第13話 5月24日(水)の放課後(part1)~ばれないために適切な距離を保ちたいタナカくんと嫌われたと思い込んだコバヤシくん~

 タナカくんは、洗い物をしたりテーブルを拭いたり床の掃除をしたりてきぱきと働きます。ミナイさんに対してはまだびくびくしているタナカくんでしたが、仕事に関してはそうでもありません。むしろ、タナカくんの仕事ぶりは、もう十年は働いているのではないか、というほどに様になっていました。


 タナカくんの要領は良く、ものの十数分でもう綺麗にするところがなくなったという頃、お店の扉が開いてチリンチリンという鈴が鳴ります。来客を知らせる合図です。


「おお、ようやく会えたぞ! ミナトちゃん!」

「ちょっとおじいさん! ミナトちゃん、ごめんなさいね?」


 やってきたのは常連さんであるおじいさんとおばあさんでした。この二人はタナカくんの親族というわけではなく、単に最近この街に越してきたご高齢の夫婦です。おじいさんはタナカくんを見つけると一目散に寄っていき、タナカくんの手を取ってブンブンと上下に勢いよく振り回します。かなりご高齢のおじいさんなのですが、その見た目からは想像できないほど移動は早く、力は強いものでした。タナカくんに会えたことに感極まっているそんなおじいさんをおばあさんはたしなめます。


「……おじいちゃん、いらっしゃい……。おばあちゃんも……」


 ただ、この光景はタナカくんが働いている日には毎回見ることのできる光景です。ですので、タナカくんがおじいさんのこの行動に戸惑うことはありません。

 お客様への対応としては如何なものか、という疑問はありますが、タナカくんが見せた微笑みにおじいさんもおばあさんもほっこりしているので問題はないでしょう。


「はう! ……ばあさんや。ミナトちゃんに孫の嫁になってもらうことはできんのかのぅ……」

「私も、そうなってくれたら嬉しいのですけれどね……。こればかりは本人たちの都合もありますから無理強いするのもよくありませんよ、おじいさん」

「……っ」


 おじいさんとおばあさんに大変気に入られているタナカくん。この流れもいつものことです。しかし、タナカくんだけはいつもと違いました。本来なら性別を理由に嫁にはなれないと即座に言うのですが、今のタナカくんは身体が変わってしまっている状態です。そのため、すぐには言葉にすることができませんでした。


「……お、おじいちゃん、おばあちゃん。……その、僕、男、だから……。……ね?」


 タナカくんがやっとのことで訂正すると、おじいさんとおばあさんは「そうじゃった、そうじゃった。済まんのぅ(そうでした、そうでした。すみませんねぇ)」と言い、軽い足取りでタナカくんの手を引きながら定位置の席に移動します。おじいさんとおばあさんはタナカくんとのこのやり取りも楽しんでいるようです。

 席に着いたおじいさんとおばあさんはメニューに目を通すことなく注文しました。


「それじゃあ、いつものやつをお願いしようかの」

「お願いしますね」

「……ん。オムライスとパンケーキ、ね……」


 おじいさんとおばあさんが先ほどの妙な間を気にしなかったことにタナカくんは一安心です。

 注文を受けてキッチンへと向かいます。


 このバイトでタナカくんは調理も担当していました。というのも、タナカくんのつくる料理がこのお店の常連さんにとって名物の一つになっているからです。タナカくんは常連さんの胃袋を掴んでやまないほどに料理が上手でした。これは家庭の事情で幼い頃から料理をしてきたからですね。

 十分ほどでふわトロのオムライスとスフレパンケーキを完成させ、コーヒーを淹れていると、店長のミナイさんがタナカくんの隣に来て言いました。


「本っ当にミナトちゃんはなんでもそつなくこなしちゃうわね……。ミナトちゃんがいると私の仕事が事務作業だけになっちゃうわ。まあ、助かるからいいのだけれど。私、もしかしていらないんじゃないかしら?」


 ミナイさんはタナカくんの器用さを改めて認識し冗談めかしく言います。ミナイさんからしたら、常連さんはタナカくんの料理ばかり頼みますし、なんならタナカくんのシフトが入っている時間帯を狙って来ているきらいさえあったため、もうここがタナカくんのお店なのではないか、と錯覚してしまいそうになったのです。

 これに対してタナカくんは、


「……ううん。……僕、ただのバイト、です。……店長がいないと、働けていなかった、から、店長は、必要……」


 ミナイさんは必要だ、と訴えました。タナカくんはミナイさんのことを苦手としていましたが、この言葉の通り嫌っているわけではありません。人生の先輩としての敬意は持っていました。

