第10話 5月24日(水)の朝(part2)~タナカくんのニオイとトイレ事情~

 極端に利用者が少ないトイレの一室にてのことです。


「……うわっ。……やっぱり、外れてる。……あの時……?」


 タナカくんは学ランの上とその中に着ていたカラーシャツ、タートルネック型のタンクトップを脱いで、下着がずれていることを確認しました。トイレのタンクの上に持っていたカバンや脱いだ服を置き、背中の方に手を回してみると、留め具が外れているのが感触でわかります。


「……う、んしょっ。……よし……」


 タナカくんはなんとかホックを嵌め込んで形を整えます。男の子ではまずやらない作業に悪戦苦闘するタナカくん。下着をなんとか着け終えて、ズボンのポケットからスマホを取り出し鏡代わりにしてちゃんとできているかを見てみます。


「……はあ」


 今回は上手く着けることができていましたが、女性物の下着を着けている自分の姿に、タナカくんは辟易してしまいました。思わず溜息が零れます。


 サトウくんには見られていなかっただろうか、そんなことを考えるとタナカくんの気分は更に沈んでいきました。つらくて、恥ずかしくて、涙さえ零れてしまいそうです。



――キーンコーンカーンコーン。



 その時、学校が始まる予鈴が聞こえてきました。


「――やばっ」


 タナカくんは慌ててスマホを仕舞い、タンクトップとカラーシャツ、学ランに袖を通してトイレの個室から駆け出していきました。今日はバタバタしてばかりです。




「……うう、走り、づらい……っ」


 身体が変わってしまった、というのが原因でしょう。何か引っ張られるような感覚を与えられて違和感を覚えます。タナカくんはまたそれを支えているホックが外れてしまいそうな気がして思うように走ることができませんでした。そんな簡単に外れる仕様のものではないはずですが、男の子であったタナカくんにそういう知識はありません。


 なんとか教室の前まで辿り着いたものの、もう開始のチャイムは鳴った後でした。鳴ってからそれほど時間が経っていないとはいえ、遅刻は遅刻です。それまで一度も遅刻なんてしてこなかったタナカくんは心臓の鼓動が早くなっていくのを感じていました。

 恐る恐るドアを開けて中の様子を窺ったタナカくんですが、その場はまだ雑然としていました。どうやらまだ先生が来ていなかったみたいです。

 タナカくんはホッとしながら静かに、それでいてそそくさと教室に入り、自分の席へと向かいました。


 タナカくんが席に着くと親友のコバヤシくんが寄ってきます。


「どうしたの、ミナト? 遅刻なんて初めてじゃない? まだ体調悪い?」


 コバヤシくんはタナカくんのことを心の底から心配してくれているようでした。タナカくんは机に突っ伏しながら答えます。


「……ううん。……いや、うん、そう、かも? ……でも、遅れたのはそれとは関係なくて、野暮用。……大事なことだったから……」


 顔を少し動かして目だけでコバヤシくんを捉えて言うタナカくん。タナカくんは疲労を感じて少しばかりいつもと表情が変わっていました。この変化に気づけるのは親友であるコバヤシくんくらいなものです。彼はそこから、このことに触れてほしくない、という感情が含まれていることも読み取っていました。


「そっか。……よかったね。まだ先生、来てなくて――あれ? ミナト、シャンプー替えた? いい匂いだね」


 悪魔の彼女に聞きたいことを聞きに行っていたなんて内容が内容なだけに何をしていたかは聞かないでほしい、と思っていたタナカくんでしたから、この話題を広げないでくれたコバヤシくんには感謝します。けれど、唐突にその顔を首元に近づけられ、すんすん、とニオイを嗅がれて、タナカくんは仰け反りました。

 タナカくんはコバヤシくんに嗅がれた箇所を手で押さえました。ここまで走ってきていたということと、夏に近づいていてじりっとした暑い日であったため、タナカくんの首筋は若干湿っていました。


 タナカくんは考えます。コバヤシくんが言っていたことを。コバヤシくんは確信しているみたいに言っていましたが、そんな事実はありませんでした。いつも通り、シャンプーは替えていません。どうしてコバヤシくんがそのような勘違いをしたのか、と訝しく思います。


「……ううん。……替えてないけど……」

「……あれ? そう? おっかしいなぁ……。いつもと違って甘い感じがしたんだけど……。なんかすごく落ち着く匂いがしたからシャンプー替えたのかなって思っちゃった。ごめんね?」

