第27話 夢見るばかりじゃいられない①
(1)
九月が過ぎ、十月に入った。
昨今の気候変動のせいだろう。先月ほどではないにせよ、今月も昼間はまだ半袖でもいいくらいの気温となる。柳緑庵でもまだまだ冷房を動かしている。
しかし、じっとしている時の肌寒さは先月より感じる。抹茶色の作務衣に薄手のカーディガンを羽織っていてさえ。なので美紀子と晶羽は示し合わせ、こっそり設定温度を上げていた。
「だけど、本当に冷房の温度上げちゃっていいんですか?」
「いいのいいの、全然かまわないわよ。商品のためって言いつつ、実は暑がりなあの子が勝手に設定してるんだもの」
小豆を高温の釜で長時間かき混ぜながら茹でたり、もち米をセイロで蒸したりなどで、厨房は熱気が籠りやすい。換気扇を回していても、ないよりはマシ程度。
そんな場所にほぼ一日籠りきりでは暑がりになってしまうのも仕方がないこと。
「だからってねぇ……、寒いものは寒いんだもの。晶羽ちゃんに風邪引かれても困るし」
「はあ」
おしゃべりしつつ、美紀子は手にした頭だけのジャック・オ・ランタンの置物をカウンターへ飾る。晶羽も折り紙で作った蝙蝠やかぼちゃを、今月のおすすめ商品『かぼちゃ饅頭』『栗とかぼちゃ餡の大福餅』『かぼちゃ練り切り』などのポップへ飾りつけていく。
和菓子と欧米の季節行事組み合わせるのは、若い(と言っても三十代前半から半ばに違いないが)店長ゆえかもしれない。
「
「はいぃっ!」
突然、音もなく背後から店長に呼びかけられ、晶羽は飛び上がらんばかりに叫ぶ。
おまけについさっきまで噂していただけに、余計に驚きが大きい。
「ちょっと、いきなり後ろから声掛けないの!心臓に悪いったら!晶羽ちゃんもすっごくびっくりしてるでしょ!」
「おふくろが言うと洒落にならない……」
「そうよー?本当、気をつけてちょうだいよ」
「あの、店長……、それで」
放っておいたら延々と親子ゲンカが続きそうなので、控えめに間に割って入る。
「あぁ、すみません。纐纈さんにちょっと話があるんです」
「話、ですか……」
『話がある』と呼ばれる。
今までの経験上だと、遠回しにクビ宣告か、仕事が間に合ってないとの叱責か。一気に大きな不安が押し寄せてくる。
「誤解しないでください。悪い話じゃありませんから」
「そ、そうなんですね……」
安堵のあまりに脱力し、深く深く息を吐き出しそうなのを堪える。
悪い話じゃないなら、いったい何の話だろう。
「終業後に少し時間ありますか」
「はい」
「タイムカード切ったら教えてください。休憩室で話します」
「わかりました」
それだけ告げると店長はさっさと店内から去り、厨房の奥へ引っ込んでいった。
「珍しく
頬に掌を当て、訝しがる様子から美紀子も事情を理解できていないらしい。
「あの子が悪い話じゃないって言うなら、間違いなく良いお話でしょうけど。だーいじょうぶ。どーんとかまえていなさいな!」
頭一つ分高い位置にある晶羽の肩を、美紀子は優しく叩く。
緊張と不安は幾ばくか解け、晶羽はぎこちなく唇の端を持ち上げてみせる。
ちょうど会話のキリもつき、二人は商品POPのディスプレイを再開させた。
その後は普段と変わらず、常連客がぽつぽつと来店。
暇でもなく忙しくもなく、比較的ゆったりと時間が過ぎ、終業時間を迎えた。
「
厨房の入り口に立ち、平鍋を洗う背中に呼びかける。
横長の平窓から漏れる夕陽で、蛍光ピンクの七分刈り頭がより派手に見える……、などとどうでもいいこと思う間に店長は洗い物にキリをつけ、厨房から出てきた。
休憩室へ入ると、二つあるテーブルの内、奥へ座るよう促される。
すごくどうでもいいけれど、晶羽が座った席から長押に飾られたキラのサイン色紙がおもいっきり視界に入ってくる……。
「単刀直入に言います。纐纈さん、アルバイトから契約社員になりませんか」