 タナカくんのこの言葉にミナイさんの心は射抜かれて、それはもうテンションが高まります。


「あら、やだ、天使! ミナトちゃん、やっぱりこれ――」

「着ません」


 嬉しさのあまりテンションゲージの上限をぶち抜いたミナイさんがどこからか例の制服を取り出します。が、タナカくんはかのじょのその行動を予測できていて即行断りをいれました。


 タナカくんはピシッと固まってしまったミナイさんの横を通り過ぎ、料理をおじいさんとおばあさんの元へ運びました。

 カートに乗せていった料理をテーブルに並べると、おじいさんが待っていましたと言わんばかりにスプーンを手に持ち、早速一口大のオムライスを掬い上げて口に含みます。よく咀嚼して呑み込んだあと、身体を震わせておじいさんは言いました。


「はうぅ! ばあさんや、毎日ミナトちゃんの料理が食べたいのう……! 水、金、日、週三日では足りなくなってしまったわい……! どうにかしてミナトちゃんを養子にできないものかのぅ……」

「駄目ですよ、おじいさん。ミナトちゃんにもご家族がいるのですから。おじいさんがわがまま言ってごめんなさいね、ミナトちゃん」


 タナカくんのつくる料理はおじいさんにいたく気に入られていました。それはもう、どんな手を使ってでも家に来てほしいというほどに、です。まさか養子にするという話まで出てくるとは思っていなかったタナカくんは苦笑いを浮かべることしかできませんでした。



 それから、タナカくんは十名ほどのお客さん(常連さん)の対応をします。


「おお! よっしゃ! 今日はエンジェルがいる日だ!」

「今日水曜じゃん。水曜はこの子、いるんだよ。もう半年も通ってるんだから、覚えなよ」

「無理だよ、そいつ馬鹿なんだから。テスト週間で二週間も会えなかったから忘れてる。……それはそうと、癒やされる。あの子の笑顔が見れるだけで溜まりに溜まった二週間分の疲れが吹っ飛ぶ」

「……同意」


 バンドをやっていそうな四人組だったり。


「よかった! 今日はいてくれた! 今日までつらかったけど、ミナトちゃんに会えたなら乗り切れる……! でも、先週、先々週はミナトちゃんの料理を食べられなかったから調子でなくて、それを上司に厭味ったらしく言われて精神が……っ。うう、ミナトちゃんの肉じゃがが食べたい……っ!」

「なんで先輩が水金と定時で上がってるのかよくわかったっす……! ここはオアシスっすよね!」


 十七時を過ぎればやってくるサラリーマン風の二人だったり。


「ちょっと店長!? ミナトちゃん、メイド服着てないんだけど!? どういうこと!? 着てもらうって言ってたじゃん!」

「無茶言わない。タナカくん、これでも男の子なんでしょ? めっちゃ可愛いけど。あたしたちの誰より可愛いけど」

「み、ミナトさんのメイド姿……! 想像するだけで創作意欲が掻き立てられます……!」


 タナカくんのことを特にまじまじと見つめてくる女性三人組だったり。


 皆さん、タナカくんに求めているものが本人がやりたいこととは多少ずれていますが、タナカくんのことを良く思ってくれているのは確かでそれが伝わってきますので、タナカくんは有意義な時間を過ごせていました。



……………………



 時間が経って、おじいさんとおばあさんも名残惜しそうに帰っていって、店内にお客さんがいなくなる時間が発生しました。時刻は午後の七時を回っています。

 そんな時、予想だにしないお客さんがタナカくんの元にやってきました。


――チリンチリン――



「……いらっしゃ――」

「……ミナト」



 お店に入ってきたのはコバヤシくんでした。


「――っ!」


 コバヤシくんのことを視界に収めたタナカくんは、体温が急上昇していくのを感じます。仕事に集中できていて上手くごまかせていたのに、タナカくんは思い出してしまいました。自分のよくわからない感情を。これは間違いなく態度に出てしまうやつです。屋上の時と一緒です。タナカくんはこのままではまずいと感じました。このままコバヤシくんと接していたら、違和感に気づかれてしまう、と。……いいえ。違和感にはもう気づいています。それは、お昼の時に見せた反応でも、「邪魔しちゃ悪いから」という理由で来店を避けていたこの喫茶店に彼が訪れたことでも、明らかでした。タナカくんは、それを理解したのです。だから、怯えました。


(「」じゃなく、「」かもしれない……!)



