愛を知るまでは 3

 世界史の授業が終わると、真っ先に千弦の席に向かうのが習慣になっていた。廊下側の後ろから2番目の自分の席から教室の後ろを回って、今日も、一番窓際の前から2番目の席に行く。

「千弦、今日も全然わかんない!」

 まず人の名前が覚えられないし、いろんなところでいろんな事件や戦いが起こっていて授業を聞いていてもちんぷんかんぷんになってしまう。瀬那も美羽音も得意ではないし、テスト前に詰め込もうとして赤点を取ったこともあるので、毎回千弦に泣きついて教えてもらっているのだ。例によって、5時間目が終わるとすぐに千弦のところへ飛んでいった。

 全く、とため息をつくも、千弦はすっとノートを見せてくれた。今回の舞台の国や重要なポイントまでの流れを丁寧にまとめてくれるおかげで、今日の授業は何が重要だったのかを見返すことができた。これで少しずつ勉強していけば、次のテストは赤点を回避できるだろう。本当に千弦様々である。

「ん?」

 シャーペンで書かれたノルマン人の「ノ」の部分の紙が毛羽立っている。よく見ると、今日のノートはあちこちに紙の繊維がこすれたような痕が残っていた。

 机に転がっているシャーペンを見ると、ノック部分のキャップの中の消しゴムが黒ずんでいた。おそらくシャーペンの消しゴムで消した痕だろう。

「千弦、消しゴムないの? 貸そうか?」

 聞いてみると、千弦からは断られた。

「ゲルマン人とノルマン人を書き間違えてしまったので使いましたが、今日はあと2時間なのでなんとかなるかと」

「でも、次の古文は小テストあるかもしれないし」

 古文の授業で時たま抜き打ちテストがある。テストの時に消しゴムがないのは痛手だろう。

「2時間目には使いましたから、探せば出てくるでしょう。今日はずっと教室で授業を受けていたのですし。床に落としてしまったのなら誰かが拾ってくれているかもしれません。名前も書いてありますし」

 言いながらも、千弦はペンポーチの中を漁り出す。消しゴムが転がってそのままなら、遠くまで転がってしまっているのかもしれない。私も、床に転がっていないかしゃがんでみた。周囲の人たちは床に自分の荷物を置いているので、あまり見通しがきかない。目に入る範囲には落ちていないようだ。

 椅子から下りて机の引き出しを探し出す千弦が、「今回も新調ですかね」とつぶやいていた。

 掃除の時に見つけられればいいのだけど、今日は瀬那と当番を代わってもらったのだ。見つからなければ話しておこう。そう考えていたところで、教室の真ん中でしゃべっていた女子たちが、あれ? と声を上げた。

「何この消しゴム!」

 田代さんの声で体勢を起こす。教室の真ん中では、1つの机がブレザー姿の女子たちに囲まれていた。

「どうしたの?」

「これ、『星野』って書いてあるけど!」

 緊縛した様子の女子たちをかき分けて、消しゴムを見せてもらう。机の真ん中に置かれた消しゴムを見て、「千弦!」と大声を出して輪の中に引っ張り込んだ。

「これ、まさか」

 千弦も消しゴムをゆっくりつまみ上げて、向きを変えながら確かめている。片側だけカマボコのように丸みを帯びた小さな消しゴムの平らな面には、マジックで「星野」と書かれていた。

「確かに、私のですね。私が、自分で名前を書いたものなので間違いない、かと……」

 千弦は、ゆっくり机に消しゴムを置いた。それだけで精一杯だったろう。この消しゴムを見て、動揺しない方がおかしい。

 見つかった千弦の消しゴムには、カッターナイフの刃が埋め込まれていた。

 私は、今更ながら教室の中を見回す。最後に、消しゴムを拾った田代さんたちをじっと見回した。

「何?」

 最後に目が合った田代さんに聞かれる。苛立ちをはらんだ声が、古文のノートを取りに行くのを忘れたことに注意した時の田代さんと重なる。

 あの時、千弦は、誰がノートを取りに行ったっていい、と言った。クラス全員で私に仕事を押しつけた、というような言い方もした。私にとっては励ましてくれる言葉だったけれど、クラスのみんなには、とりわけ田代さんには、自分たちにも非がある、という意味でとられてしまったのかもしれない。織田先生に怒られたと言っていたということは、田代さんにもノートを取りに行く機会はあったはずだ。それで千弦に腹を立てた田代さんは――。

「愛佳」

 その一言で、目が覚めた時のように、ぱっと目の前の教室の景色が広がった。

「一旦こちらを向いてください。武者震いまでして、あなたらしくありません。

 何かに囚われていませんか」

 息を飲んで千弦のほうを向く。千弦の丸眼鏡の奥の、吸い込まれそうな色の瞳と目が合う。

「千弦……」

「田代さんだと決めるにはまだ早いです」

 田代さんからええ、と嫌そうな声が聞こえるよりも早く、でも、と千弦にささやいた。諍いになったのは間違いじゃない。

「もしかして古文のノートの時のことを言っていますか? あんなことで私物にカッターの刃を食い込ませようなんてなりませんよ。

 それに」

「それに?」

 千弦は、机から1冊のノートを取り出した。薄いブルーの表紙に、「古典」と書かれている。

「あれはもう半年も前の話ではありませんか」

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