第6話 5月22日(月)~23日(火) タナカくんの最も望まないこと
リリムシェディムが消えたあと、タナカくんはしばらくその場で警戒していましたが、『自分にとって最も望まないこと』が起こる気配は今のところありませんでした。
それなので、タナカくんは『自分にとって最も望まないこと』とはなんなのかを予想しながら部室棟の外を目指しました。
この日はテスト週間、その最終日で学校は午前で終了しています。今は十二時を少し回ったところでした。
五月も中旬を過ぎ、日中に熱さを覚え始める季節です。廊下の窓から空を見上げると日差しは高い位置で燦燦と輝いていて一面に雲はなく、見事な五月晴れの日でした。
もしかしたら、『自分にとって最も望まないこと』とは、今回やったテストの結果が悪かったり、この日差しにやられてしまうことなのではないか、とタナカくんは考えました。自分で考えておいて、最も望んでいないこととは違うな、と自分で否定します。
それ以降もあれこれと考えていましたが、『自分にとって最も望まないこと』がなんなのか、その答えは出ないままタナカくんは部室棟を後にしていました。
「あ! ミナト!」
「……?」
タナカくんが校門を出た瞬間、呼びかけられました。声のする方に向くと、そこにいたのはコバヤシくんでした。コバヤシくんはタナカくんのことを待っていたのです。
「……ソウ。先に帰ってていい、って言ったのに……」
「あはは……。そうなんだけどね。でも、言い忘れてたからさ」
何か伝え忘れていたことがあったらしいコバヤシくん。タナカくんは見当もつかなくて首を傾げます。
「ミナト。勉強、教えてくれてありがとう」
コバヤシくんが伝えたかったこと、それはテスト勉強を教えてくれたことへのお礼でした。
「……別に」
それに対してタナカくんは素っ気ないような対応をします。本当は嬉しくて仕方がなかったのですが、にやけた顔をコバヤシくんに見られたくなくてそっぽを向いたのでした。
「あ、そうだ! テストお疲れ様会しようよ!」
タナカくんが冷たくあしらうようにしても変わらない様子でコバヤシくんは誘ってきます。その誘いに応じようとした時でした。
「……うん。いい――」
「あー! ミナちゃんだー! こんなとこで会えるなんてハッピーだよー! 今日もカワイイねー!」
タナカくんの回答は背後からやってきて突然抱きついてきた人物によって阻まれます。
「――い、イチジクさん……!?」
やってきたのはイチジクさんでした。タナカくんの身体がびくっと震えます。
「あ! イチジクさん! クラス委員のお仕事お疲れ様っ」
「あ! ソウタくん! お疲れー」
イチジクさんがコバヤシくんと挨拶を交わした時、わしゃわしゃと頭を撫で回していた手が一時的に止まったその瞬間を見極めて、タナカくんはイチジクさんの腕の中からするりと脱け出します。そして、コバヤシくんの背中に隠れました。
「ああ! ミナちゃん!」
「あ、あはは……。嫌われちゃった、かな?」
「そ、そんなー!」
「……ソウ、あの子、距離感おかしい。……彼氏なんだから、注意して。……他の男にべたべたしたらダメって……」
逃げていったタナカくんに、イチジクさんは悲愴な面持ちを浮かべます。タナカくんの性格をよく知るコバヤシくんがイチジクさんに、タナカくんから嫌われたかもしれないことを伝えると、更なる悲嘆の声が上がりました。
タナカくんはイチジクさんの行動を注意した方がいいと指摘しますが、
「え? まあ、ミナトだし。大丈夫でしょ?」
「うんうん! ミナちゃんはミナちゃんだもんねー! 何もかも超越した存在だから大丈夫! カワイイは正義っ!」
「……」
その警告を受け取ってはもらえませんでした。
「それよりさ、お疲れ様会なんだけど、ミナトも一緒でいいよね?」
「え!? ミナちゃんもきてくれるの!? うんうん! もちろんいいよー!」
「……え」
コバヤシくんがテスト勉強お疲れ様会の話に戻しました。イチジクさんへ向けて使われた言葉のニュアンスにタナカくんは言葉を失います。それは、今からイチジクさんを誘う、というものではなく、既に誘っているイチジクさんにタナカくんの参加を認めてほしいとお願いしている、そんな言い方でした。
考えてみれば当然かもしれません。イチジクさんはコバヤシくんの彼女なのですから。親友より、できたばかりの彼女を優先するのは人間において真理だと言えるでしょう。