悪い話どころか、予想をはるかに超えた良い話じゃない。
あまりに良い話すぎて思考が追いつかず、晶羽はうまく返事ができない。
店長は何も言葉を返そうとしない(正確には返せないでいる)晶羽にかまわず、淡々と話を続ける。
「契約社員になれば各種保険に加入できる。時給も少しですが上げることができます。有休も付けられます」
「あの、とてもありがたいお話で……、ありがたすぎるお話ですけど……、どうしてまた、私を契約社員に?」
「今は母の補助と言う形で働いてもらってますよね?でも、ゆくゆくは店頭での仕事は纐纈さんが主で、逆に母を補助にしたいんです」
「その話、美紀子さん……は、ご存じなんですか」
もし店長が相談もなく勝手に思いついた話であれば、美紀子は不満を抱くのでは。
「むしろ、母の方が『晶羽ちゃんをアルバイトにしておくにはもったいない。いっそ社員にでもしてあげればいいのに』『
見た目はいかついが、存外穏やかな顔で真摯で告げる店長に、晶羽はなかなか言葉を返せないでいる。
柳緑庵で働き始めてから、まだ半年も経っていない。
仕事の覚えもそんなに良くない。失敗も多かった。半年近く経って、やっと一人前の仕事できるようになったくらいなのに。心中で強い自虐の念が沸き上がってくる。
先月、日向音に自虐はよくない、と言いかけたのは、何を隠そう自分のくせに。
「私のことを真剣に考えてくださって……、ありがとうございます。ただ……、すみません。急なお話にかなり驚いていて……。申し訳ないのですが、少し、考えさせてもらえます、か?」
驚きと戸惑いで混乱しながら、やっとのことで晶羽は店長に正直な気持ちを伝えることができた。
「わかりました。正式な返事は今すぐじゃなくてかまいませんし、いつでもいいです。纐纈さんが納得できるまで考えてからで結構です」
(2)
幸運が、降っては次々と舞い込んでくる。
自分の音楽ユニットがCOOL LINE地区大会出場といい、アルバイト社員からの昇格話といい。
ここのところ幸運に恵まれている。恵まれすぎていて、却って怖い。嬉しさと戸惑い、そして、ほんのわずかばかりの怯えを抱え、晶羽はアパートへの帰途へと着く。
すっかり日が暮れ、乾いた秋の夜空を見上げると共に、ふと一階の自室を横目で見る。
途端に眼鏡の奥で少し腫れぼったい二重の目が見開かれた。
窓のカーテン越し、照明の光が淡く漏れている。
背負っていた黒のミニリュックから携帯端末をさっと取り出す。
脳裏に浮かんだ人物は三人。中でも、
どうか違っていてほしい。
予想と違っていても、現在部屋にいる人物の正体に皆目見当つかない分、それはそれで別の意味で怖い。物凄く怖い。が、当たっていたらいたで、相当厄介な事態に陥れかねない。
嫌な意味でドキドキしながら、呼び出し音を待つ。
八回目の呼び出しで、ついにその人物が応答した。
「もしもし!ねぇ!今、私の部屋にいるよね?!」
電話相手がまともに話す隙を与えず、噛みつくような勢いで問う。
五秒以内に返された返事に心底辟易し、普段の晶羽からは想像つかない、強い責め口調で更に問い質す。
「なんで今日に限って事前に連絡しないで来たの?!こっちはさっきまでバイトしてたんだよ!いくら合鍵持ってるからって、急に来て勝手にアパート入られても困るんだけど!」
『急に来られて困るようなことでもしてるの?』
電話越しの棘と含みのある語調に絶句、益々苛立ちと不安が募っていく。
「そんなこと……、別にしてないよ。とにかく!もうアパートの前まで来てるから、あと二分くらいで着く。おとなしく待っててくれない、お母さん」
まだ言葉を続けようとする母を遮り、強引に通話を終わらせる。
晶羽の盛大なため息がひとつ、冷たい気を大きく揺らした。
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