美神と軍神
如月姫蝶
第1話 アフロディーテの誘惑
「肉体というのは、きめの細かい絹布のようなものなのよ」
妖しく揺らめく炎を宿した瞳で、彼女は言った。
「例えば、蜂蜜を絹で漉せば、舌触りが滑らかになる。それこそ、泥水だって、絹漉しにすれば、多少はましになるでしょうよ。肉体は、情欲から愛を漉し取る絹のようなもの。少なくとも、私の体はそうよ」
彼女は、豊かな胸元に手を当てた。
美と愛と性の女神——アフロディーテ。彼女の素肌は、確かにきめ細かい。おそらく粘膜もなのだろう。
「愛しているわ。だから、あなたの体を知りたい。私に教えてちょうだいな」
アフロディーテは、我の頬に触れようとした。少しばかり
「綺麗な髪ね」
「そんな、そなたの髪のほうが余程……」
我は、一旦言葉を切り、唇を噛んだ。
「お願い、今日は戦場には出ないで。この髪を兜で隠さないで」
彼女の顔が近付いてくる。
「遊びのつもりか? そなたは、難攻不落の要塞を落としてみたい、ただそれだけではないのか?」
我は軍神。戦場においては、我が声は、雷霆のごとく響き渡る。しかし今は、無様に掠れていた。
「私なら、体越しにあなたの魂までも感じられるでしょう。遊びだとしても、尊いはずよ」
アフロディーテが紡ぐ言葉も、零す吐息も、火の点いた蜜蝋のごとく艶やかで熱い。
「美少年を好む殿方が、『子孫が結実せぬからこそ、少年愛は夫婦愛よりも純粋で尊い』などとのたまうわ。ならば、女同士だってそのはずではなくて? ああ、愛の女神が、こんなにも思いを募らせているのよ……アテナ」
アフロディーテは、ついに我の頬を両手で包み込んだ。かの女神は、あたかもしなやかな獣のようだった。
「私という極上の絹布であなたを覆い尽くして、その高潔な魂を吸いたいのよ!」
「我は処女神。純潔を守る。我が神性の本質は、守ることにこそあるのだ」
武装したこのアテナがそう厳かに宣言したなら、自明の理とばかりに納得して
しかし、神の中にも痴れ者はいる。
「床の大理石が冷たくて、気持ちいい……」
女は、裸体を仰向けにして、男の抱擁に身を委ねた。
そこは、あろうことか、このアテナを祀る神殿の一角だったのである。
「誘ったのは俺だ。気位の高い処女神に、世界の真理を見せつけてやろうとな。だが、この女も、まんざらではなかったようだぞ」
神殿を冒涜された我は、痴れ者たちの前に顕現した。磨き上げた
しかし、男は、ぬけぬけと言い放ったではないか。おのれ、好色な海神ポセイドンめ!
女のほうは、
「我が神殿を、人間たちの安宿のように使いおって!」
「なんと! 処女神
ポセイドンは、あざとく恭しく、胸板に手を当てて一礼した。
今はその背中に隠れてる女も、クスクスと笑い声を漏らした。
「この女が、床を共にするたび自慢するのだ、『私の髪は、アテナのそれより美しい』とな。故に、見比べに来てやったのだぞ」
ポセイドンは、当然のごとく我を愚弄する。全く、癇に障る男神だ。
好色なる海神よ、そなたがアフロディーテにも色目を使っていること、我は知っているのだぞ!
