第39話 ちいさな勇気

 歌声を放つ寸前、晶羽はマイクに違和感を覚えた。

 聞こえるか聞こえないかの音量で、さりげなくマイクに息を吹きかければ、ボツ、ボツ……、ボン、音がブツ切れたのち、無音になる。


 突然のマイクの故障。

 速やかに演奏中断し、スタッフを呼ぶべき事態。

 時間は押してしまうが、こればかりはどうしようもない。


 頭では最善の判断を理解している。バンド時代も含め、今までずっと当然のようにそうしてきた。それでも、この手のトラブルには少なからず動揺してしまう。

 おまけに今回はただのライブじゃない。プロデビューの登竜門となるコンテストライブ。

 晶羽と珠璃は端からプロなど目指していないのに、たまたま予選通過してしまっただけとはいえ、ステージは全力を出し尽くしたい。


 さりげなくフロアの様子を窺ってみる。


 晶羽の異変を察した珠璃が前奏を繰り返し、晶羽も音にノッた動きを見せているので、そういう演出だと全体的に思ってくれていそうだ。

 しかし、最前列右端に変わらず立つ日向音はさすがに怪訝そうな顔をしていた。(横目で見た左端、知らない男女混合グループの観客も演出と思っていそう。あの中のひとりがペットボトルを拾ってくれたのを覚えている)

 ついでのように、最前列中央は……、ここで晶羽は我が目を疑った。


 ステージとフロア最前を仕切る柵の前、中村みさ希が立っていた。

 怯えた上目遣い、猫背の小さな身体を縮こませ、でも、確かに胸の前で手を叩いていた。

 手拍子と呼ぶにはあまりに控えめだし、リズムも半拍ずれている。


 彼女の性格を考えたら、ステージからもフロアからも姿が目立つ最前列へ出るなんてありえない。

 なのに、それなのに──



 晶羽の歌が中村みさ希にちいさくささやかな勇気を与えた。

 だが、晶羽もそんな彼女から勇気を与えられた。



 晶羽は、手にしたマイクを流れるような動きでマイクスタンドへと戻す。

 観客も、珠璃でさえ目を見張り、演奏を止めようとした。晶羽は『このままでいいよ。続けて』と目で訴える。


 マイクスタンドの前に立ち、晶羽は曲のリズムに合わせて手拍子を打つ。音の出ないマイクを口元へ近づける。



 スーツケースをぶら下げて 裸足で歩く灰かぶり


 ヘッドフォンから流れる曲が 前へ進めと 勇気をくれる



 形だけのマイクを通し、アカペラで歌い出した晶羽に会場中が唖然となった。

 瞬時に、奥の音響・照明ブースで担当スタッフたちが慌ただしく動き、舞台袖から別のスタッフが駆けてくる──、のを、珠璃がギターを弾きながら、『このままでいい!』と大きく頭を振って制止する。同様に晶羽も、音響ブースへ向かって『このままいきます!』と手振りで合図を送る。


 重大な演奏事故であるマイクの故障は、本来なら有無を言わさず中断させられる。

 観客は貴重な時間を割き、入場チケットを払っている。音響はライブハウス側の問題であり、それが理由で不満を抱かせる訳にいかない。


 しかし、今回、ライブハウス側で二人の制止を無視し、演奏を一時中断するまでには至らなかった。




 正しいとか 間違ってるとか


 そんなことは どうだっていいよ




 アンプを通して大きく響く、珠璃の軽快なギターに負けない──、否、それ以上の晶羽の歌声が、会場中に響き渡っていく。




 あなたが信じてるものはなあに


 浮かれ騒いで 忘れたのね


 あなたが信じてるものはなあに


 大好きな彼は 二度と帰らない


 あなたが信じてるものはなあに


 私が 信じるものはね…… 秘密!





 フロア中が──、観客、コンテスト出場者、ライブハウスやコンテストを主催する楽器店のスタッフ、果ては審査員に至るまで、誰もがこの状況に度肝を抜かれていた。珠璃でさえ、驚きを隠せない様子でギターを弾いている。

 驚愕の空気を生み出した晶羽は唯一人ただひとり、心から嬉しそうに、楽しそうに、歌い続けた。




 広すぎる夜空を見上げて 星を数える灰かぶり


 ヘッドフォンから流れる曲が もう大丈夫と 背中を撫でる




 ステージの真下、いつしか手拍子を忘れて晶羽の歌唱に聴き入る中村みさ希へ、意識的に微笑む。会場の熱気に当てられ、少し曇ったレンズ越しに目と目が合う。視線を逸らされる前に、語りかけるように歌いかける。



 正しいとか 間違ってるとか


 そんなことは どうだっていいよ




 中村みさ希の双眸がかすかに見開かれる。

 真っ白なシャツワンピースを翻し、晶羽は軽やかに声を張り上げた。




 あなたが信じてるものはなあに


 浮かれ騒いで 忘れたのね


 あなたが信じてるものはなあに


 大事な彼女とも 分かり合えない


 あなたが信じてるものはなあに


 私が信じるものはね……




 周りから見捨てられることは怖い。自ら見捨てることも同じくらい怖い。

 だけど、どちらもおそれて自分を見失ってしまうのは──、一番怖いと思う。


 捨てるか捨てられるか。そんなことばかり考えて生きていて楽しい?

 本当に大切にしなきゃいけない、やらなきゃいけないことまで見失ってない?



 あなたが信じてるものはなあに


 浮かれ騒いで 忘れたのね


 あなたが信じてるものはなあに


 大好きな彼は 二度と帰らない


 あなたが信じてるものはなあに


 大事な彼女とも 分かり合えない


 あなたが信じてるものはなあに




「私が信じるものはねーえ……」



 言葉を切り、ぴたり、人差し指を立て、唇に押し当てる。珠璃のギターも止まり、会場全体に沈黙が降りた。

 しぃ……んと、粛然とした空気の中、独特の緊張感が肌をぴりぴりと突き刺す。晶羽は人差し指を唇に当てたまま、視線だけを動かし、フロアを一巡していった。晶羽の口がいつ開かれるのか、今か今かと待つ人々が徐々にれていく。

 フロアの空気が期待より焦れが上回る──、上回りかけた時、晶羽の口がやっと開かれる。



「ひみつー……」



 最後のワンフレーズに軽めのビブラートをかける。

 息が完全に切れるまで、これ以上は無理だと思えるまで声を伸ばし続ける。

 晶羽の声が止まると、ジャン!ジャン!ジャンジャン……!!と珠璃がアウトロのコードを何度か無造作に掻き鳴らす。


「ありがとうございましたー!!!!」


 晶羽の叫びに負けない拍手と歓声の嵐がフロアを満たしていった。

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