第32話 一難去ってまた一難

(1)


 肉じゃがの甘辛い匂いがかすかに残る部屋で、水槽のエアーポンプの音だけが響く。

 母が来た痕跡を消すかのように、晶羽は換気扇のスイッチを押す。回転する羽根を眺め、決意を固める。


 明日柳緑庵に出勤したら、契約社員になりたいって店長に伝えよう。

 他の副業も探さなきゃ。


 当面の間は貯金切り崩せば生活できる。が、そんな生活は決して長くは続かない。

 啖呵切った以上、もう実家には絶対頼らない。当然、兄の瑛誠にだって頼らない。

 でも、考えようによっては完全自立するいい機会だったかもしれない。


 なるべく良い方向へ、良い方向へ考えないと不安で押し潰されそう。


 などと考えている内に、肉じゃがの匂いはほとんど薄れていた。

 切ってもいいかな、と、換気扇のスイッチに再び手を伸ばす。その時、羽根の回転音に紛れて携帯端末が震える音が聞こえてきた。伸ばした手を慌てて引っ込め、壁際へ適当に放っていた黒いミニリュックを漁る。手にした端末はまだ震えている。珠璃からのRINE電話だ。


「……もしもし?」

『おー、晶羽ちゃん。おつー。遅くにごめんなっ』

「まだ八時だし、全然遅くないよ?どうしたの?」

『うん、ちょっとな─……』

「もしかして外?バイトは終わったんだよね?」

『お、おぉ、バイトは終わったんだけど、さぁ……』


 珠璃にしては珍しく歯切れが悪い。


「珠璃ちゃん。何かあった?」


 電話越しに短い沈黙が降りる。

 さっきまで感じていた今後の生活に対する不安は、一気に珠璃への心配へと変化していく。


『あのな……、ちょっ、おいバッ……!』

「?!」

『晶羽ちゃんごめんなー。こいつちっともなんも言おうとしなくて』

「日向音くん?!」

『おまっ、あたしの端末!つか、運転ちゅう……』

『すぐそこのコンビニに停めるし。晶羽ちゃんもわりーんだけど、一旦切るね。一分後にまたかけ直すから』

「いい、けど……?」


 晶羽の曖昧な返事と同時に通話が切れる。

 頭の中じゅう疑問符いっぱい浮かべ、端末画面を見つめる間に一分経ち、再びRINE電話の着信。今度は珠璃ではなく、日向音からだった。


『何度もごめんなー』

「うん、だいじょうぶ、だけど?それより、二人ともどうしたの?」

『あのさぁ、実は……』


 日向音が語った内容を要約すると。

 先日、コンテスト予選動画をYou tubeに無断投稿した犯人が今日見つかった……というより、自ら名乗り上げてきた。犯人は珠璃の学校時代の友達だという。


『でさ、珠璃の友達……だった子が塾サボってまであいつに謝りたいって突然言ってきて。その子にもいろいろ事情があったみたいで……、今は詳しくは話せないけど、とにかく半強制的にライブ動画を投稿する羽目になったんだってさ。あ、言っておくけど、俺、別にその子の肩持ってる訳じゃないからね?』