けれど、タナカくんは少なからずショックを受けていました。彼女を優先するのは大事なことだと頭ではわかっているのに、自分の優先度が低くなってしまったことを直に体感してどうしようもなく切なく、苦い気持ちになってしまったのです。
コバヤシくんがイチジクさんと嬉しそうに話しているのを見て、タナカくんはこの中に割って入ってはいけない、そう感じました。自分の所為で二人の間に
だから、タナカくんは言いました。
「……ううん。やっぱ、二人でやって」
「え? ミナト、来ないの?」
「ええ!? ミナちゃんも一緒にやろうよー!」
二人はタナカくんが加わることを良しとしてくれますが、タナカくんはその誘いに乗ることはできませんでした。
「……二人の時間、大事。……今回は、遠慮しとく」
二人を置いて歩き出すタナカくん。タナカくんは二人の仲睦まじい様子を見ていることに耐えられなかったから、コバヤシくんとイチジクさんが一緒にいる空間にはいられなかったのでした。
振り返ることなく進んでいったタナカくんでしたが、角を曲がると、物陰に隠れながら二人の様子を窺います。
二人はまだ校門の前にいて、初々しいやり取りをしているようでした。しばらくしてコバヤシくんが狼狽えたかと思うと、コバヤシくんとイチジクさんの顔が徐々に近づいていくのがタナカくんの目に見受けられました。
タナカくんはハッとします。リリムシェディムには例の願いを取り下げさせてほしいとお願いしましたが、それがいつから有効になるのか、それを聞きそびれていたことに思い至ったからです。
「待って――」
タナカくんは思わず飛び出しました。声も張ろうとしましたが、元々タナカくんの声量はお世辞にも大きいとは言えず、普段から大声なんて出していないので通りません。
(止めようにも二人とは距離があって、声も届かない――)
タナカくんの願いは空しく、二人の唇は重なってしまいました。
(――爆発する――!)
絶望したタナカくん。しかし、タナカくんが危惧するような事態にはなりませんでした。二人は吹き飛ぶことなく、その場にいました。
リリムシェディムに頼んだことが実行されていることをタナカくんは悟りました。ちゃんと二人を救えたことに、タナカくんは安堵します。そのことには安堵できたのですが――
(間近で見ちゃった、二人のキス――)
そのことにタナカくんの心は大きく揺さぶられてしまいました。
タナカくんは耐えられなくなって、その場から一目散に逃げだしました。
……………………
タナカくんがここまでコバヤシくんのことを思っているのは、タナカくんの過去に原因があります。
タナカくんは昔からこの容姿でしたから、クラスの子たちからいじめを受けていました。初めのうちはその容姿を
小学三年生の時です。コバヤシくんが転校してきたのは。彼はタナカくんに対するいじめを見ると、なんの躊躇いもなくタナカくんを助けにきてくれたのです。そして、いじめていた側に正論をぶつけ、いじめを終わらせました。そればかりではなく、コバヤシくんは笑顔でタナカくんの初めての友だちになってくれました。タナカくんにとってコバヤシくんはまさにヒーローのような存在でした。
自分の、自分だけのヒーローだと思っていたコバヤシくんが、あの時のような明るい笑顔をイチジクさんに向けている――それがまるで自分から離れていってしまったようで、タナカくんになんとも言えない感情が押し寄せてきました。悲しかったり、不安だったり、イチジクさんが羨ましかったり。
コバヤシくんの特別というポジションを守りたかったタナカくんでしたが、イチジクさんに向けるあの笑顔を見たあとでは、イチジクさんとの仲を引き裂いてはコバヤシくんからあの笑顔を失わせてしまうことが想像できました。タナカくんはコバヤシくんに悲しい顔をさせたいわけではないのです。自分を助けてくれたヒーローには幸せになってほしいのです。
いろんな感情がタナカくんの中でひしめき合って、ぐちゃぐちゃになってしまいました。
しばらく走り続けたタナカくんは、視界に自宅が入ってきたことを確認して、呼吸を整えるために一旦その足を止めました。荒い息を鎮めるようにしながら、胸に手を当てて考えました。
(これから『自分にとって最も望まないこと』が起きる……)
学校を出るまでは考えていて、なんらかの事件に巻き込まれて学校を辞めさせられたり、事故に見舞われて身体に後遺症が残ったりするのではないか、といろいろな予測を立てていたタナカくんでしたが、ここへきてビビッと閃いてしまいます。
「……まさか、僕にもたらされる『最も望まないこと』って――」
(――ソウ関連なんじゃ――?)