「……?」


 タナカくんが否定すると、甘くて落ち着くいい匂いがした、とコバヤシくんから述べられました。タナカくんはそのようなニオイが自分からしている、なんて指摘されたことは今まで一度もありませんでした。

 タナカくんは右の手首を鼻に近づけてニオイを嗅ぎ取ろうとしますが、何も感じられません。自分自身のニオイだから鈍感になっているのだろうか、とタナカくんは眉をひそめました。


「……もしかして、結構ニオう? ……汗の所為、かな……?」


 自分がクサいのではないか、とタナカくんは不安になります。それをコバヤシくんは慌てて否定しました。


「う、ううん! そうじゃないよ! 全然不快じゃないから! ……まあ、それは僕の意見で、個人差はあるかもだけど……。――そういえば、イチジクさんも同じような甘い匂いがしてたなぁ……」

「……え?」


 それから出てきた人物の名前に、タナカくんは頭を混乱させます。何故そこでイチジクさんの名前が出てきたのか、タナカくんにはさっぱりわかりませんでした。


「……それってどういう――」

「おう、遅れて悪いなー。それは先生が悪かったが、お前ら席着けー!」

「あっ。先生来たから、じゃあね、ミナト」


 コバヤシくんに、イチジクさんの名前を出した意味を詳しく聞こうとしていたタナカくんでしたが、担任の先生がそのタイミングで入ってきて生徒全員に着席を促してしまったため、コバヤシくんはタナカくんの元から離れていってしまいます。タナカくんは詳細を確認することが叶いませんでした。


 タナカくんのもやもやは晴れないまま、ショートホームルームが行われ、特筆することのない報告や連絡がなされ、時間は一時限目へと移っていきました。



……………………



 一時限目が終わった休み時間にコバヤシくんと先ほどの話の続きをしようと考えていたタナカくんでしたが、そんな場合ではない事態に陥ってしまいます。


(――うう……っ!?)


 タナカくんは催していました。いつもならこんな早い時間に催すことなんてなかったのですが、今朝はいろいろあってトイレに行っていなかったことをタナカくんは思い出しました。

 もう少しで授業が終わる時間だったのでなんとか我慢しようとしたタナカくんですが、思ったよりも限界が近いことに驚かされます。


(――そ、そういえば、性別で我慢できる時間に差があるって聞いたような……っ)


 タナカくんはツユリさんに教えてもらっていたことをその身で体験し、その時間の差を実感しました。



――キーンコーンカーンコーン。



 授業終了のチャイムは鳴ったのですが、


「げっ、もう終わりかよ! やりたいとこまでできてねぇ……! 一体なんでこうなったんだ!? あっ! 開始が遅れたからか! お前ら、切りのいいとこまでやらせろ! 次の試験、習ってねぇとこ出されてもいいなら別にここで終わってもいいけどな!」


 そう言って、タナカくんのクラスの担任で理科総合を教えるカトウ先生は授業の続行を宣言しました。妙な脅しをかけてくるあたり教師としては性質的に問題がありますが、フランクなところがあって割と生徒たちからの人気はあったりします。

 ただ、今のタナカくんにとっては、それどころではありませんでした。なんとか持ちこたえたと思っていたのに、授業が延長されるのだからたまったものではありません。タナカくんは涙目になって内ももを擦り合わせながら、この時間外講習を凌ぐことになってしまいました。



 それから約五分ののち、タナカくんたち生徒はようやく解放されました。タナカくんはもう素早く動くことができない状態に陥っていて、ゆっくり、ゆっくりと席を立ちます。その様子に、コバヤシくんが前方から声を掛けてきました。


「ど、どうしたの? ミナト……」

「……と、トレイ……っ」

「ご、ごめん、呼び止めて……! い、いってらっしゃい……」

 

 タナカくんはコバヤシくんに断りを入れてからトイレへと向かいました。

 いつもなら極端に利用者が少ないところへ行くのですが、ここからは少し距離があって間に合いそうにありません。タナカくんは仕方なく一番近くにあるトイレを目指しました。


 トイレの入り口付近までやってきたタナカくん。ただ、そこでタナカくんの足はぴたりと止まります。入ることに躊躇いがあったのです。

 女の子のような容姿をしているタナカくんが男子トイレに入れば、その場にいた男子たちがざわざわし始めます。入学したての頃、それを二、三度経験していたタナカくんでしたから、それからは人目を避けて利用者の少ない場所へ行くようにしていました。また、今は女の子の、ではなく、完全に女の子であるタナカくん。男子トイレに入ることに若干の抵抗がありました。

