第28話 夢見るばかりじゃいられない②

(1)


 アパートの自室に一歩近づくごとに、立ち仕事で疲れた足に更なる重みがずしり、加わっていく。歩く度に重みを増していく両足を叱咤して、引きずるように部屋を目指す。

 玄関扉の前、気合を入れるかのごとく、息を大きく吸い込む。長い息を吐きだす。ぎゅっと目を瞑り、「……よしっ」と小さくつぶやいて金属製のドアノブを強く握りしめる。


 思いきって扉を勢いよく開け、玄関へ飛び込む。

 すると、室内に甘い醤油の匂いが漂っていた。


 ワンルームの部屋は玄関から全体を見渡せる。

 コンロの前でまっすぐな姿勢を保ち、煮物を作る母の姿に晶羽は頭を抱えたくなった。


「お母さん。なにしてるの……」

「なにって……、見てわかるでしょ?肉じゃがを作ってるのよ」

「匂いでわかるよ……、って、そうじゃなくて!何回も訊くけど、何の用事で来たの?」


 少なくとも、肉じゃがを晶羽に作ってあげるためだけに、わざわざ隣の県から来る筈などない。昼間ならまだしも、今はもうすでに夜だ。


「よし、味付けはこんなもんでいいかな。あとは煮込むだけ!」

「だから……」

「詳しい話は肉じゃが煮込んでいる間に話すから。手洗ってきなさい」


 帰宅した幼稚園児や小学生に告げるような言い方に、ムッとする。

 出来が良くしっかり者の兄・瑛誠えいせいとは反対に、母にとっての晶羽はいつまでも出来の悪い娘。ゆえに成人しても心配は尽きず、未だに過干渉してくる。

 特にこの三年近く──、(濡れ衣の)不祥事でバンドを辞めさせられて以来、その傾向は益々強くなっていった。


 最近は晶羽の生活が安定してきたためか、頻繁にあった電話も少なくなっていた。

 お盆頃に携帯端末をとうとうガラケーから変更し、操作を覚えるのに難儀していた(と、先月あたりに瑛誠から聞いた)せいかもしれないけれど。

 何にせよ、連絡が減ったことに安心していたのだが……、狭い洗面所で手を洗いながら、落ち着いて、落ち着いてと自らの胸に言い聞かせる。


「座る前にベタに餌あげたいんだけど」


 壁に立て掛けた折り畳み式ローテーブルを広げている母に伝えると、「『あげる』じゃなくて『やる』でしょ?動物に丁寧な言葉使うのはおかしいって前から言ってるじゃない」と、すかさず注意が飛んでくる。


「……そうだね。餌、やってくるだね」


 素直に訂正し、満足そうな母を背に、苦い気持ちで晶羽はベタに餌を与える。


 昔から母は正論しか口にしない。

 正論を口にしても周囲から反発を買うこともない、自他共に強く厳しく正しい人。

 何でも自分の頭で考えて結論を出すので、相談を受けることはあってもすることはない。したいなんて考えたこともない。軽々しく人の悪口や噂話は滅多に口にしない。愚痴を言うのも聴くのも大嫌い。生来の負けず嫌いも手伝って、物事は努力次第だと信じている。


 たとえば──、小学生の頃の担任に、晶羽の発達について問題を疑われたことがあった。

 その疑いにも母は『何でも大袈裟に病気、病気と疑わないでください。この子は人より大人しくて少し不器用なだけ。覚えが悪いのも本人のやる気が足りないのかもしれないし、努力次第でどうとでも変えられると思います』と、はっきり否定したのだ。


 当時の母の判断の正誤はともかく。担任が案じていた晶羽の問題には未だに苦労させられているのは事実。

 しかし、母に相談や愚痴をこぼそうものなら、概ね『あんたの努力が足りないだけ』と叱責されるのが目に見える。『冷たい』と責めれば、『愚痴を言ってどうするの?』『そうねぇ、大変だねぇ、って優しく慰められたいの?それで何になるの?一時的に気持ちが楽になるってだけでしょ!逃げてるだけだし、ただの甘えじゃない』と、ぐうの音も出ない正論が返ってくる。


 晶羽を思うがこその厳しさだと、頭では理解している。が、母には必要以上のことは話さないとも決めている。

 正しい人だけど。正しい人だからこそ、自分が認められない、間違っていると思う事柄に容赦がないのだ。



 小さな水槽の中、体中をくねらせ、早く早くとベタが餌をねだってくる。

 俗に言う餌くれダンスを前にしつつも、人工飼料を摘まんだまま晶羽は思考に耽る。

 餌を落とす態勢のまま、ぼーっとする晶羽に焦れたベタがピシャッと飛び跳ね、ガラスの壁面にぶつかった。


「うわっ、ごめんごめん!痛かったでしょ?!」


 慌てて餌を水面に落とせば、ベタは勢いよく餌に食らいつく。カッカッカッカッ、と小気味良い音を立てて咀嚼し、まだ足りない、もっと欲しいとひらひら踊る。一つ、二つ、三つ……、と引き続き給餌し、食事するベタに短い癒しを得る。

 合計五粒与えたところで水槽から離れ、ローテーブルの前、クッションに座る母に話しかける。


「お待たせ。とりあえずお茶出すから……」

「お茶はいいから早く座って。魚の餌やりに時間かけすぎなのよ」


 相変わらず一言多い……、とうんざりする。

 悪気はないし、家族だからこその態度と知りつつ憮然と母の隣に座り込む。


「じゃあ……、もう一回訊くよ?何でいきなり、連絡もなしにアパートに来たの」

「あんたに直接言いたいことがあって」


 母の顔にも声音にも厳しさが一気に増す。

 完全に嫌な予感しかない。


「嘘つかないで正直に答えなさい。あんた、また人前で音楽やってるんでしょ?」






(2)


