第11話 5月24日(水)の午前中~続・タナカくんのニオイと身体の反応~

 その休み時間は、タナカくんが教室に戻ったちょうどその頃にチャイムが鳴ってしまったのでコバヤシくんと話す時間はありませんでした。話す時間があったとしても、先ほどの件の所為でタナカくんに会話をする気力は残されていませんでしたが。



 ですので、二時限目を終えた休み時間、タナカくんはコバヤシくんと話しました。椅子に座っていたタナカくんが彼女かれの元にやってきたコバヤシくんに声を掛けられるという形でした。タナカくんはコバヤシくんの方に身体ごと向けました。


「うーん……。ミナト。多分違うと思うけど、香水、付けてる?」


 そういうふうにコバヤシくんが切り出したのです。

 タナカくんのニオイが変わっていること、そのことにコバヤシくんは引っ掛かりを覚えていました。シャンプーを替えていないなら香水なのでは? という発想になったコバヤシくん。しかし、この学校では香水を使用することは校則で禁止されていました。そして、タナカくんは模範的な生徒でした。駄目と言われている行為をしたことは一度もなかったのです。

 それに、タナカくんの持っている認識もありました。今でこそ男性も香水を付けたりしますが、一昔前までは女性が付けるものというのが一般的な感覚だったのです。タナカくんは「女の子なのではないか」と揶揄われ続けてきたため、その揶揄がもっと酷くなるであろうと想定される女の子をイメージさせやすいアイテムを使うことは避けていました。

 従って、タナカくんが香水を使うことはありません。


「……付けてないよ……?」

「うーん、そうだよね、付けないよね……。ミナト、そういうの気にしてたし、それに、優等生だし。すんすん……。でも、じゃあ、なんで匂いが変わって――って、ごめん! 付けてないのに香水みたいなニオイがする、なんて言われたらあんまり気分よくないよね……!」


 タナカくんが女の子っぽく見られないようにしようと努めていたことはコバヤシくんもよく知っていました。そんなコバヤシくんがそこまで言ってくるのです。その原因をタナカくんも知りたくなってもう一度、今度は両方の手首のニオイを嗅いでみます。ですが、やはり何も感じられませんでした。


「……そんなにニオう? ……もしかして、クサい? ……あっ、でも、確か、イチジクさんと似てる、って言ってたよね? ……なら、大丈夫な気も……」

「すんすん……。うん。やっぱり似てると思う。甘い感じがイチジクさんと。でも、完全に同じってわけじゃなくて、なんて言うのかな? 甘さの種類? みたいなのが違う感じはするかな? ミナトの匂いもイチジクさんの匂いも、どっちも落ち着く匂いっていうのは同じなんだけどね」


 タナカくんの零した言葉にコバヤシくんは一度再確認してから頷きます。コバヤシくんの評価ではありますが、タナカくんの匂いはイチジクさんのものと似ているとのことでした。タナカくんは考えます。この学年で一番人気のある女の子と認識されているイチジクさんと近いというのなら嫌な感じではなく、それほど気にせずともよいのではないか、と。彼女の匂いを確かめたことはないタナカくんでしたが、いい匂いであろうことは容易に想像できました。

 もう自分のニオイについて考えるのはやめようとしていたタナカくん。しかし、最後の最後でコバヤシくんから爆弾を投下されました。


「でも、シャンプーも替えてなくて香水も付けてないなんて……。それでどうして急に匂いが変わったんだろうね? うーん、謎だなぁ……。まあ、好きな匂いだからいっか。落ち着くし。すんすん……」

「――にゃ!?」


 そう言って、朝のようにまたタナカくんの首元に顔を近づけて匂いを嗅いでくるコバヤシくん。椅子に座って右を向いていたタナカくんは左側に机、右側は背もたれ、前にはコバヤシくんがいたので逃げ場は後方しかなかったのですが、コバヤシくんに両方の肩を掴まれたために下がることを制せられてしまっていました。そのまま匂いを嗅がれ続けます。タナカくんは妙なドキドキを感じさせられました。


――ニオイを嗅がれるのが恥ずかしい

――触れられて肉体が変化してしまったことがばれるのではないかとひやひやする

――顔が近くて緊張する



――更には「好き」と言われたこと――



 その言葉が頭の中でリフレインされて、タナカくんの顔はボッと一瞬にして赤く染まります。タナカくんは全く意識していなかったのですが、身体が勝手に、過剰に反応してしまったのでした。

 タナカくんは自分の顔がどうしてこんなにも熱くなっているのかが理解できません。声を発そうにも言葉が上手く出てこなくて口をパクパクさせてしまいます。そんなタナカくんの異変に気づいたコバヤシくんが尋ねてきます。


「ミナト? 顔赤いよ? 大丈夫?」

「……っ! ……あ、赤くないっ! ……眼科行くの、お勧めする……!」


 心配するコバヤシくんの言葉にタナカくんは咄嗟にそう返しました。そうしようと思っていたわけではないのですが、気がついたらその言葉を口にしていたのです。それから、タナカくんはコバヤシくんに今の顔を見られたくなくて、腕で隠すようにして机に伏しました。