そして、男が男なら、女も女だ。弱小の地母神めは、「あら、アテナなどではなく、アフロディーテよりも美しいと言ったはずよ!」——と、悪びれもせずに放言した。そうか。有力な男神の陰に隠れてさえいれば安全だとでも思っているのか。
「ポセイドン、そしてメドューサとやら、もはや見比べる手間は必要なかろう」
メドューサは、断末魔のごとき悲鳴をあげた。我の下した神罰により、その髪は、一瞬にして無数の蛇と化して蠢いたからである。
ポセイドンは、存外と醒めた眼差しを、そんな女へと向けたのだった。
さてはポセイドンめ、既にメドューサには飽きていて、捨てる口実を探していたか。
神罰というものは、格上の神相手には、発動しないのだ。
弱小の地母神を罰することはできても、我が父ゼウスの兄たる海神を罰する力は、我にはない。
しかし、格上の神が相手であっても、戦って打ち破ることならば可能だ。今に見ていろ、ポセイドン!
ああ、夫の仕業だ。
日没後の寝室で、私は察した。蜘蛛の糸よりも細い鎖で編まれた網が、寝台の真上の天井に仕掛けられていたのである。
今夜は夫が留守にするというから、端正な容貌と強靭な肉体を誇る軍神アレスを、我が家に招いたというのに。
我が夫たるヘパイストスは、自他共に認める醜男だ。美への憧れがことのほか強く、母たるヘラに、美神アフロディーテとの結婚を願い出たのだ。ヘラは、最高神ゼウスの正妻だ。私は、格上の女神からもたらされた縁談に逆らうことはできなかった。ただそれだけのことだ。
ヘパイストスは、鍛治神であり、物作りならばお手の物だ。かつてアテナのために防具を誂えたこともあり、その出来映えは彼女をも満足させたという。
精緻でくだらない天井の仕掛けも、いかにも彼らしい。
私は、程なく訪れたアレスに微笑み掛け、寝台へと縺れ込んだ……
アレスの荒い呼吸は、やがて、野太い悲鳴へと変わった。天井の鎖の網が落ちてきて、彼の背中に命中したうえ、寝台を覆い尽くしたのだ。
私たちは、睦み合い絡み合ったままの姿で、寝台に磔にされてしまった。
そして、ヘパイストスが現場にやって来た。やはり留守などしておらず、こうなるまで息を潜めて盗み見ていたのだ。
彼は、不貞への復讐を果たしたとばかりに笑みを浮かべつつ、昏い眼をしていた。
アレスは、憮然としてだんまりを決め込んだ。
「あら、ご機嫌よう。ご一緒にいかが?」
私は、このうえなく優雅に夫に微笑み掛けた。
しかし、夫は、この美神の誘いには応じなかった。代わりに、一大事であると騒ぎ立て、オリュンポス山に集っていた神々を現場に呼び寄せたのである。
私は、間男と寝台ごと、大勢の前に晒された。
集まった神々の中で、最初に口を開いたのはポセイドンだった。
「……で、どうしたというのだ? この女が夫以外の男と通じるなど、珍しいことでもあるまいに」
すると、ヘパイストスは、
「なるほど、このうえなく美しい妻なのだからと我慢してきたが、もはや限界か。ならばいっそ、この者たちをどこかへ追放するか? スパルタという国を知っていよう。かの国の人間たちは、より多くの兵士を生み育てるため、男は多くの妻を持ち、女もまた多くの夫を持つという。美しく多情な女にはぴったりではないか。また、軍神を送り付けても歓迎されよう。まあ、アフロディーテだけをどこかに預けたいなら、俺が引き受けてやらんでもないが……」
すると、アテナが進み出た。
「ヘパイストスよ、この鎖の網は、実に見事な細工だな。流石はそなたの手による物だ。しかし、アフロディーテの髪が鎖に絡んでしまっているぞ。鎖を傷めぬためには、彼女の髪を切るしかあるまい。我が手を貸そうか?」
ヘパイストスは、しばし、赤くなったり青くなったりと忙しかったが、結局、自分の手で切った。髪を傷めぬように鎖を切ったのである。私自身を憎んだところで、私の美しさの虜囚であることに変わりはないのだ。
ねえ、アテナ……あなた、こうなることを読んでいたわね? 流石よ、上出来だわ!
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