第2話 黄金の林檎の行方
「私、離婚したのよ」
アフロディーテは、やんごとなき笑みを浮かべた。
「そうか」
祝うわけにもゆかぬだろうから、我の返事はそっけない。ただ、尋ねずにはいられなかった。
「あの夜、あの鎖の網に囚われたのは、わざとだったのではないのか?」
「ご明察。夫の側から離婚を切り出してくれて、してやったりよ! 彼、この私の美しさを手に入れたはずなのに、独占できないことに、もはや疲れ果てたんですって」
アフロディーテは、嬉々として語った。寧ろ祝ってほしかったようだ。
「あなた、ヘパイストスが鎖を切るように仕向けてくれたでしょう? なぜ?」
今度は、彼女が我に尋ねた。いつぞやと同じ、妖しく揺らめく炎を宿した瞳をして。
「ポセイドンめが鬱陶しかったからだ。あの時、あのまま
我とあれは、どちらも軍神として崇められてはいるが、性質は随分と異なる。アレスは、隙あらば戦争を仕掛け、血腥い戦闘を好む。守護を重視し、命を守るための武芸、暮らしを守るための技芸を司る我とは相容れぬのだ。
アフロディーテは、肩を竦めて、壁を飾る織物を見遣った。
我が彼女を招いたのは、手ずから織り上げた織物を見てもらうためだ。我は、数ある技芸の中でも機織りを得手としているし、審美眼においてアフロディーテの右に出る者はいない。
以前にも同じ理由で招いたところ、思いがけず、愛を告白されたのだが……
「これは新作ね。ふふ……織り手の思いが溢れ出るようだわ」
アフロディーテは、足を止めた。
その織物の上部には、武装してオリーブの枝を掲げた我の姿があり、明るい光に照らされている。一方で、下部には、項垂れた馬がおり、その傍らで地面に両膝を突いて、やはり項垂れているのは、かのポセイドンである。
「アテナ、この度の勝利を心からお祝いするわ」
人間が新しい国を建て、守護神を求めていた。我がかの海神と争い、その座を勝ち取ったというわけだ。まさに念願の勝利だった。
「あなたが守護する国家では、人々が技芸に励み、美を追求することでしょう。私としても喜ばしいわ」
そう。我と彼女の神性には、分かち難い繋がりが存在するのだ。優れた技芸には、おのずと美が宿るのだから。
「実は、仕上げたばかりの織物が、もう一つあるのだ。見てはもらえぬだろうか」
我が新たに掲げた織物が描き出しているのは、唯一無二の裸婦像だった。
アフロディーテは、目を見張った。
「これは、あの夜の?」
「そうだ。あの夜のそなたが頭から離れず、熱に浮かされたように織り上げずにはいられなかった」
アレスや鎖の網など、我にはどうでもよかった。織物に白く浮かび上がるかのように存在しているのは、ただただ乱れ髪の裸婦の姿のみである。
「美と技芸は不可分だ。そして、愛は家庭を築き、子をなし、暮らしを守り、他者を守るために戦うこと、それら全ての原動力となろう。そうした、そなたの掛け替えのない神性を表現したつもり……」
アフロディーテの人差し指が、戒めのように我が唇に触れた。
我はただ褒め称えようとしたのだが、それがまずかったか?
我は、これから先も、アフロディーテと互いの美徳を称え合う仲であり続けたいのだ。
しかし、考えてみれば、彼女自身にとっては、美は諸刃の剣であり、望まぬ縁談を招き寄せた。愛と性は大嵐のごとくであり、離婚に至ったばかりである。
それとも、彼女は、我に求愛した以上は、もっと簡潔で直截な返答を今も望んでいるのだろうか?