例えば「ソウの身に危険なことが起こる」とか、「ソウともう二度と会えなくなる」とか。
それは正しくタナカくんが何よりも望まないことで――。
タナカくんは思わず振り返りました。当然と言えば当然ですが、そこにコバヤシくんの姿はありません。そのことが、その光景が、先ほど考えたことに妙に現実味を帯びさせてきて、タナカくんはしばらくの間途方に暮れさせられました。
家に帰ったタナカくんでしたが、もう何もする気になれませんでした。それでも、本当に何もしなかったら仕事から帰ってきた父・ケントさんが困ってしまうので、晩ご飯の準備とお風呂掃除だけは惰性で済ませました。それからタナカくんは自分の部屋へ行き、制服を脱いでベッドに倒れ込みます。もう何も考えたくありませんでした。
……………………
その日の深夜のことです。
タナカくんは猛烈な熱さを感じて目を覚ましました。気づけば心臓が痛いほどに脈打っており、身体の節々も痛んでいます。
「……うぐっ、うう……っ!?」
俯せで眠っていたタナカくんですが、
身体の痛みは尋常ではなく、身体をバラバラにされているのではないかと錯覚するほどでした。身体を巡る血液も沸騰しているかのように熱く、次から次へと汗が噴き出してきます。さらに困ったことに視界がぐるぐると回り、途轍もない吐き気が押し寄せてくるのです。耐えきれなくなったタナカくんは無理やり身体を起こし、部屋にあったゴミ箱へと駆け込みました。
「うぉええ……っ、うっぷ、おええええ……っ!」
タナカくんは胃の中にあったものを全部出してしまいました。そのお陰か、多少は楽になりベッドに戻ろうとしたタナカくんでしたが、痛みと熱さにやられた頭はボーッとしており、あと一歩でベッドに辿り着くというところで倒れ込んでしまいます。ベッドに上半身だけ預けたタナカくんはそのまま意識が遠退いていってしまいました。
☆☆☆☆○○○○
日が昇ってきました。
「……う、ううん……」
窓から差し込む朝日によって目を覚ましたタナカくんは身体を起こします。夜中に感じた熱と痛みですが、まるで夢であったかのように身体は軽くなっていました。けれど、寝ていた位置から夢であったとは考えにくく、タナカくんは、昨日のアレはなんだったのだろう、と首を傾げました。
ベッドの近くに置いてある時計に目を遣ると、五時半と示されています。兎にも角にも、タナカくんの朝は忙しいので、考えるのは後回しにしました。
洗面所にいって顔を洗ったタナカくんでしたが、なかなか頭は覚めてくれません。これはいつものことです。歯を磨いていればその間に冴えてくるので、この日もそうしていました。
タナカくんが睡魔と格闘しながら歯を磨いていると、ケントさんが起きてくる音がしました。
いつもなら朝食をつくっている間に起きてくるのに今日は少し早いな、とタナカくんが珍しく思っていたら、更に珍しいことが起こります。
――ダダンッ!
近くで発せられた大きな物音に、タナカくんの眠気は吹き飛びました。音のした方に振り向くとケントさんが尻もちをついていました。タナカくんが心配して声を掛けますが、それに対して返ってきた父の言葉にタナカくんは困惑させられることになります。
「……大丈夫? 父さん……」
「と、父さん……? お、おま……っ、ミナト、なのか?」
愕然としながら、当たり前のことを聞いてくる父・ケント。タナカくんはその反応が不思議でたまりません。訝しんでいると、ケントさんに示されます。
「か、鏡! 鏡見てみろ!」
そう言われて鏡を見たタナカくん。
――カランカランッ
「――え」
室内に響く洗面器に落ちた歯ブラシの音。そして、タナカくんの小さな悲鳴。
そこに映っていた顔はいつものタナカくんでした。しかし、身体の方はいつもとは違っていていました。特に顕著だったのはその胸。
タナカくんの胸は男の子とは思えないほどに膨らんでいたのです。
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