第43話 プレイス・オブ・ビロンギング①
(1)
それから三十分ほどのち、「そろそろ帰るからー」と慈雨は腰を上げた。
慈雨を見送るため狭い廊下に、晶羽、珠璃、日向音が縦列に並ぶ。しかし、すぐに帰るかと思いきや、ブーツのジッパーを中途半端な位置で止めると慈雨は珠璃を振り返った。
「ねえ、言うの忘れてたけどさーあ、通信制高校の件どうすんの?」
「今それ言うのかよっっ」
慈雨から徐に顔を背け、のけ反りながら珠璃はしかめ面で低く唸る。
先程のキラへの言及もだったが、この人は悪気なく地雷を踏み抜きにくる。晶羽は、珠璃と慈雨の顔色を交互に窺った。
「あーー……、あたしなりに考えてみたけど……」
珠璃は、慈雨から完全に目を逸らしながら続ける。
「前向きに検討中……、ってヤツ」
「「えっ」」
「なんだよ。日向音と晶羽ちゃん揃って同時に。仲良しか」
珠璃の背けた顔の角度が益々深くなっていく。
「ふーん。どこの通信制にするかは決めた?」
「そこまではまだ」
「わかった。どこにするかはもうちょっと考えてもいいけど、出願募集の時期はちゃんと見ときなよ?大抵は一月が多いけど、中には十一月とか早いとこもあるし。とにかく、決めたらちゃんと雅くんに伝えなよ?」
「
顔を背けたまま、珠璃は追い払うかのように慈雨へ手を振った。
「じゃあね、若者たちー、またねー。ばいばーい」
慈雨は晶羽たちへ向けて手を振り、静かに玄関を出て行く。
扉が閉まったのを見計らい、晶羽と日向音は無言で珠璃をじっと見下ろした。珠璃は顔を背けたままでいたが、二人分の視線の圧に耐えられなくなってきたのか、更に眉間の皺を深くしつつ口を開いた。
「……あたしってさー、けっこう頭も良いし要領も良いじゃん?実は面倒見もめっちゃ良いし、人間的に優しい方だと思わね?」
口を開いたかと思うと、いきなりの自己全肯定発言。
冗談か本気かも分からない。どうしたものかと迷い、とりあえず晶羽は「う、うん、私もそう思うよっ」と真面目に答えてみせる。きっとこの後すぐに「いや、マジで答えなくてもいいって」と呆れるのだと予想して。
「いや、おま、自分で言うか?」
「間違っちゃいないよな?」
珠璃が晶羽に呆れるのではなく、日向音が珠璃に呆れて指摘するもどこ吹く風。むしろ、この態度から割と本気で言ってるのだと感じられる。
「でもよー、あたしがいくら頭も良くて優しかったとしても、だ。高校中退者ってだけで、世間的に佐藤たちより下に見なされるのかと思うとさ、すっげームカついてきた」
「佐藤?」
「中ちゃんイジメたり、中ちゃんに命令してあたしのチャンネル荒らして個人情報ネットに流したバカ女グループ。あたしが高校退学する原因作ったヤツら」
ここで珠璃はようやく背けていた顔を戻し、晶羽たちを見上げる。
「なんつーか、今まではさ、バイトもできてるし、社会的にどうとか全然気にしてなかったんだわ。そんなの自分次第だってな。けど……、やっぱり自分より頭も人間的にもバカな連中に負けたくねー。勉強嫌いだけど、今からでも
そう言うと、珠璃は再び晶羽と日向音から顔を逸らした。
「ほら、あいつらのいやがらせでさあ、あたしのチャンネル荒らされたり、デマ混じりの個人情報流されたし?晶羽ちゃんとの動画も流出したり?ネットトラブルに巻き込まれやすかっただろ?晶羽ちゃんも情報流出に敏感だろうし?だからさ、情報系の勉強していろいろ防止策考えられたらいいかもなー、そのためにも勉強したい、と……」
思って……、と、最後の方は珠璃にしては珍しく、ごにょごにょ、言葉が尻すぼみになっていく。
「日向音、オトンにはまだぜってー言うなよ……?あたしがきちんと全部決めてから話したいし」
「そーいうことは俺の出る幕じゃないから言わないって」
散々語って恥ずかしくなってきたらしく、珠璃は、ふーん、と唇を尖らせた。
「すごいねぇ、珠璃ちゃん。すごい」
「あん?」
「ちゃんと先のこと考えてて」
珠璃と比べて自分はどうだろう。
人の目に怯えることなく生活したい。
長く続けられる仕事をしたい。
そして、叶うことならどんな場でもいい。
もう一度、ステージの上、生の楽器演奏で思いっきり歌を歌いたかった。
地元に戻って約三年の間、ずっと望んできた。歌に関しては半年前までは心の奥底に閉じ込めてきた。
けれど、その三つの願いは現在叶った。
そろそろ、もう一歩先を見据えた方がいいのかもしれない。
(2)
聞き覚えのある、古い洋楽ポップスが晶羽の聴覚を優しく揺さぶってくる。
たしか、六十年代後半にアイドル的人気を誇った女性歌手の曲だった気がする。名前が思い出せない。
天使のような歌声と清らかな美貌を持つ歌手で女優としても活躍していた。彼女が演じた映画の役柄が、某国民的怪盗アニメのファム・ファタルなヒロインのモデルになったとか。
