第10話 救いの手

 柳緑庵から出た直後、黒いミニリュックの中で携帯端末が震えた。

 店の前から歩道へ出て、等間隔に植樹された街路樹の間で通知を確認。珠璃からだ。


 送られてきた内容に晶羽の表情が硬くなる。

 眉を寄せ、立ち尽くしたまま数分思考し、返信。

 そうして、RINEの画面を閉じるとその足でカラオケボックスへ向かう。


 今日の練習曲のプレイリストを聴きながら、逡巡する。


 珠璃の従兄弟が来る。


 本当は断りたかった。

 でも、断った場合、自分への誤解は解くことができない。

 珠璃には『無理ならほんっと!断っていいからね?!』と言われたが、晶羽が従兄弟の立場なら心配する気持ちはわからなくない。それに、理由はどうあれ誤解を受けたまま放っておくことが──、怖いのだ。


 今日はこの間、珠璃と初めて出会ったカラオケボックスとは別の店(と、言ってもチェーン店)で、晶羽の自宅アパート最寄り駅から二駅ほど歩くだけ。

 歩くのはきらいじゃないから苦にならない。夏ならともかく今は春。歩く途中で暑くて汗をかくこともない。電車賃も浮く。


 声は出さずに、周りに聴こえない程度に鼻歌で練習曲を歌う。

 晶羽の声に合いそうだと珠璃から勧められたこの曲は、約三十年前に流行った女性ボーカルバンド。

 少女的な明るさ可愛らしさだけでなく、その年頃特有の繊細さ不安定さをどこかメルヘンな歌詞に乗せ、超音波に似たハイトーンボイスで時に激しく、時に叙情的に歌い上げる。個性際立つファッションセンスも含め、「リアルタイム世代のアマチュア女子ボーカルの七割はこのバンドの影響受けてた気がする……、って、オトンが言ってた!」との珠璃の発言も頷ける。


 珠璃は洋楽以外にも昔の邦楽バンドも好きらしく、晶羽にいろいろ勧めてくれる。

「今のバンドもキライじゃないし、そこそこ好きなのいるけど、オトンの世代のバンドが持つ泥臭さとか、アクの強さが好きなんだよね」なんて、楽しそうに語られては晶羽も聴いてみたくなる。

 世代別で〇〇な曲と言えば、などのテレビ番組じゃ決して紹介されない類の曲ばかりだから。


 珠璃の従兄弟への緊張を意識しないよう、なるべく音楽のことだけを考えていたら、目的地のカラオケボックスに着いていた。

 硝子の自動ドアの前には駐車場が拡がり、端にある駐輪場で珠璃と……、彼女の従兄弟が晶羽を待っていた。


 ギターケース担ぐ珠璃は露骨に不機嫌そうな顔で軽く地面を蹴っている。

 晶羽は待ち合わせ時間に遅れていない。十中八九、従兄弟に腹を立てている、気がする。


「日向音やっぱ帰れ。チェックとかうぜーんだって」


 あ、予想的中。

 不機嫌丸出しな珠璃に若干尻込みしつつ、手を大きく振る。

 すると珠璃は不機嫌さを引っ込め、満面の笑みで手を振り返してきた。晶羽もさっきよりもっと大きく手を振ってみせる。


「珠璃ちゃん」

「晶羽ちゃんおつー」


 努めて笑顔で二人に駆け寄っていく。

 金茶色の髪の青年が「はじめまして、晶羽ちゃん。突然来ちゃってすんません。俺、遠藤日向音って言いますー。よろしくね」と、にこやかに挨拶してきた。


「初対面早々にもう『ちゃん』呼びかよ」

「あ、ダメ?だって俺とタメって聞いたし」


 日向音は悪びれもせず、晶羽にさわやかに笑いかけてくる。

 男性アイドルじみた容貌に余裕ある態度。オレンジ×紺の大柄ブロックチェックのパーカーベストにアイボリーの長袖ニット、カーキのスリムカーゴパンツなんて、色物柄物をイヤミなく着こなす服装センス含めて絶対女子にモテると見た。同時に例のダンスグループのメンバーたちを思い出し、苦手意識が生まれる。


