第2話 尋問。
「あんた浮気してるやろ?」
自分でも感心するほど冷たい声が出た。あれほど逡巡した頭は落ち着いていて、心臓も消えてしまったかのように鳴りを潜めた。私の中でその瞬間、時が止まったように感じた。
「ははは、してないですー」
奴は軽々しく嘘をついて、そのままもう一度毛布にくるまって寝ようとした。
ああ、こいつはこんな風に嘘をつくんだ。今まで私は何度この口調に、声に、笑顔に騙されてきたのだろう。皮肉なことに、そのときの奴の笑顔は、私がいつもなかなか悪くないと思っていたそのままで、こいつは本当に浮気なんてしないんだろうなぁなんて勝手に思っていたのだからどうしようもない。
「そっかー、そういう感じね」
日頃から冗談っぽく浮気を疑うような問答をお互いにしていたので、これもいつもの冗談だと思ったらしい。今日ばかりは冗談では終わらせない。こちらには明白な証拠があるのだから。
「あんた寝言すごかったよ、いろいろ訳わからんこと言ってた」
実際、奴は寝言をよく言う。スマホを勝手に見たのには私に落ち度があるし、そこで逆ギレされても困るので、奴がMの名前を寝言で言ってしまったということにしようとした。どう考えてもそこから浮気を追及するのは無理があると思うかもしれないが、奴はしっかりアホなので、なんとかなる自信があった。
「どうせおまえがかわいいとか言ってたんやろー?」
いつもなら私の追及はこの辺で終わるので、奴もまだ冗談を言う余裕があったらしい。死ぬほど気持ちの悪い冗談である。
「違うなー、聞いたことない女の名前言いよったよ」
「またまた、そんなこと言うわけないやん、どうせおまえのことやで」
「かなり自信あるんやね、しっかり名前聞いたけど」
いつもより強硬な姿勢の私に、奴は少し違和感を感じたようで、ここでやっと体を起こして話し始めた。
「なんなん、今日どうした?ほんとに何もないよ?」
「最近本気で疑ってたんよね、スマホは絶対隠すし、この前の飲みも様子おかしかったし」
なにせこっちはラインの会話もすべて押さえているし、この日に会っていたという確認も済んでいるので、今から私が言う疑わしい根拠はすべてその通りなのだ。それでもまだ奴は隠し通せるつもりのようで、なおも白々しく嘘をつくので、しびれを切らした私は次の攻撃に出た。
「わかった、じゃあ私が聞いた名前の女のインスタとかラインが登録されてないかだけ確かめさせて。今あんたが見せなくても、私は相手の名前知ってるんだから、時間ちょっとあればあんたのフォロワーからインスタのアカウント探せるんだからね?」
ここまで私が食い下がるのは初めてだ。奴は若干焦りながらスマホを握りしめ、親や仲の良い友達にも見せないのだから、当然私にも見てほしくないものであり、そもそも自分は浮気はしていないから見せる必要は無い、ということをくどくど言うので、私はもうこいつはだめだと思った。
「正直に言ってね、寝言で言ったって言う女の心当たりある?私は名前知ってるから、答え合わせしよう。」
奴は数分押し黙った後、かすかにうなずいて、でもすぐに怪しいことは何もないと言ってきた。私はひとまずそれを信じたふりをして、話を続ける。奴がどこまで私に嘘をつくのか確かめたかった。
「多分やけど、心当たりはある。でも全然そんなんじゃなくて、昨日の飲み会にいて、昨日初めて会ったんよ。会計とかで話すことが多かったから、それで夢とか寝言とかに出てきたのかもしれんけど、本当に何もない」
「ふーん、じゃあ同じ大学の子なんや」
「そう!昨日初めましてやったけん、インスタもラインも交換してない!」
「そうなんやね、じゃあ名前教えて?」
ここでもまた奴は押し黙った。そんな女の名前とか聞くの嫌じゃない?とか何もないんやし忘れよう!とか言ってなんとか誤魔化そうと必死である。
