第31話 賢い生き方

(1)


 ぐつぐつ、肉じゃがを煮込む音だけがワンルームにやたら大きく響く。息が詰まる程静まり返ったせいだ。


『はい』『わかりました』の言葉以外は絶対認めない。

 口に出さずとも、晶羽を見つめる母の厳しい面持ちがそう語りかけてくる。

 母が望む言葉を言いさえすれば、すべて丸く収まっていく。珠璃や日向音だって理由を説明すれば、きっとわかってくれる。堂々と、キラを、過去を吹っ切るみたいな宣言した分、とてもとてもカッコ悪いけれど。


 晶羽はプロなど目指していない。珠璃もきっと目指していない。

 二人で好きなように楽しく、マイペースに活動したいだけ。


 でも。だけど。

 広々とした大きなステージで好きなように歌い、演奏する。

 そんな機会は二度と巡ってこないかもしれない。


 地区ファイナル予選で指定されたステージは、バンド時代に一度だけ立ったことがある。

 そのステージにキラではなくジェーン・ドゥ、もとい、纐纈晶羽として立つことで、過去を振り払うことができるかもしれない──、のに。


「また黙った。そんなにお母さんが心配するの、鬱陶しい?!」


『はい』とも『いいえ』とも答えず、沈黙した晶羽に母はあからさまに苛立った。

 それでもだんまりを続ける晶羽に、「いい加減にして」と怒気を滲ませて母は立ち上がる。怒りに任せて帰るかと思ったが、ガスコンロを止めに行っただけですぐに晶羽の側へ戻ってきた。


「……お母さん、私ね」


 やっと心を決めてくれたか、と、振り向いた母へと告げる。


「コンテストは辞退しないから」


 すかさず叱責の言葉が飛ぶか。

 身構えたものの、意外にも母は何も怒りも、叱りもしなかった。が。


「わかった。もうあんたへの仕送りや支払いは一切止めるから。野菜も二度と送らない。これからは何もかも全部、自分ひとりでやっていけばいい。あとでお金がない、生活できなくなったからって家には帰ってこないでね」


 母は晶羽の目も見ず、言葉の端々に強い怒りと落胆を交えて再び立ち上がった。音もなく静かに。

 そのまま帰るのかと思いきや、ガスコンロ下、収納扉に立てかけた紙袋から大きなタッパーを取り出す。


これ肉じゃがも持って帰るから。お母さんの心配も親切も、あんたにとっては迷惑なだけでしょ!」

「ちょっと……、なんでそういう極端な話になるかなあ?!」


 晶羽が声を荒げると、母は肉じゃがをタッパーへ移す手を止めて憎々しげに睨む。


「たまたま今回は自分の考えを正直に話したけど、迷惑だなんて一言も言ってないよね!」

「言わなくたって、表情や言葉の端々に出るもんなの!『心配なんてうっとうしい、迷惑だからほうっておいて』って!お兄ちゃんと違って、あんたは昔から物凄く鈍くさくて頼りなくて、一人じゃ何にもできない子だしって、甘やかしたのが良くなかったよ。小学校の時に疑われた発達の問題も、もしかしたら本当にそうだったかもしれないし。でも、自分の努力次第で変えられる程度だとは思うけどね!あの頃も今もあんたの鈍くささは全く変わらないのは、あんたの努力が足りないせいじゃない?」

「さっきまでの話と全然違うし、関係な」

「関係あるわよ!そんなあんたがお父さんとお母さんの援助なく一人で生きていける訳ないって言いたいの!援助を受け続けるか、たかが一回きりのコンテスト諦めるか、どっちが賢い選択なのか考えなくたって分かるでしょ?!」


 冷静に、現実的に考えたら母の意見は正しい。正しいけれど。


「諦める方が賢い、と思う」


 やっとわかってくれたかと、母の表情が微妙に緩む。


「賢いと思うけど、私はずっと負い目感じて生きなきゃいけない。もう嫌なんだ、周りの目にビクビク怯えて生きていくのが」


 緩んだかに見えた母の顔が元の厳しい顔に戻る。

 しかし、表情以上に厳しい叱責はなく。中断していた鍋の肉じゃがをタッパーに詰め込む作業を、無言で再開した。激しい口論交わしていたのが一転、冷え切った沈黙が二人の間を流れていく。


「鍋とおたまは洗っておいて」


 肉じゃがを詰め終えたタッパーを紙袋へ戻し、手に提げると。

 母は晶羽を一切振り返りもせず、憤然と玄関を開け、出て行った。








(2)