「えっと……、別にいいよ?呼び捨てだったらさすがにイヤだけど」

「ホントー?よかった!晶羽ちゃん心広い!ってことで中に入ろっか」


 なんで日向音が仕切るんだよ、とぶつくさ文句言う珠璃を宥めつつ、先頭切って自動扉を潜る日向音に続き、入店。平日の午後は客も少ない。この間と違って受付もすぐに終わり、すんなりと部屋へ通される。

 部屋に入る直前、向かいの部屋から出てきた大学生くらいの客が晶羽たちを二度見し、「ミュージシャン?!」と小さくつぶやいていた。


 ローテーブルを囲むL字型ソファーに腰を下ろす。

 入室前に寄ったドリンクバーで各々手にしたジュースなどのプラスチックグラスを掲げる。


「まずはカンパイしよっか」


 喜々と掲げた日向音はアイスコーヒー、面倒そうにのろのろ腕を上げる珠璃はレモンスカッシュ、晶羽は清健美茶だ。


「さっそくやろっか」


 珠璃がグラスをテーブルに置き、チューニングを。晶羽は席を立ち、軽く発声練習を始める。

 さっきまでの笑顔ではなく、真面目な顔で二人の様子を眺める日向音に緊張を覚える。が、珠璃がイントロを弾き出すと晶羽はすっ……っと歌の世界へ没入していく。


 珠璃のそよ風のような繊細なギターの音色に、晶羽のやわらかくやさしい歌声が重なっていく。日向音のベースもいつの間にか重なっていた。


 春の古都を流れる川、街並みを彩る桜の樹々。

 風情ある情景が眼裏に次々と浮かぶ。


 件のバンドの隠れた名曲、晶羽は春の夜の世界に深く浸る。珠璃と日向音と共に──






「いいねぇ、楽しいねぇ!」


 何曲かセッションし、休憩に入った途端、一言一句違わず三人の声が揃う。

 誰もが目を輝かせている。


「有名バンドのコピーもいいけど、他にもいろいろやらない?たとえば珠璃の曲とか」


 日向音は、はっ?!と大きな目を剥く珠璃から晶羽へと水を向けた。


「晶羽ちゃん、珠璃のファンだったらしいじゃん?歌ってみたくない?」

「日向音やめろって。晶羽ちゃんがあたしの曲歌いたいとは限らな」

「え、歌ってみたい!」


 え、と固まる珠璃と日向音にきらきらした目を向ける。


「珠璃ちゃんと私の声全然タイプ違うし、歌のイメージ壊したくないなぁって思ってたから実は遠慮してたの。あ、珠璃ちゃんが迷惑なら……」

「いや、晶羽ちゃんがいいならいいよ?好きに歌いなよ」

「ありがとう!あのね、いくつかあるタイトルなしの短い曲で……、ちょっとエッチな歌詞なんだけど、実は生理痛のこと歌ってるっていう曲」

「ああ、あれね……」

「『月に一度だけ来て 私の身体と心をかき乱す』とか『そして今夜も 眠らせないつもり?』とか初めて聴いたときはすっごいドキドキしたんだけど、生理痛の辛さと置き換えると本当共感しかなくって上手いなぁって!曲自体は明るいから、こう、痛みを紛らそうとする感が」