「頭文字Mやろ?で、三文字で、そのうち二文字同じ音やろ?」
「…うん、そう」
「わかってるって言ってるやん、言ってみ?」
知らず知らずのうちに、静かだった鼓動は再びうるさくなっていた。決定的な瞬間を前にして、いろんな感情が頭をよぎった。
「…○○○」
奴が言った名前は、やはりそれだった。そのとき、やっぱりか、こいつはつけるだけの嘘をついて、悪びれもせず私の隣にいようとするんだ。そう思ったら、悲しさより、悔しさの方が圧倒的に勝った。
「うん、私が聞いたのもその名前だったよ。昨日の飲み会で初めて会った、同じ大学の子で、SNSは繋がってないのね?」
「うん!」
「え、うちの大学に看護とかあったっけ」
奴の笑顔が急に消え去った。なんで知ってるの?とでもいいたげな顔だ。
「今から私がインスタ探すとでもと思ったか?お前が寝とる間にそんなもんとっくに特定済みじゃ。お前どんだけ嘘つくねん、いい加減にせえよ」
Mのインスタやラインの会話から、Mが看護科に通っていることや学校名、いつから連絡を取っているかなどまで把握済みだ。
「お前さ、私が何も知らんで、確証もなしに言ってると思うか?相手のインスタも知っとるしそのフォロワーの中にあんたがおるのもわかっとるねん、私も自分の大学のいろんな人と繋がっとるけど、共通のフォロワーがお前だけやってことはうちの大学やないやろ?」
ここまで知られているとは思わなかったのか、急に正座してごめんを繰り返すばかりで埒があかない。
「でもラインはほんとに繋がってないから!」
ここまで嘘をついていてどうして巻き返せると思うのか謎だが、どこかで歯止めをかけようと必死な様子なので、容赦なく切り込む。
「じゃあラインの友達検索かけてよ。誰と話してるかとか、トークの内容見られるのが嫌なら、せめてそれでラインは交換してないって証明して見せろ」
できるわけがない。交換どころか、あんな気色悪い会話までしているのだから見せられるわけがない。ごめん、もう勘弁して、嘘ついたのは謝るから、といよいよ土下座まで始めやがった。もちろん許さない。
「そういうのいいから、そんなんで誤魔化されねーから。いくら言っても譲らんし、お前が言ったとおりにするまでこの会話は終わらせない」
誤魔化しはきかないと観念した奴は、いそいそとスマホを取り出し、じゃあもう普通にトーク見せる、と言ってラインを開こうとした。やっと見せる気になったか、と思ったが、その瞬間非常に嫌な予感がした。こいつ、トーク消しそうやな、という声が頭の中で響いた。
すかさず隣に滑り込みスマホの画面を覗くと、ギリギリ何かのトーク画面がシュッと消えていくのが見えた。こいつやりやがったな、最後まで隠し通す気か。
「今何かのトーク消しただろ、私見たよ」
今度はグループのピン留めを解除しただけ、トークは何も消してない、ほら見ろMの名前なんてないだろ、と自分の潔白を主張してくる。無理すぎる、あまりにも無理すぎる。もう苦しいといい加減気づいてほしい。だんだん呆れや怒り、悔しさが高まっていく。
「じゃあ最初言ってたとおり友達で検索かけろよ、出てくるわけないんだからできるよな?」
奴はしばらく粘ったが、私も一歩も譲らない。あれほど普段はしゃんしゃん動く右手の親指がピクリとも動かない。押し問答の末、奴がおれて、Mの名前を検索すると、当たり前だが普通に残っていた。トークはやはり消されていて、ラインは交換していないと嘘をついたことに加え、直前になってトークを削除してばれないように工作したこともばれてしまったのだ。奴にもう人権はない。
「トーク復元して」
「え、バックアップとかないからできないよ」