 直後、チャイムが鳴ったため、いつもとは異なるタナカくんの行動をコバヤシくんに指摘されることはありませんでした。



 その後、三時限目、四時限目とつつがなく修業していきます。三時限目を終えた休み時間は、タナカくんはコバヤシくんと他愛のない話をしていました。


 そして、四時限目の終了を知らせるチャイムが鳴り、お昼の時間になります。

 タナカくんはカバンからお弁当を取り出そうとして、しまった、と思いました。今朝は心に余裕がなくてお弁当の用意ができていなかったのです。タナカくんはそのことを、いざお弁当を食べようとしたこの時まですっかり忘れていました。


 財布を手に席を立ったタナカくんを見て、コバヤシくんが近寄ってきます。


「あれ? ミナト、今日は弁当じゃないんだね。珍しい」

「……えっと。……ちょっと、つくる気になれなくて……」


 コバヤシくんはタナカくんがいつもお弁当を持ってきていることを知っていましたから、この時間のタナカくんの手にお弁当がないことを不思議に思って尋ねたのです。それにタナカくんは少しぼかしながら答え、いつもお弁当を買っているコバヤシくんとともにお昼ご飯の調達へ向かいました。



 タナカくんたちの通う学校には学食と購買部がありました。二人は初め学食の方へ向かいましたが、その道中が喋りながらであったため、着いた時には満席の状態でした。その上、食券を手に待っている人が長い列をなしていましたから、タナカくんたちは学食を利用することを諦めました。


 購買へ向かった二人ですが、そこも行列必至でした。人気の具材が入ったおにぎりやサンドイッチなどを求めて争奪戦が繰り広げられています。彼らは食堂を利用できなかった人たちです。考えることは皆、同じようです。


 ぎゅうぎゅうとひしめき合っている生徒たちを見て、タナカくんはげんなりしていました。今からこの満員電車のような人だかりの中に突入していかなければお昼ご飯を食べ損なってしまうのです。流石にお昼なしで午後の授業を受けるのは心許ありません。タナカくんは仕方なく分け入っていくことに決めました。

 しかし、前の人の身体に、自身が触れようとした時、



――タナカくんの身体は、その中に入っていくことに拒否反応を示しました。



「……っ」


 タナカくんは最初、どうしてこのような感覚になったのか理解できませんでした。けれど、目の前の集団をよく見てみると、その理由がはっきりします。



――そこにいたのは男子生徒ばかりでした。



 今のタナカくんの身体は女の子のものです。精神的には男の子なので普通にその中へ入っていこうとしたのですが、本能がそれを遮りました。もみくちゃにされるのが怖い、というよりも、身体を彼らに触られるのが嫌だ、という感情がそこに明確に表れてきます。タナカくんはその輪の中に入ることを躊躇いました。


 ところが、男子生徒はあとからあとからやってくるのです。学食に入れなかった男の子たちが。その流れにタナカくんは押されてしまいました。


「――わっ!?」


 右も左も、前も後ろも、押されに押されて、タナカくんは身動きが取れません。それだけではありませんでした。胸やお尻、太ももの辺りを触られた感触を覚えたのです。もちろん、こんな満員電車のような状態なので故意に、というわけではないのでしょう。けれども、手も動かせなくなってしまっていたタナカくんに押し寄せてきた恐怖は尋常ではありませんでした。


「――い、いや……っ!」


 タナカくんは不快感とどうしようもないほどの戦慄をその身に受けます。

 この場から出たい――その一心で身体を動かしますが、右の人も左の人も前の人も後ろの人もびくともしません。

 その間にも、誰かの手がタナカくんの触れてほしくない箇所に当たり続けていました。

 タナカくんは、まるで手を拘束されて身体をまさぐられているかのような、そんな錯覚に陥ります。


 叫んで助けを求めたい衝動に駆られますが、それははばかられました。

 何故なら、タナカくんは男の子として振る舞っているのですから。

 ここで救助を要請したら自分が女の子になっていることがばれるのではないか、その不安がタナカくんの行動を抑制しました。


 不安からくる焦りがタナカくんの視野を狭めます。

 この状況から脱け出せる手段がない、と決めつけてしまったタナカくんは頭が真っ白になりました。

 心臓は荒れ狂い、目の前の景色は歪み、聴覚はその機能を失います。

 恐怖に、ただ耐えることしかできなくなっていたタナカくん。

 そんな折に背後から、左手に、がしっと掴まれた感触がありました。


「――ひっ!?」


 身体が強張ります。

 嫌なのに、けれど、抵抗する力が出てきません。

 タナカくんの身体は、されるがまま、引っ張られてしまいました。

 怖気づいて瞳を閉じたその瞬間――



「ミナト!」



 声がしました。

 コバヤシくんの声が。

 瞼を開けるとそこにいたのはコバヤシくん。

 彼の手がタナカくんの左の手首を握っていました。

 握っているのが彼だとわかると、不思議とさっきまで嫌だったものがそうではなくなっていきます。


 タナカくんはそのままコバヤシくんに引っ張られて群衆から脱け出しました。


「大丈夫だった? ミナト。……あれ、初めてだと戸惑うよね。攻略するのにはちょっとコツがあってさ……――ってゃ、み、ミナト? どうしたの?」


 コバヤシくんが左手に持った袋を掲げて苦笑しながら戦果を見せてきます。ですが、それには目もくれず、コバヤシくんの肩へとタナカくんは額を押し当てました。無言でいきなりそんなことをするタナカくんにコバヤシくんは素っ頓狂な声を上げます。