――性別が変わってしまったという確信を――



 女の子になってしまったとばれてしまったらどうなるでしょう? コバヤシくんのことですからヒドイことはしない、とタナカくんは確信を持って言えます。しかし、だからといって、今まで通りの関係をそのまま維持できるか、と言われるとそれに力強く頷くことはできませんでした。

 例えば、一緒に海やプールへは行けません。身体の違いを嫌というほどに意識させられることになるからです。そうなってしまったら、気まずいなんてものではないでしょう。

 気まずくなってしまったら、壁が生じてしまうのです。それがいくら薄かろうが透明だろうが、壁は壁。確かに一枚隔たってしまうのです。それは心に距離ができてしまうということに外なりません。これで、男同士だった時と同じ関係性だと言えるでしょうか?

 壁が一枚ならまだなんとかなるかもしれません。しかし、男女の差は多いものです。身体以外にも、体力であったり、感覚であったり。それらが壁を構築する可能性は決して低くはありません。知らないうちに壁が増設されていて、気づいた時には彼との距離が遠くなっていたなんてことも起こり得ます。


 それは嫌だ、とタナカくんは感じました。



(――ソウと疎遠になりたくなんてない!――)と。



 絶対に身体が変わってしまったことをコバヤシくんにばれてはならない――そのように思ったタナカくんはコバヤシくんに背を向けてバックヤードに逃げ込もうとします。

 それを――


「……て、店長っ。ぼ、僕、裏に――」

「ミナト!」



――パシッ



 タナカくんの手はコバヤシくんに後ろから掴まれて、逃げることを封じられました。びくっと、タナカくんの身体が跳ねます。


「……っ! ……ソウ、今、仕事中、だから……っ」


 今の表情を確認されたら長年一緒にいるコバヤシくんにはタナカくんが隠し通そうとしていることがわかってしまうであろうことが予測されました。ですので、タナカくんはコバヤシくんの方を見ることができず、また、コバヤシくんから顔を捉えられないよう必死に顔の位置をキープしていました。

 そうしていると――



「――ごめん」



 いきなり謝られました。何の脈絡もない謝罪にタナカくんは混乱して思わずコバヤシくんがいる方へ振り向きます。


「……冷静じゃなかったね。イチジクさんのこと、悪く言われたからついムキになっちゃって……。やり返そうと思ってあんなことを言っちゃった……。ミナトが『可愛い』って言われるの、嫌だって言ってたのに……。よく考えたらわかることなのにね? あの時の、ミナトの顔が赤かったのってものすごく怒ってたから、でしょ? あれから口を聞いてくれなくなったもんね……。それなのに、僕は、ミナトがちょっと喜んでるんじゃないか、なんてあり得ない勘違いをして! 本当にごめん……っ! 最低だった……。こんなこと言うやつ、友だちじゃなくなっても仕方ないよね……っ。でも、自己満足かもしれないけど、ミナトは許してくれないかもしれないけど……! この気持ちだけはちゃんと伝えておかなきゃ、って思ったから……」


 視界に収めたコバヤシくんの表情には、影が落とされていました。それは儚くて、悲しげで、触れれば折れてしまいそうなほどに弱々しくて、今にもどこかへ飛んで行っていなくなってしまいそうなほどにあやふやになっていて。


 思い悩んでいたのはタナカくんだけではありませんでした。


 タナカくんが身体が変わってしまったことを悟られまいと採った行動は、コバヤシくんからは避けられていると捉えられていたのです。タナカくんが、「もう、知らない」なんて言ってしまったばかりに。そのあとに、ぼろが出そうだから今日はもう話せない、とタナカくんが近寄りがたいオーラを発していたことも相まって、コバヤシくんに「嫌われてしまった」と勘違いさせてしまったのでした。


「……もう、迷惑をかけないようにするから……っ」


 そう言うコバヤシくんの顔は笑顔をつくろうとしていましたが、目には涙が零れそうなまでに溜まっていて。

 この時、タナカくんはようやく自分の行いが間違っていたことを知りました。


(――コバヤシくんとの関係を壊したくなかった)

(――だから、違和感のある態度を彼の前で取り続けては駄目だと思った)

(――彼は自分の乏しい変化に唯一気づける存在だったから)

(――性別が変わったとばれてしまったら、コバヤシくんとの心の距離が離れていってしまう)

(――そんなことは望んでなんていなかった)

(――それなら、これまで通りに振る舞えるようになるまでは下手なことをしでかさないように近づきすぎないようセーブしよう、そうしよう)

(――それが最善だ、と思っていたのに……)



(――関係を壊さないためにしてきたことが、彼を思い詰めさせてしまっていたなんて――)



