五章
第25話 過去の亡霊
バイトの後、珠璃のアパートへ晶羽は一目散に急ぐ。
柳緑庵から最寄りの地下鉄まで息せき切って走る。駅に着いてからも勢いを落とすことなく改札を走り抜け、階段を駆け下りる。ちょうど学生の乗客が減り、会社員の退勤時間より微妙に早い時間帯、ホームは少し空いていた。
タイミングよく電車が到着した。危険だと分かりつつ、駆け込み乗車する。
柳緑庵から珠璃のアパートまでは乗り換えなし。四駅目で降りる。
電車内は人がまばらで空席も目立つ。が、そわそわと気分が落ち着かなくて座る気になれなかった。
吊革に掴まり、振動に揺られながら立つこと約十五分。目的の駅に到着。
急いで降車した晶羽はホームから階段へ駆け上がり、改札を走り抜け、出口を飛び出した。
気温こそ真夏と大差ないが、茜に染まった空や少しだけ湿度が下がった風に秋の気配を感じる。
流れる汗を拭い、ずり落ちてくる眼鏡を押し上げ、晶羽は高架下を走り続ける。
すっかり見慣れた三階建てのビルの前に立つ頃には、呼吸が乱れすぎて肺と心臓が痛む。
よろよろと重すぎる足を引きずって螺旋階段を上っていく。二階の角部屋の前に立ち、インターホンを鳴らすとその場に蹲った。
「はいよー……、うおっ?!びっくりしたあ?!」
玄関を開けるなり、乱れた呼吸で足元にしゃがみ込む晶羽に、珠璃は思わず一、二歩あとずさる。
「ちょっとさー、晶羽ちゃん。だいじょうぶかよー?」
晶羽の腕を掴んで無理矢理引き起こすと、珠璃は中へと引き摺っていく。
「慌てて走って来なくてもよかったのに。シャワー浴びる?あたしので良けりゃ服貸そうか?」
「んー、だいじょうぶ」
「わかった。つか、よく考えたらあたしの服じゃ晶羽ちゃんには小さいか」
珠璃は晶羽の爪先から頭頂部まで視線を巡らせ、自室の扉を開ける。
中に入ると、タブレット端末とにらめっこする日向音がいた。
晶羽の顔を見た途端、日向音は深々と頭を下げてきた。
「なんか……、いろいろごめん」
「え、なんで?」
日向音が謝ることじゃないのに。
リビングから流れてくるエアコンの風がやたらと大きく響く。
「晶羽ちゃん。突っ立ってないで、入るなら入って」
「あ、ごめん……。冷気が逃げちゃうね」
珠璃の部屋にはエアコンがない。珠璃の部屋とリビングとの境の引き戸を開け放し、二部屋続きでエアコンを使用するので、少し効きが悪い。
それでもアパートまで全力疾走続けた晶羽の汗を引かせるには充分だった。
晶羽は黒いミニリュックを下ろし、黒い炬燵机へ、珠璃と日向音の間に座った。
汗くさくないかな、と気になったが、いつも明るい二人の神妙な表情の方が心配になった。
「もうさぁ、本当にごめん……。俺が気軽に誘ってみたばっかりに」
「だからね。日向音くんは悪くないよっ。コンテストに出るか出ないか、決めたのは私たちだし……」
「そうだって。二次出場者の動画公開とか急に始めた公式が悪い。日向音は全然悪くねーよ」
日向音のバンドは一次審査で落選している。本当は悔しいに違いない。
更に晶羽たちは地区大会出場決定にも拘らず、喜ぶどころか困惑し、あまつさえ辞退すら考えている。少なからず彼にとって面白くはない筈だろう。なのに、晶羽と珠璃を心配し、自分のせいだと落ち込んでいる。お人好しが過ぎやしないか。
日向音が抱えるタブレット端末の画面が映すのは、COOL LINE公式ホームページ。
『地区ファイナル出場者決定!!』の文字と共に、各出場者の名と楽器店スタジオライブでの動画が貼り付けられている。その中に、『T地区代表 デッドガールズ・リターンズ!』の名も。
「はは、改めて見てもだっせーユニット名……」
「ひっどいなぁ、珠璃ちゃん」
互いに乾いた苦笑を漏らし、タブレット端末の画面を覗き込む。
「動画、結構がっつり流れてんのな」
「二曲ともワンコーラス分まであるよね」
「地区ファイナル出場者決定と同時にホームページ更新されてんな。珠璃、連絡来たのは今日の何時頃?」
「たしか、十二時頃?」
「たぶんホームページ更新されたのは前後の時間帯かな。今は五時半近いだろ?」
「つーことは、動画公開から五~七時間経ってるってわけか……」
その間にどれだけの人が二人の動画を視聴しただろう。想像するだに恐ろしい。
薄暗闇、客席とドラムセットの間の狭い場所。無尽に動き回って歌う自分を、画面越しに苦々しく見つめる。晶羽と日向音の肩越しから動画を観る珠璃も難しい顔で画面を眺めている。
「でもさ」
動画が終わりに差し掛かった辺りで、日向音が大きくつぶやく。
「考えようによっちゃ、COOL LINE主催側に晶羽ちゃんがキラだってバレてない。キラの関係者は審査に関わっていないってことじゃない?」
顔に大きな疑問符浮かべ、珠璃と一緒に日向音を凝視。
二人分の強い視線に動じもせず、日向音は続ける。
「いくら見た目や音楽性、歌唱スタイルが全く変わってたとしても、関係者だったヤツなら多少は気づくんじゃね?それで、選考時に不祥事起こした──、晶羽ちゃんごめんな。違うってわかってるけどあえて便宜上こう言わせてもらうね」
「うん、だいじょうぶ。気にしないで」
「ありがと、続けるわ。不祥事起こした元アイドルだって気づいたら、まず落選させると思うんだよ」
「たしかに」
「でもよ、コンテスト側が気づかなくたって、動画視聴したヤツらに晶羽ちゃんのこと気づかれたら、どのみち危ねーじゃん」
珠璃の指摘は最もだ。
しかし動画公開直後ならまだしも、公開から何時間も経過してしまっている。
今更二次審査出場棄権と動画削除を申し出たとして、却って余計な興味と憶測をもたらしてしまう気がした。
「珠璃ちゃん、日向音くん」
脚の間に挟んでいた両手を、指先揃えて炬燵机の端に乗せる。
晶羽の改まった呼びかけにつられ、二人も改まった顔で振り向く。
「私、棄権しないよ」
日向音は、え、と言葉を詰まらせ、物凄く何か言いたそうなのに絶句する珠璃を交互に見返しながら、微苦笑する。
「なんかね、もう、疲れちゃった」
棄権しないと言いながら、疲れたなんて矛盾した発言に、珠璃も日向音も明らかに困惑の表情を浮かべた。
「もうすでに存在しないキラっていう人に、いつまでも悩まされるのが心底疲れちゃった。キラの亡霊に振り回されたくないっ」
「晶羽ちゃん」
ああ、そうか。
口に出してみて初めて理解した。
誰よりもキラの影に囚われていたのは晶羽自身だったと。
今の自分を好きになり、信じられるようになった。
そろそろ、キラの影から解放されてもいい頃合ではないか?
たとえ、周りが許してくれなかったとしても。
「私は『ジェーン・ドゥ』としてステージに立ちたい」
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