生者の為の短編集

Yehi-

天国の人々

貧しい劇場、優しい演者がまた一人、踊らされ転がされ、壇上から滑落した。スポットライトに赤、照らされた演者はきっともう動かない。とうに沸点など通り越していた若い僕は舞台袖の人々に殴りかかった。されどこの身を絡めとる多くの腕に熱を上げる僕の心は、いとも容易く地に縛られ、壇上に投げ戻された。壊れた玩具を惜しむように七光りの権化は髭が剃られた顎をさすり僕を客席に蹴りだして暇を出された。劇場は拍手で満たされる。良い見世物だったってさ。


膝を落とす月が覗く歓楽街の静粛、傷口に塩を塗る風に心を乾かせられながら、痛みに両の手を石畳に縫い付ける。もっと賢くならなければこんな夜が続くだろう、もっと上手く芝居をうたなければこんな夜が続くだろう。地に落ちる血の音は胸の鼓動にかき消され、この足音だけを静粛に響かせた。


それから僕は綺麗に磨かれた黒い革靴が石畳を叩く音で溢れる町中でとても滑稽に踊って見せた。そうすればその足音は金の落ちる音へと変わったし、多くの者の目に止まった。やがて鼻の高い商人の気を引いた僕は彼の元で働き、そして褒めたたえた。その頃にはもう僕の両足は綺麗な黒い革靴に収まっていたし、満足感がこみあげてくるように感じていた、けれど何故だかまだ夜の静寂に漂っている気がした。そしてある日、商人は倒れて一人の部下が金をさらって何処かに雲隠れした。もう商人はあの商人ではないように見えた。それはやがて息を引き取った。その頃には僕の財産はポケットから財布に、財布から金庫に膨張していた。裏切りに満ちた商会には長く留まりたくなかったので商人が残した人脈を頼りに独立して元の商会から何もかもを奪った。同じ轍を踏みたくないので僕は徹底的に人員を調べ上げて鴉のように頭の回る者たちを周囲から排除して野心のない者たちを周りに侍らせた。


僕の髪がおおよそ白く染まる頃にはもうこの国で一番名のしれた商会になって、莫大な財産を手にした。ただ大きくなりすぎた弊害か次から次へとこの座を狙うものが現れて遂に裏切りにあった。幸運な事に僕は事が起こる前にそのことを知ることができたので何も奪われることはなかった。二度とこんな目に合わない様に見せしめとして裏切り者たちを僕は徹底的に叩き潰した。人々はその様を見て僕を独裁者だとか金の亡者だとかそう言い表した。多くの人は愚かなので裏切りの恐ろしさなんか知らないんだ。他人の評価もどこ吹く風で強硬な姿勢で僕は歩いた。


足音ともう一つ音が増える頃には誰も僕に勝る者は居なかったが目に見えない脅威の為に力を誇示し続けた。有り余る財で田舎に道をひき建物をたて街を興して国の発展におおいに貢献した。そうなると人々は口々にその功績を讃えて膝まずかない者はいなくなった。それでも尚、僕は進み続けた。あの夜に戻ってしまわない様に。


遂に寝台に体を縫い付けられる頃になって僕は自らの死を悟った。でも怖くはなかった、なぜなら死んでしまえば誰も僕から何も奪えないだろうから。正直言ってこの競争社会に疲れていた、ある程度の安寧を得るためには常に戦い続けなければならなかったからだ。そう想いにふけっていると僕は白よりも色のない踊り場に立っていた。如何やら迎えが来たらしい。天から足元へ並べられた階段を僕は上がっていく。そしたらいつの間にか目の前には扉があった。扉に指先が触れようとしたところで僕の手は弾かれた。扉の近くにはひとりの門番が立っていた。


「何故弾くのですか?僕はここに入れないのですか?」


門番は瞬きもせず僕を見る。


「ここは貴方の天国ではありません」

「どうして?この扉の向こうに幸せに暮らす人々の姿が透けて見えます。ここはきっと僕の望んだ国です。」

「いいえ違います。ここには貴方の望むものはないのです。ここには政府がありません、ここには法律がありません、ここには通貨がありません。ですがこの場所では争いが起きません、何故なら人々が愛に満ちているからです。花を望む望む者には多くの花束が多くの愛と共に多くの人々から手渡され、林檎を望む者には多くの林檎が愛と共に多くの人々から贈られます。」