 ちなみに、二人の身長ですが、タナカくんが150センチなのに対して、コバヤシくんは160センチあります。ですので、タナカくんは無理な体勢をしているわけではありません。


「……」


 タナカくんはコバヤシくんの質問に答えられませんでした。それはタナカくんもよく理解していなかったからです。ただ、なんとなく、気づいたら身体が動いていた、タナカくんがこういう行動に出たのは突発的なものでした。わかることと言えば、こうしていると落ち着く、ということだけです。


 しばらくそうしていて心にゆとりができたタナカくんはコバヤシくんの肩から額を離す際、不意に握られている手へ視線を向けました。そこにはまだコバヤシくんの手があって、その手は思っていたよりも大きく、固い手でした。

 タナカくんがじーっと見つめていたからでしょう。その視線に気づいたコバヤシくんもその方を見ます。そして、コバヤシくんはその手に少し力を籠めたり緩めたりしたあとに呟きました。


「……あれ? ミナトの手ってこんな感じだっけ? いつもそんなに気にして見てたわけじゃないから断定はできないんだけど……、手を繋いだことも最近は特になかったし……。でも、もうちょっと大きくてしっかりしてたような……? なんか、手は小さくなったけど、指は少しすらっとして長くなってない? それに、この感触。全くごつごつしてないっていうか……」


 コバヤシくんに言われて、タナカくんはハッとします。これまで主に胸とある一部分の変化に気を取られていたために、じっくりと観察することがなかったので気がつきませんでした。改めて自分の手を見てみると、そこには



――細くてしなやかな手――。



 少しではありますが男の子っぽかった手が、完全に女の子のそれへと変わっていることを今更認識したタナカくん。元々女の子っぽかったということがあってタナカくんは些細な変化を見逃していました。タナカくんは慌ててコバヤシくんの手を振り解き、彼から一歩距離を取りました。


「……ソウ、よくない! ……今、女の子っぽいって言った! ……そう聞こえた! ……僕が気にしてるの、知ってるはずなのに……!」


 タナカくんの言葉。引き抜いた手をさすり、そっぽを向きながら、「元々こうだった」というニュアンスで発し、タナカくんはごまかそうと計ります。「コンプレックスだから触れないで」と言っているようにコバヤシくんに思わせるように。

 そのタナカくんの言葉に今度はコバヤシくんが慌てだします。


「ご、ごめんね、ミナト! そ、そんなつもりじゃ……! ――あ、えっと、お昼食べよ!? ミナトの分もあるからさ!」


 そう言って、掲げた袋を揺すってみせるコバヤシくん。タナカくんは、追及されなくてよかった、と安堵の溜息を漏らします。それから少し罪悪感を抱きました。コバヤシくんはタナカくんのことをよく見ていて些細な変化に気づいてくれただけだというのに、話を終わらせたいがために彼を攻め立ててしまったことに。そして、それと同時に気づいてもらえたことに嬉しさが込み上げてきていました。



(――っ。なんでばれちゃいけないのに嬉しがってるの、僕……!)



 タナカくんは自分の感情に戸惑わされます。




 タナカくんがわけのわからない感情に振り回される一方で、コバヤシくんはタナカくんに振り回されていました。


「えっと、ミナト? これあげるから機嫌直して?」


 普段ならタナカくんの表情からいろいろと読み取ることができるコバヤシくんですが、テンパっているとそうもいきません。自分の所為でタナカくんの気分を害してしまったとあたふたするコバヤシくんは、彼女かれの機嫌を取ろうと必死です。

 袋の中の買ってきたものを漁ってサンドイッチを差し出したコバヤシくん。


「……ごめん。……ソウは悪くない。……こっちが、八つ当たりしただけ。……だから、もらうわけには――」


 罪悪感から、それを断ろうとしたタナカくん。その時、



――きゅるるるるる



 タナカくんのお腹が鳴ってしまいました。可愛い音です。顔を真っ赤にして俯くタナカくん。

 それを聞いたコバヤシくんは微笑んでもう一度タナカくんの視界に入るようにサンドイッチを差し出します。


「……ごめん。……やっぱ、もらっていい?」

「うん」

「……でも、タダじゃ……――あっ。……その、今度、お弁当、つくってこよっか?」

「え? ミナトのお弁当? いいの!? やったぁ!」


 サンドイッチを受け取りながら、タナカくんはコバヤシくんに提案しました。タナカくんはいつもしていることですから、お弁当づくりは得意です。それを抓んだことがあったコバヤシくんは、その味が大変美味しかったことを覚えていました。

 タナカくんはコバヤシくんのためにお弁当をつくってくることを約束したのでした。

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