「う、うん……」

『理由はどうあれ、まあ、珠璃はキレるよな?塾終わる時間まで家に帰れないとか言うし、益々ブチキレちゃってんだよ』

「えええ……、じゃあ、その子どうするの?」

『そこでだ。珠璃だけじゃなくて、晶羽ちゃんに迷惑かけたってことで今から謝りに行かせようかと』

「えっ、えぇっ?!待って待って!!今から?!もしかして、私の部屋に来るってこと?!」

『夜遅いしさー、あたしらが一緒とはいえ、知らないヤツ部屋に入れたくないってなら断ってくれてもいいよ!あたしがちょっと思いついただけだし!』


 端末越しから聞こえる声が日向音から珠璃へ変わる。


『中ちゃん……、動画無断投稿したヤツも直接晶羽ちゃんに謝りたいっつってて。言っとくけど、あたしらは特に強要してないから』

「私は謝るとかは……」


 別にいいのに、と言いかけて、少し考え直す。

 母と揉めてしまったのも投稿された動画が発端である。

 今後も別の問題が発生するかもしれない。


 謝罪は正直どちらでもいい。やってしまったことは今更取り消せない。

 それよりも、晶羽の口から直接動画を消して欲しいと伝えたい。


「珠璃ちゃん。ええと……、昔の友達って子、うちに連れてきてもいいよ」

『マジで?本当に?』

「うん、マジでマジで!どのくらいでうち来れそう?」

『ああっと……、五分くらいで着くんじゃね?』

「……もしかして、うちのすぐそばにいる?」

『おん?おお、今、晶羽ちゃんのアパートの側のコンビニの駐車場。車置いて今から歩いてく』

「……わかった、気をつけてね」


 通話を終わらせると、どっと疲れが肩にのしかかってきた。

 次から次へと忙しい夜だ。







(2)


 珠璃が言った通り、本当に五分ほど経った頃にインターホンが鳴った。

 返事をしながら、小走りで玄関へ向かい、扉を開けると珠璃が立っていた。


「夜分にお邪魔して悪いねわりーね

「ううん、気にしないで。そんなに片付いてないけど……」


 と、言いかけて、いつもより部屋がきれいなことに初めて気がつく。

 晶羽の帰りを待つ間、母が掃除したに違いない。ほんの少しだけ罪悪感が胸に去来するも、掻き消すように「遠慮しないで入って入って!」と珠璃を手招く。


「そんじゃおジャマしまーす」

「どうぞー」

「おら、中ちゃんも入れって」


 珠璃の背後に隠れていたらしい、黒ゴムで髪を一本にまとめた制服姿の小柄な少女が、おどおどと顔を覗かせた。


 この子が、例の。

 背中を丸め、怯えた上目遣いでしきりに目を泳がせる気弱な姿が意外過ぎる。


「あ、あの、はじめまして……、中村みさ希って言います……」

「……はじめまして、纐纈晶羽です。どうぞ」


 気まずくもぎこちない挨拶をたどたどしく交わし、中へ入るよう促す。

 中村みさ希は更に激しく目線を忙しなく泳がし、玄関前で仁王立ちしたまま動こうとしない。

 ハイカットスニーカーを脱ぐのに腰をかがめていた珠璃が舌打ちする。


「中村さん。とりあえず入ったら?埒が明かないよ?」


 開け放された扉の陰、中村みさ希の頭より一回り以上高い位置から日向音が顔を覗かせる。


「一人暮らし女子の部屋の扉、いつまでも開けっ放しは良くないでしょ?ここ一階だし、部屋ん中が丸見えに」

「あ……!ご、ごめんなさいっ!」

「え?!そんなに丸見え?!」


 中村みさ希が飛び込むように中へ入ったのと同時に、晶羽も焦った声で叫ぶ。


「んー、心配する程でもないとは思う」

「そ、そっか……」


 ホッとする晶羽に苦笑し、自分は外に立ったまま扉を閉めようとする日向音に、「あれ?入らないの?」と問う。


「俺?俺はやめとく。コンビニの駐車場に戻るよ。話が終わったら珠璃に電話してもらって二人を迎えにもっかいもう一回来る」

「なんで?日向音くん居ても気にしないよ?」

「いや、なんでって……」


 日向音が珍しく口籠る。

 あれ、そんなに変なこと言ったつもりないのに。


「……他の女子が一緒でもさぁ、気軽に男を部屋に上げない方がいいんじゃない?」

「うーん、そう?」

「そうだってば」

「うーん、でも、日向音くんが居てくれた方が私たちとあの子の間でちゃんと話できそうな気がするけどなぁ」

「…………」

「ほら見ろ日向音!晶羽ちゃんもあたしとおんなじこと言ってるじゃねーか。冷静な第三者が必要だって」


 スニーカーを脱いだ珠璃が晶羽の肩にもたれかかりながら、煽りをかけてくる。

 日向音は珍しく眉を寄せて考えていたが、やがて、「……ん、わかった。晶羽ちゃん、お邪魔します」と遠慮がちに中へと入っていった。

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