「それは僕の望んだものです。」


門番は首を振る。


「貴方は花も林檎も何もかも欲しがるようです。そんな貴方を私達は愛せないし、そんな貴方に花も林檎も何も贈らないでしょう。私達は決して巨万の富を持っているわけではないので貴方に贈る物は何もないのです。きっと貴方は窮屈に感じて出て行ってしまうでしょう。幸いにも貴方は私達より努力を重ねてきたようですのでこの道の先の木の右手に見える国に行ってはどうでしょうか?その国には巨万の富があるようですし、ここのように暴力を嫌う者たちが住んでいるわけではないので暴力をふるってもここのように全ての人を敵に回すこともないでしょう。努力を重ねられる貴方ならきっとその国で頂点に立ち、巨万の富を得ることができるでしょう。そうなればそこは貴方の天国です。」

「僕はもう争いたくないのです。」

「でも貴方は巨万の富を求めているのでしょう?それならばその国に行くか、もう一周するしかないでしょう。」


僕はその景色から遠ざかってまだ微かに残っている意識で自宅の天井を見上げる。僕は何が欲しかったのだろう、はたして本当に巨万の富が欲しかったのだろうか。振り返ればずっとあの夜から逃げていた気がする。巨万の富があればあの夜から逃げ切れるとそう思っていた、いや、そう信じたかったんだ。でもきっとお金があれど花があれど林檎があれど逃げ切れないんだろうな。ただ足が欲しいんだ光よりなによりも早いそれがあれば逃げ切れるだろうから。しかしそんな物はない。でも他の人々のように夜の中で暮らしたくもない。僕は臆病だったんだ。寝台のそばで蝋燭を持って控える召使いに不思議と口が開いた。


「君は僕を裏切ることもなかったし離れることもなかったね。君は確か歌手になりたかったけど貧乏でなれなかったと言っていただろう?歳を重ね弱っていく僕を置いて金庫からお金を持ち去ってしまえばきっとその夢は叶えられるだろうに何故それをしないんだ?」

「それは感謝をしているからですよ。」

「感謝?僕は冷酷な男だ。そんな男に感謝するだなんておかしな人だな。君に何かしたつもりもないし」

「言う通り貴方は冷酷な人です。自分の敵には容赦がない。けれどわかり易い人です。貴方の嫌う物も好む物もとてもわかり易い、だから信用できるんです。貴方の考えることも、貴方の思うことも目に見えるんです。この世界には信じられるものはほとんどありませんが貴方の事は信じられます。目に見えない優しさより冷酷な貴方のその姿勢のほうが私には居心地が良いのです。」

「僕は演者だよ。いつも噓で化粧をして人を騙してきたんだ。君はわかっていない。」

「貴方に芝居の才能はありませんし貴方の化粧は濃すぎるんですよ。いいですか。男の貴方にはわからないかもしれませんが化粧は濃ければ濃いほどその隠す場所、癖からその人の望む物や隠したい欠点がわかる物なんです。」


召使いはいつものように僕を褒めたたえることはしなかった。でもどうしてか気分は悪くなかった。あの時のように冷たい夜だというのに。


「そうか。才能がなかったか」


何故だかきっとどんな天国も悪くないように思えている。悟った僕は近くの紙に筆を走らせ寝台から立ち上がろうとして足を踏み外した。寝台から滑落してまた意識があの踊り場へと導かれる。月の糸に赤、照らされた僕の鼓動は直に止まるだろう。とうに限界など通り越した手で紙にその心をつづる、もう演者はやめたんだ。召使いは僕を起こそうとして蝋燭を置くとその火は消えてしまった。最後に残った月の糸が僕の胸を指さしているのを見ながらあんなに嫌いだった夜に最後になってようやく名残惜しさを感じる。夜から月の光が消えないように祈りながら紙を握り締める。それが天国への切符になると信じて。

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