 このままでは誤解によって関係が崩れてしまう、と感じたタナカくんはそれを解こうとしました。けれど、その刹那、離れていったコバヤシくんの手。それを見た途端、タナカくんの言葉は喉につっかえました。


 抵抗がなくなった腕。

 タナカくんの息が詰まります。

 お店から消えようとする彼の後姿。

 その光景に、もう会えなくなってしまうような――そんな気配がして。



――タナカくんは堪らずコバヤシくんのあとを追いかけました。



 彼が出ていって、ゆっくりと閉じようとする扉を抉じ開けます。

 辺りを一心不乱に見渡すと、少し離れた位置に彼を発見。

 いてもたってもいられずに、タナカくんは駆けていって彼の背中にしがみつきました。


「み、ミナト!?」


 コバヤシくんの戸惑いの声。

 タナカくんは顔を伏せたまま彼の服をぎゅっと握ります。

 そして、突如として口を開きました。


「……違う。……ソウは、悪くない! ソウの彼女のこと、悪く言って、ごめんなさいっ、ソウに勘違いさせて、ごめんなさい……っ!」


 出たのは謝罪の言葉。それからは堰を切ったかのように溢れ出します。


「……悪いのは全部、全部、僕っ。……普通じゃなかった! ……今まで通りでいたかったのに、頭の中、よくわからない感情でぐちゃぐちゃになって! ……ソウに、ヘンだ、って、思われたくなくて、逃げて! ……それで、ソウに避けられてるって思わせて……!」


 タナカくんは曝け出しました。


「……そ、それに、その、ソウは何も間違ってない。……あの時、『可愛い』って言われた時、う、嬉しいって思っちゃったんだ。……ど、どうしてかわからないんだけど! ……で、でも、そんな自分が、認められなくて、ソウに当たった。……ごめんなさいっ。……だ、だから、迷惑だ、なんて、思ってない! ……ソウとは親友でいたい、って、思ってるから! だから、だから……!」


 言葉を、紡ぎます。思いは言葉にしなければきちんと伝わりません。

 誤解でコバヤシくんとの間に距離ができてしまうのは嫌でした。そんなことになってしまったら、本末転倒もいいところです。関係が壊れないようにしようと努めたその結果、却って疎遠になる結末を招いてしまったのでは目も当てられません。ですから、タナカくんは、そうなるくらいなら全てを打ち明けた方がいい、と判断しました。

 コバヤシくんは思っていることをちゃんと伝えてくれたのです。それなら、自分もちゃんと伝えるべきだ――と。誤解を解くために。


「……あの、えっと。……僕の身体、今――」


 そこまで言いかけて、言葉を止めます。

 タナカくんは急に怖くなりました。

 一度発してしまった言葉はもう戻ってはこないのですから。



(もし、もしも、拒絶されたら――っ)



 そう頭を過った瞬間、声が出なくなってしまいました。


 タナカくんにとって、コバヤシくんはヒーローのような存在です。

 そんな彼に今の自分を否定されてしまったら、タナカくんは生きる気力を失ってしまいます。


(――誤った認識を修正するためには話す必要がある)

(――けれど、誤解が解けたとしても関係が修復できなかったら?)


 八方塞がり――タナカくんは、思考の檻に囚われてしまいました。


 希望のない未来に、身体が震えます。涙も出てきます。心臓は壊れるのではないかというほどに脈打っていて、視界もぶれ始めて。

 タナカくんは途中で話をやめてしまったのに、コバヤシくんは何も言ってきません。それが、タナカくんには地獄のような時間に感じられました。コバヤシくんが何を考えているのか、タナカくんにはわからなかったのです。だから、まるで真綿で首をじわじわと絞められているかのようでした。


 絶望を感じていたタナカくん。そんな彼女かれに、


「――え」


 感じられたのは頭に何かを乗せられた感触でした。突然のことでタナカくんは何が起こったのかすぐには理解できませんでした。けれど、そこからは温かさが広がってきていて……。

 見上げると、自分の頭の方に伸びているコバヤシくんの腕が映ります。


「……そっか。何か大変なことがあったんだね。それ、たぶん、話せないやつでしょ? だったら、今は聞かない。話せるようになったら教えて? とりあえず、ミナトが僕のこと、嫌ってないって言うなら、僕からミナトと離れる理由はないよね?」



――コバヤシくんの方からはタナカくんと離れる理由はない――



 掛けられた言葉がタナカくんの頭の中で反芻されます。

 向けられたのは満面の笑み。その瞬間、タナカくんの抱えていた不安は霧散していきました。


「……うんっ!」


 タナカくんも表情が柔らかくなって、そう返しました。



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