「関係ないだろ、お前の機種なら一回アンストしてログインし直したら見れるんだよ知らんふりすんな」
繰り返すが、奴に人権は最早ない。よって拒否権もない。
しかし反抗を繰り返し、できない、しか言わない奴に、とうとう私のはらわたは煮えくり返り、堪忍袋の緒がブチンと切れた。気づけば私は力一杯の平手を奴の頬にお見舞いしていたのである。途端に、色々な感情が濁流の如く溢れてきて、一気に頭が沸騰するような興奮に達した。
「お前いい加減にせえよ!!ここまで嘘ついとって隠し通そうなんざどんな了見しとんねん!!どこまで私を馬鹿にすれば気が済むんじゃ!!なんとか言うてみいこら!!」
おそらく隣の部屋まで轟いたのではないかというほどの怒号が私の体から跳ねて飛び出した。瞬間的に叫んだせいで、頭がチカチカして、気が遠のくのを感じる。ここ数年で初めてこんなに激怒した。悔しさで、気持ちがいっぱいいっぱいになって、泣きながら怒鳴った。
「これは悲しくて泣いとるわけやないからな!お前がどこまでも私を馬鹿にするから、情けなくて泣いてるんや、こんな奴と自分は付き合っとったんかと思うと情けのうてしゃーないわ!!」
奴の肩をつかんでぶんぶん揺さぶった、このまま殴り倒してやろうかと思った。ごめん、ほんとごめん、と繰り返して土下座しながら私にしがみつく奴を、この世で一番憎らしく感じた。
結局数十分粘ってトークを復元させた後は、何度も見たMとのトークを初めて見るようなリアクションで見て、この日は先輩と飲みに行くって言ってたよな、とか確認しながらの作業に入った。
「で、結局お前はどうしたいん、別れたいんか?私が嫌やからこんなことしたんやろ」
「ごめん、ほんとに嫌とか嫌いとかじゃなくて、俺が調子乗ってただけ」
「ふーん、じゃあこのMはどうするん」
「もう会いません」
「当たり前じゃ!!どう処理するんかを聞いとんねん!!アホか貴様」
「ブロックします」
「その前に私に貸せ!一言言わんと気済まんわ」
トーク内容を見るに、食事や飲みに誘っているのはいつも奴の方だし、言い寄られても結局本人の意思次第なのだから、どう転んでも悪いのは奴である。しかし、Mも奴に私という彼女がいるのは知っていて誘いに応えているのだから何か言われても仕方あるまい。
『はじめまして。○○○の彼女です。突然のご連絡で失礼します。』
こんな感じの挨拶から始まって、仲良くなった経緯や、実際二人で会って遊んだり、気色の悪い会話をしていたことなどを知ったこと、またそれに私が大いに傷つき、ショックを受けたこと。あなたも多少なりともそれに加担したのだという自覚を持ってこれからの生活を送っていただきたいです、お世話になりました、と締めくくり、既読がつくのを待たずにブロックして削除した。
「ごめん、ほんとごめん。俺が調子に乗ってた、別れたくないです」
「今は何言われても信じられんし、別れるか別れんかはこれから考える。とりあえず今日はもう帰って。」
その後も1時間ほど私の家に居座って、謝罪やら別れたくないやらこれからのことなんかをのたまっていたが、私の耳には何も入ってこなかった。一睡もしていない上にこんな衝撃的なことがあって、激怒して、それに反応して考える余裕などはもう残っていなかった。奴が帰ったあとの私に残ったのは、虚無感と、疲労感、そして奴の滑稽さがもたらした実感の伴わない笑いだけだった。
机の上にある1年記念で買ったペアリングがふと視界に入る。埋め込まれた小さなスワロフスキーが、無機質に光を反射していた。
くだらないなぁ、こんなもの。
思い出、信頼、愛情。大切だったものが全て崩れさるのは、あっという間だった。
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