 頭の片隅では予想していた。でも、絶対に外れて欲しかった予想。

 舌が凍りついて思うように動かない。中途半端に開いた口から洩れるのは、えっと……、その……、など、辛うじて声の形を保つ上擦ったつぶやき。

 問いに答えなくても、この反応だけで充分伝わっているだろう。


 その証拠に母は頭を振り、「やっぱりね」と肩で大きく息を吐く。


「お兄ちゃん、から、訊いたの……?」


 晶羽に味方するようなこと言っておきながら、と、心中で瑛誠への恨み言を言い募るが、「お兄ちゃんは何も言ってない」と、即座に母は否定した。


「偶然、あんたが歌ってる映像を観ちゃったのよ」


 母曰く、ガラケーから変更した携帯端末の扱いに苦戦し、一カ月間ほど無料講習を受けていた。

 徐々に使い方を理解し始めると、携帯端末を使ってやりたいことが増えてきた。


「料理するのにYou tubeの動画参考にしたり、たまに昔好きだった歌手の映像観るくらいだけどね。で、そのうちにふと、お母さん、晶羽が歌ってる姿ほとんど知らないなぁって思って」


 知らないも何もライブに招待しても『忙しいから無理。悪いけど、お母さんは晶羽がやってる音楽あんまり関心ないの』と、一度も観に来なかったのに。

 最も、父と兄も同様に応援はしてくれるけれど、わざわざライブ観に来たり、CD買うほどには興味持たなかったが。薄情で冷たいというより、『自分は自分、他人は他人。それがたとえ家族間であっても』な個人主義の家風なのだ。

 晶羽自身も、他のメンバーの家族がツアーごとにライブ観に来てくれるのを横目に、『うちはうち、よそはよそ』と割り切っていた。


「何でまた急に、今頃になって……、興味ないって」

「興味ないなんて言った覚えないけど?夜は忙しいから、地元の会場でも観に行くのは難しいって」

「ううん、たしかに言ってたよ。あんたがやってることでも、うるさい音楽は苦手で興味ないってはっきり……」

「絶対言ってない!あんたって子はもう!適当な嘘つくんじゃないよ!」

「う、嘘なんてついてないっ!」

「じゃあ、あんたの思い違いじゃないの?とにかく、お母さんは興味ないなんて言ってないから」


 これ以上、『言った・言わない』で揉めるのは不毛。時間の無駄。

 大変不本意ながら、晶羽は黙って折れることにした。


「話戻すよ?たまにあんたが歌ってたバンドの動画を観ていたら、おすすめ動画?っていうのが出てくるようになってね。大体はあんたのバンドの曲歌ってる素人の動画ばっかりで無視してたのよ。で、この間……、三、四日前くらいに、突然今のあんたが歌う動画がおすすめ動画で上がってきた」

「へえ……、どんな動画だったの……」


 母の顔色を窺って恐る恐る尋ねれば、母の眉目がきっと吊り上がった。


「白々しいっ……!あんた、どこかの楽器屋のオーディション受けたんでしょ?!その時の映像がYou tubeに上がってたのよ!」

「…………」

「しかも地区予選進出者って出ていたけど、どういうことなの?!」



 どういうことなのかは晶羽も知りたいくらいだ。

 地区ファイナル進出者の動画は、COOL LINEの公式HPでしか上がっていなかった筈。

 念のため、珠璃と日向音と三人で定期的に公式HPの隅から隅まで目を通していたが、動画をYou Tubeに公開する旨など一切記載されていなかった。


 だとしたら、考えられる最もたる理由──、誰かが勝手に動画をYou Tubeへ投稿したに違いない。


「さっきみたいに嘘つかず、ちゃんと答えて」


 さっきも嘘なんてついてないのにな、と反発心で、憮然とする。

 晶羽の表情の変化に母は目敏く気づく。


「なんでそんな顔するの。すぐ不貞腐れる。いつまでも子供で困るわね。それで、どうなの?また音楽やり始めたの?」


 晶羽は返事の代わりに、憮然としたままぎこちなく首肯する。


「音楽やり始めてコンテストにまで応募したの?」


 首肯はできなかったが、身体中の硬直ぶりがすでに答えを示している。


「お父さんとお母さんとの約束忘れたの?もう二度と人前で音楽やらないって。なんで約束破ったの」


 母から徐に顔を背け、晶羽は答えようとしない。


「都合悪くなると黙る癖も変わらないわねぇ。晶羽にとって、お父さんとお母さんが心配する気持ちってそんなに軽いもの?お母さんたちのこと、馬鹿にしてるの?」

「ちが、そういうわけじゃ」

「何が違うの。お父さんとお母さんの仕送りなしじゃ生活できないのに、言うことに従えないのはおかしくない?」

「もうプロは目指してなくて……、あくまで趣味の範囲で友達と活動している、だけ、なんだけど……」

「プロなんて無理に決まってるでしょ!あんた、自分がやらかしたことへの責任について少しは考えなさいよ。あんたもつらかったかもしれないけど、それ以上にたくさんのいろんな人にご迷惑かけた自覚ある?!全然ないでしょ!」


 座っているクッションが針のむしろに思えてくる。

 母を説得する言葉を考えようにも、考える隙なんて与えないとばかりに母のは続く。


「百歩譲って、趣味でちょっと活動するくらいなら……、許してあげる。お兄ちゃんも『晶羽から完全に音楽奪うのはかわいそうじゃないか』って言ってるし。その代わり、二度とコンテストなんかに出ないで。今回の予選は辞退しなさい。無理なら趣味での活動も許さないし、仕送りも止めるから。いい?わかった?」

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