 けれど、もう限界です。精神的に女子の方へ入るのは気が引けるため、タナカくんは意を決して一歩を踏み出しました。


「お、おい、一組のタナカだ(ひそひそ)」

「ほ、本当だ。制服から男だってわかってたけど、こっち使うの違和感ある容姿だよな(ひそひそ)」

「てか、俺、一回もトイレで見たことなかったんだけど(ひそひそ)」

「俺も。アイドルにトイレはいらない、とかそんな感じなのかと思ってた(ひそひそ)」

「だああああ! 俺の中の『田中はホントは女の子説』がああああ!(ひそひそ)」


 案の定、タナカくんがトイレに入った瞬間、その場にいた五人の生徒が一斉にタナカくんに注目し、グループでひそひそと話し始めます。彼らは聞こえないようにしているつもりですが、タナカくんの耳にはばっちり聞こえていました。

 でも、タナカくんは下手にツッコみはしませんでした。ツッコんだところでタナカくんの容姿からして、彼らのタナカくんに対する見方を変えるのは難しいですし、それなら関わらない方がいいとタナカくんは判断したのです。何より、トイレを済ませたかったということもありました。


 彼らを無視して一番奥の個室へと入っていって、しっかりと鍵を閉めたタナカくんはベルトを緩め、ボタンを外し、チャックを開け、ズボンを降ろし――とにかく、セーフでした。

 やり方についてはツユリさんの抗議を受けていたのでなんとかなりましたが、ここにはその音をマスキングしてくれる擬音装置なんてありません。女子トイレにはあるかもしれませんが、男子には不要なものなのでそんな装置があること自体タナカくんはツユリさんに教えてもらうまで知りませんでした。

 そして、扉の外。一枚の板を隔てたところに何人かの気配をタナカくんは感じます。気が全く休まりませんし、「音」を聞かれたかと思うと羞恥によって殺されてしまいそうでした。


 それでも、ここまではなんとかなったのです。けれど、ここからが問題でした。

 タナカくんは、今の身体にまだまだ慣れてはいませんでした。男の子と女の子の違いに困惑させられます。


「……んっ、ひゃう……っ!」


 タナカくんの口から妙な声が漏れ出てしまいました。すると、扉の向こうでまたがやがやと話しているのが聞こえてきます。


「な、なんだ? 今の可愛い声……(ひそひそ)」

「な、なんか色っぽくなかった?(ひそひそ)」

「しーっ! 馬鹿! 今、ここにタナカが入ってるんだよ!(ひそひそ)」

「えっ!? タナカって一組の!?(ひそひそ)」


 今タナカくんが発した声は外の人たちに聞かれていたみたいでした。恥ずかしくて仕方ありません。顔全体に熱が集まってくる感覚がします。タナカくんは居たたまれなくなっていそいそと服装を整え、水を流して個室を出ました。


 トイレの個室のドアは内側に開くタイプです。それなので、タナカくんがドアを開けると、三人の男子生徒が個室に雪崩れ込んできました。タナカくんは華麗な反射神経で躱して彼らにぶつかるのを防ぎます。彼らはタナカくんが入った個室のドアに身体をくっつけて聞き耳を立てていたようです。


「っ! い、いやあ、あはは……」

「……っ!」


(……これ完全にしてる時の音聞かれてる……っ)


 タナカくんは彼らに排泄の音やその後の処理の時に発してしまった声を聞かれていたことを把握しました。この上ない羞恥に悶え苦しみそうになったタナカくんですが、それを上回るほどの嫌悪感を抱いたことで、身体の熱が一気に下がっていくのを感じます。怒りで逆に冷静になれたタナカくん。笑ってごまかそうとしている彼らに対し、その言葉は口を衝いて出ました。



「……サイテー……っ」



 タナカくんは表情の変化が乏しいながらも、その酷く冷めた目で彼らを睨みつけたあと、その人たちを押し退けてトイレを走り去っていきました。



 そのあとのトイレ内の状況ですが、


「ああ……っ! タナカに嫌われた!? ど、どうしよう……!」


 ある者は自らの行いを嘆き、


「あの声、可愛かったなぁ……」


 ある者はタナカくんの『声』を思い返し、


「あ、あの目……、堪らない……っ、癖になりそう……っ!」


 ある者は何かに目覚めそうになっていたそうです。



 そんなこととは露知らず、タナカくんは手を洗い忘れていたことに気づき、廊下にある水道で手を洗っていました。

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