彼女は度重なる薬物や煙草、アルコール問題、スキャンダルによって一時は引退状態に追い込まれたものの、数年を経て再び表舞台に返り咲いた。数多の辛酸を舐めたゆえに天使の歌声は失われたものの、代わりに得た哀愁帯びたハスキーな歌声を持ってして。
「ひょっとして疲れてる?」
隣の運転席から日向音が遠慮がちに問うてくる。
そうだった。慈雨が帰って程なく、晶羽も帰宅し──、いつかの時みたいに日向音がアパートまで車で送ってくれることになったのだっけ。
「あーーーーっ?!」
「えっ!なになにどした?!」
「ごめんっ、日向音くん!私、車に乗る時にちゃんと『お願いします』とか『ありがとう』とか言った?!」
「なにそれ。どういうこと」
「私、慈雨さん帰ったあとからなんかボーッとしてて……、気づいたら車に乗ってたから」
「はっ?!?!マジ?!」
今度は日向音が素っ頓狂に叫ぶ。
「待って待って晶羽ちゃん?それ、マジでアブナイやつだよ?相手次第じゃ送り狼されちゃうやつだからね?!今回は俺だからいいけどね?!」
「えっと……、うん、日向音くんだから良かった……けど、自分でもちょっとヤバいかもって思った」
「ちょっとどころじゃないよ?!この子マジで怖いんだけど?!ジョーダン抜きでホント気をつけてね?!」
日向音の言う通り、たぶん、少し、疲れている。
というより、珠璃の心境の変化に少なからず焦りを覚え、考え込んでしまっていた。
車内に流れる歌声は、曲が進むごとに澄んだ美声からブルージーな渋い声へ徐々に変化していく。
同一人物と思えぬ声質の変わりようだが、それぞれの時期なりの良さがある。
「にしてもさ、珠璃にはびっくりだよな」
「……そだね」
「あいつなりにいろいろ考えてたみたい」
「珠璃ちゃんはすごいなぁ。私はまだ自分の今の生活だけで精一杯。将来のこととか、まだ全然考えられない」
いつもなら適当に相槌を打つに留めるのだが、疲れも手伝ってつい本音を吐露してしまった。
直後、少し後悔した。『そんなことないよ』などの慰めを求めているみたいで、みっともない気がした。
「俺も晶羽ちゃんのこと言えない。ってか、もっとひどいかも」
渋滞にはまり、車が思うように進まなくなってきた。
真っ赤なテールランプがあちこちで煌々と輝き、晶羽は思わず何度もまたたきを繰り返す。
「バンド抜けたんだ。プロ目指すの、俺には向かない」
「そっか」
「大学も今年中に退学したい」
「えっ、なんで?!」
ぐるん、と、身体ごと大きく日向音へ向き直る。勢い余った分、シートベルトの身体への食い込みが深くなった。前方を見据えたまま、頬をぽりぽり掻く日向音の横顔を凝視していたが、ふいに数か月前の車内でのやりとり──、晶羽にだけ打ち明けてくれたことを思い出す。
『俺、イラスト描くための必要な技術本格的に学びたくて。大学辞めて美術系の専門学校行きたいんだよね。珠璃と晶羽ちゃんのYou tubeチャンネル用のイラスト描いたり、HAZAMAとかasokonaraで依頼絵描いたりしてる内に、もっと上手くなりたいって思うようになって。ネットとか本とかで調べながらでも技術は学べるけど……、俺はさ、できれば食っていけるくらいになりたいんだよね……、なんて、我ながら無謀すぎるから踏み切れないけど』
「もしかして、専門学校行くため?」
「そ。現在絶賛親と交渉中」
「感触はどう……?」
「反対まではされてないけど、いい顔もされてない。費用は自分でバイトなり何なりで稼げ、と。言われなくてもそのつもりだけどねー」
なんだ。晶羽より酷いどころか、目的持って行動出来てる時点で全然違う。
「珠璃ちゃんも日向音くんもすごいなぁ」
「よそはよそ!晶羽ちゃんは晶羽ちゃん!」
「うーん、まあ、そうなんだけど、ね……」
「晶羽ちゃんは望んでた生活やっと送れるようになったんじゃん?生活維持だって立派な目標だし、大きな目標ってさ、生活が維持されて初めて持てるもんなんじゃない?」
「そうかな……、そうかも」
亀の歩みで進んでいた車が、渋滞が緩和した途端に順調に走行し始める。
生活が維持されているとはいえ、珠璃も日向音もこれからの先行きは決して平坦ではない。
晶羽だって母とは和解できていないし、またキラの正体を晒される危険性だって決して消えていない。
皆、不安と隣り合わせで生きている。
それでも、珠璃と日向音は不安を見せたりしない。晶羽自身も以前と比べ物にならないくらい、不安に対して強くなっている。
その理由は明白だった。
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