とはいえ、我は既に一度、丁重に断ってしまった身であるし……
必死に思いを巡らせるうち、不意に、アフロディーテは、我が胸に顔を埋めた。咄嗟に抱いたその肩は、何故か震えていた。
「実は、ここに来る前、ガイア様に呼び出されたの」
ガイアは、ゼウスの祖母にして曽祖母でもある古き女神だ。最古にして最大の地母神であり、大地そのものの意思にも等しい御方だ。かのメドューサなども地母神の端くれではあったが、神性は相似していても、格が違いすぎるのだ。
「ガイア様は私に仰ったわ。『近頃、人間が増えすぎて、大地はその重みに耐えかねている。人間の数を減らすため、ほんの千年ばかり眠りに就いてくれないか』と……」
我は処女神だが、仮に人間たちが愛欲を喪失すれば、人口が減ってしまうであろうことは想像に難くない。大いなるガイアは、アフロディーテを眠らせその神性を封印することで、大地の重荷を減らしたいという思し召しなのだろう。それにしても千年とは、我ら不死の神にとっても永き年月である。
「すぐにアレスに相談したら、『
「我よりも先に、アレスを頼ったのか?」
「腹を立ててくれるの?……私の求愛を拒んでおきながら」
「そうとも。あれに知略は期待できまい!」
最高神ゼウスですら、人間を減らしたいという大地母神の意思には逆らえまい。しかし、最高神であるがゆえに、ゼウスであれば、人口を減らすための手段は選べるはずである。アフロディーテを封印することを避けるような手段だって……
「やはり、
我は歯噛みした。今回ばかりは、我とあれの利害は一致している。
そして、アフロディーテを守ったうえで大地母神の意に添う知略を奏上すべく、我もまたゼウスの元へと急いだのだった。
とある女神と英雄が結婚式を挙げることとなった。
オリュンポスの神々も祝いに馳せ参じ、人間の王族も
宴の
……それが、アレスの手の者の仕業であると知る者は、ごく僅かしか存在しなかった。
「これはこれは、余興にうってつけじゃ。しかしながら、宴の主役たる花嫁を余興に巻き込むのは、無粋というもの。ここにおる女神の中で、花嫁を除いて、誰が最も美しいか審判してもらおうではないか」
林檎を拾い上げたヘラが、
ヘラは、物怖じするパリスを見兼ねたかのように、我とアフロディーテに声を掛け、三柱の中から、最も美しき者を選ぶよう迫った。
「パリスよ、もしも妾を選んでくれたなら、トロイアよりも大きな国の玉座に、そなたを据えてやろうぞ」
ヘラが、冗談めかして、しかし煽るように述べると、宴の客たちはどよめいた。
パリスは、王子ではあるが父王に疎まれ、冷遇されているのだから。
「であるなら、我も何かしらの加護を約束せねばなるまい。パリスよ、そなたも王子。祖国を守るべく、
我は、涼しい顔で言った。これは我の知略に基く芝居だが、パリスをはじめとする人間たちに、そのことを気取られてはならぬ。
「パリスよ、私を見るのです」
アフロディーテは、王子に艶然と微笑み掛けた。
「そなたは、私を見ても何も感じぬような男ではないでしょう。ですが、その思いを口にしてはなりません。神への不敬に当たるでしょうから。私こそが最も美しい。それをそなたが素直に認めてさえくれれば、最も美しい女とそなたを相思相愛の仲にしてあげましょう」
パリスは、吸い込まれるように一歩を踏み出した。
「勘違いしてはなりませんよ。私はそなたを愛でるわけにはいかない。この私の傍らに立つのは、軍神でなければならないのです。そなたと相思相愛になるべきは、人間の中では最も美しい女で、この私に生き写しの姿形をしています」
アフロディーテが「軍神」と口にしたのを受けて、アレスの名を囁き交わす酔客がいた。
件の夜、ヘパイストスが一大事だと騒ぎ立てたお陰で、アフロディーテとアレスの仲は、広く人間たちにも知れ渡ることとなったのだ。
だがしかし、我もまた軍神なるぞ!——もしも大切な芝居の山場でなければ、そう叫び出してしまいそうだった。
私という極上の絹布であなたを覆い尽くして、その高潔な魂を吸いたいのよ!——そうまで言ってくれた彼女の求愛を退けてしまった我であるのに。
パリスは、アフロディーテの前に跪き、黄金の林檎を捧げた。
ここまでは、まさに計画通りだった。
アフロディーテは、宴が終わった後、スパルタの王妃ヘレネとパリスを引き合わせた。
二人は恋に落ちたが、もしも、パリスがヘレネの愛人の一人として甘んじたなら、それ以上は何も起こらなかったはずだ。つまり、計画は失敗だ。
黄金の林檎を誰に委ねるかの人選については、既婚者であるヘラや、恋多きアフロディーテに任せて本当に良かったと、我は素直に認めねばなるまい。
パリスは、ヘレネを独占しようと、彼女をトロイアへと攫ったのである。
スパルタの王をはじめとする、ヘレネを愛する
これならば、ゼウスやガイアに対する人間たちの信仰心が損なわれることもないだろう。
アレスは、トロイアに加勢して、我と一戦交えることを望んだ。
せっかくの申し出ゆえ、我はあれの軍勢を思う存分に蹴散らして憂さを晴らした。
パリスは、黄金の林檎を我に捧げなかった。故に、その初陣が我の加護を得られるはずもなかった。
トロイアは滅びた。余分な人口という負担が和らいだことで大地母神は鎮まり、アフロディーテの封印は回避されたのである。
アフロディーテよ、これこそが我なりの愛し方である。
美神と軍神 如月姫蝶 @k-kiss
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