「おい日向音。なんか明るい曲に変えてくれ。辛気くさくてたまんねぇんだよ」


 中村みさ希がすすり泣く声を聞きながら、珠璃の苛立ちと怒りは最高潮に達していた。

 お前……、と、言いかけて、日向音は一旦口を噤んだが、「そこのCD収納ケース、適当に漁って」と、視線は前方を向けたまま、珠璃の足元を指差す。


「ところでさ、中村さん。珠璃に伝えたかったことは全部言えたかな?」

「え……、は、はい……」


 すん、すん、と鼻を啜り、涙混じりに答えた中村みさ希に日向音は更にこう続けた。


「じゃあ……、もう七時半過ぎたし家まで送ってくよ」

「まだダメ!まだ帰れない!!」

「はあ?!」


 CD収納ケースを物色していた珠璃はすかさず後部座席を睨む。


「中ちゃんさぁ、いい加減に……」

「ご、ごめんなさい……。お母さんには塾の補習行くって言っちゃってて……、一〇時までは帰れなくて」

「マジでいい加減にしろよ!!!!」


 あーあ、とうとうブチキレた……、と肩を竦める日向音は完全に無視、遂に珠璃は中村みさ希に怒りを大爆発させた。


「あたしのチャンネルへの誹謗中傷も個人情報の晒しも!何なら今回の動画投稿も!百歩譲ってこの際許してやるよ!!全部佐藤らのせいだっつーならしょうがねぇし!!」

「えっ」

「えっ、じゃねーよ!ついでにS女退学したのだって、別に中ちゃんのせいでもねーし!あたし自身がなんもかんもイヤんなったってだけ!自惚れてんじゃねーよ!つーか、あたしがムカついてんのはなあ!オメーの自己満足のためにあたしや日向音巻き込んで振り回してることだよ!!そっちのが迷惑だっつーの!!」

「ちょっと珠璃、言いすぎ……」

「言い過ぎてなんかいねぇ!制服着た中ちゃんと一〇時まで一緒にいて、万が一にでも警察に見つかってみろ!日向音の身がヤベーだろうか!未成年連れ回しで下手すりゃ警察に連行されるんだからな?!中ちゃんがお母さんに嘘ついてる分、余計ややこしい事態になるかもしれないんだからな!」

「あ──、うん、そうなったら、ちょっと俺も困る、かなぁ」

「ちょっとどころじゃねーよ!あたしも一応未成年だし!」

「あ……、そっか。そこまで考えて、なかった……、ご、ごめんなさい」



 どいつもこいつも!

 少しは考えろよ!!



 頭の血管が一、二本切れてしまいそうだ。

 まだまだ吠え足りないが、怒髪天を衝く勢いに言葉が到底追いつかない。

 ドン、と勢いをつけ、CD収納ケースを抱えたまま、座席に深く凭れる。

 どうしてこんなに面倒な事態に陥った……。


 有無を言わさず、中村みさ希を家に送り届けるのが一番いいに決まっている。

 しかし、本来は塾に行ってる筈の時間に帰った時の言い訳を、彼女が上手く取り繕えるとは思えない。墓穴を掘る姿が想像つく。それはそれで、珠璃や日向音にとって益々面倒な事態に陥りそうだ。


「あーあ、どうしたもんかなぁ!!」


 顔を見なくても、後ろで中村みさ希がびくっと肩を跳ねたのが気配だけでも伝わってくる。

 一〇時近くまで警察や補導員に見つかりにくい場所で時間を潰す。それから送っていけば、周囲に塾帰りの振りができる。(珠璃は中村みさ希と同じ塾生、日向音は珠璃の保護者とでも言えばごまかせるだろう)


 問題はあと約二時間半をどこで過ごすか、だ。



「なぁ、珠璃」

「あん?」

「結局、中村さんは送っていけばいいわけ?」

「あ──……、あっ」


 妙案得たり。

 もちろん、本人の許可は得るつもりだ。


「中ちゃんさっき、あたしと一緒に音楽やってる子にも迷惑かけたかも、って言ったよな?」

「う、うん……」

「どっちかつーとさぁ、動画勝手に流されて迷惑してるの、あたしよりその子なんだわ。あたしには謝んなくていいけど、その子には謝ってほしい」

「おい、珠璃」

「日向音は黙ってろ。てな訳でだ、今からその子の家へ一緒に来てくんないかな」

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