「……羽ちゃん、晶羽ちゃん」

「ん?」

「あたしは全然いいけど日向音が困ってるっぽい」


 珠璃の指摘を受け、日向音を見る。

 薄く笑んではいるがどことなく気まずそう。


「あっ?!ごめんなさいっっ!そうだよね、男の子の前で生理痛はまずいし引くよね?!」

「んー、まずくはないし引きもしないけど……、初対面男子の前ではあんまりしない話題かなあ」

「わー、ごめんなさいごめんなさいっ」

「晶羽ちゃんってさ、天然って言われない?」


 晶羽の狼狽振りに日向音は吹き出し、くつくつ笑う。


「う……、じ、実は」

「やっぱりなぁ」


 二人のやり取りを横目で見ていた珠璃も納得の声を上げる。

 珠璃と日向音の生温かい笑顔にだんだん恥ずかしくなってきた。


「ド、ドリンクなくなったし、新しいのもらってくるね!」


 逃げるように部屋を出て、同じ階にあるドリンクバーへ足早に向かう。

 二杯目はなににしよう。お茶は好きだけどウーロン茶は喉の油分取るし、味の濃いフルーツジュースも喉にぬめりが残る。炭酸ジュース系も歌いづらくなるし、また清健美茶でいいや。


 サーバーの吐出口にプラスチックグラスを置く。

 すると二人分の足音と雑談がドリンクバーに近づいてくる。


「ホントだってば、向かいの部屋の客、キラの声そっくりなんだって!さっき部屋の前通って聴いたから間違いないって!」


 ボタンを押していた指先が止まる。

 グラスの中のお茶は中途半端な量だが気にするどころじゃない。

 壊れそうな勢いで心臓が早鐘を打ち始める。


 さっき晶羽たちを凝視していた向かいの部屋の客だ。


「部屋間違えた振りして確かめてみようかな」

「やめとけって。さすがにまずいだろ」

「冗談だって。でも、もし本物だったら会ってみたいよなぁ」


 鼓膜まで突き破る勢いでどくどくと波打つ、鼓動の重低音が内側から響く。耳をつんざく。口の中もからからに乾いていく。


 早く部屋に逃げなきゃ。

 運が悪いことに彼らは晶羽の後ろでドリンクサーバーが空くのを待っている。


 さっとプラスチックグラスを取り、晶羽は深く俯いてその場を離れようとした──、が。


「あ」


 やっぱり気づかれた。


「お姉さん、お姉さん。いきなりっすけど、もしかして元Rainbow Plastic Planetsのキラ?」

「違います」


 はっきり堂々と。

 怯んではいけない。


「えー、でも話し声がキラにすごい似てますよねぇ。背も高いし」

「やめてください。似てないし迷惑です」


 わざと冷たい一瞥を投げ、逃げるようにドリンクバーから離れる。

 しかし、彼らは「絶対怪しいよな」とまだ囁き合う。無視しようと思うのに、どうしても意識がそちらへ持っていかれる──




 カシャッ。




 シャッターが切られる音に全身の血が一気に爪先へ下がっていく。


 足がこれ以上前に進んでくれない。身体が全然言うことをきいてくれない。

 中途半端に硬直した姿は『正解。私はキラです』とほとんど告白しているのと同然。


 あーあ。

 どうせまたネットに晒されるんだ。

 せっかく新しいバイト先決まって、趣味の合う友達もできたのに。

 やっと色々やり直せそうだったのに。


 また新しい引っ越し先とバイト先探さなきゃ──



「珠璃ー、俺、受付行ってくるわ。他の客の迷惑行為に俺の友達が困らされてる。しかも写真まで隠し撮りされたって」


 俯いていたし、それどころではなかったから、晶羽の鼻先にある扉がトイレだとは気づかなかった。

 男子トイレの扉から出てきた日向音がだるそうに向かいの客たちに告げる。

 更に日向音の後方、部屋の扉から顔を覗かせた珠璃が物凄い形相で彼らを睨んでいた。


「晶羽ちゃん!早く戻ってきな!!」


 珠璃は部屋から勢いよく飛び出し、晶羽の腕を強引に掴み取る。

 危うくプラスチックグラスを落としそうになりながら、晶羽は引きずられるように部屋へ連れて行かれた。



 助かった、って思っていいのかな。


 予想外の事態に晶羽の混乱は収まるどころか、ますます深くなっていった。

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