。


「……だ、大体、僕がこうなったの、一昨日だから! それまでは男だったから! ……う、ううん! 今も男だって思ってる! この身体になったの、完全に認めたわけじゃない! だから、娘なんて言わないで! あと、ヘンな捏造、しないこと!」


 タナカくんは一個一個訂正します。ケントさんの間違いを。そうやって、妄想の世界に浸っているケントさんを現実の世界に引き摺り戻そうとしました。しかし、お弁当の弁解になった時、タナカくんの勢いは尻すぼみになっていきます。


「このお弁当だって、昨日つくれなくて、お昼、買ってもらったから、その友だちへのお返し、っていう、だけ、だから……っ」


 タナカくんは昨日のことを思い返してしまっていました。


――頭を撫でられて嬉しいと思ってしまったこと

――他の人の頭は撫でてほしくないと思ってしまったこと

――彼の口からイチジクさんの名前を聞きたくないと思ってしまったこと

――彼につくったお弁当をおいしいと言って食べてもらいたいと思ってしまったこと



――それに、お風呂で自分の胸を見ながら、彼は大きいのは好きなのかな、とか一瞬気にしてしまったこと――



 そんなことを考えていて、果たしてこれが男同士の親友間で抱く感情なのか、と感じたのです。そう疑念を持つと、最後の方はもにょもにょと言葉にならないほど小さくなってしまいました。

 そんなタナカくんの様子にケントさんは、


「なっ!? そ、その反応……! まさか、本当に彼氏おとこが……!? 女の子になって二日と経っていなかっただろう!? い、いくらなんでも早すぎないか!? み、ミナト、本当は女の子になることを望んでいた、とか!? そうでないと、この早さには説明が……! というか、もうほぼミナモなのに彼氏おとこができたとか嫌すぎるううううううううッ!」


 狂乱しました。


「っ! 違う! ただの友人! それに、女の子になりたいとか望んでない! あと、うるさいっ!」


 タナカくんはご乱心したケントさんを宥めるのに時間を要する羽目になるのでした。



……………………



 朝食を済ませ、歯を磨いて、出かける準備をして、タナカくんは家を出ます。二つのお弁当をしっかりと持って。

 タナカくんが出発したのは昨日と同じくらいの早い時間でした。あまり人とすれ違わず、同じ学校の生徒とばったり出くわすことのない時間帯というタナカくんにとってはこの上ない条件であることに、昨日一日で味を占めたのです。ですので、わざわざこの時間帯に出られるように調整していました。

 そして、タナカくんの狙い通り、タナカくんの精神衛生上を観点にして無事に学校に辿り着けました。


 まだ教室へ行くには早い時間だと感じたため、タナカくんはなんの気なしに文化部部室棟四階へ。そこで時間を潰していると、スマホにメッセージが届きました。差出人はサトウくんです。


『本日の放課後。例の場所に集合。追伸――抜き打ちチェックの連絡を入れたのに隠蔽に協力しなかったスズキ、タカハシ、イトウ、ワタナベ、ヤマモトの計五人。貴様ら、覚えていろよ?』


 例によって召集の連絡でした。その終わりには、昨日の朝にタナカくんが聞いた憤懣も綴られていました。その内容に、画面上が荒れます。


『ちょ!? 昨日は用事があったって言ったじゃん! ヤマナシに絡まれてたんだよ!』

『いや、あそこを大事に思ってるのはテメェくらいだからな? 俺様は付き合ってやってるだけだからな? 面倒事を押しつけんな』

『お、オレも行ける状態じゃなかったんだよ。姉さんに捕捉されててさ……』

『あー、ごめんねー? 気づかなかったよー。ねてたー。』

『あ、朝は勘弁してくれ! 弱ェんだよ、俺っち!』


 メッセージがどんどん流れていきます。スマホがピコンピコンとメッセージ受信の音を絶え間なく鳴らし続けていて、煩わしく感じたタナカくんはミュートにしたいと感じました。


 そんな折、タナカくんのスマホから違う電子音が鳴り始めます。それは通話の着信音でした。画面を見てみると表示されたのは「ソウ」の文字。コバヤシくんからです。タナカくんは慌てて出ました。


「……もしもし? ソウ?」


 コバヤシくんが電話をしてくるのは重大な要件がある時です。何があったのだろう、と考えていると、コバヤシくんが告げてきました。それは、タナカくんにとって呆然とさせられるの内容でした。


『もしもし、ミナト? あのさ、今日、お弁当持ってきてたりする? 実はさ――



――イチジクさんがつくってきてくれることになって――



今日、つくってきてくれる予定だったら悪いな、って思って連絡したんだけど……』


「――え」

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