第9話 前進と不安は表裏一体
(1)
晶羽と珠璃が出会い、約二週間近くが経過した。
晶羽のアパートがある区域から地下鉄一駅分先の古い商店街。半分近くシャッターが下りた通りに、日本瓦の屋根に和風平屋建ての和菓子屋がある。
渋い緑色の布地に『
家賃水道光熱費などは仕送りで賄いつつ、食費や通信代その他生活費を自力で稼ぐのは当然。本当は各税金も自力で納めたい。
週末の結婚式場の仕事だけでは到底足りない。平日もバイトしなくては。
とはいえ、三か月以上前に当時の平日バイトを半ばクビに近い形で辞めて以降、なかなか次の仕事が見つからない。見つかったとしても面接で落ち、バイト探しは難航していた。
しかし、先日母に言われたからではないが、くじけかかっていた平日バイトの面接を受けてみようと決めたのだ。
一般人に戻って約二年半。
堅気の様々な仕事を経験してきたが、晶羽はどれも長続きしなかった。
原因は素性がバレるか、晶羽の能力が足りず、居づらくなって辞めるパターンか。
正直結婚式場の音響バイトも後者の理由で辞めたくなってきている。でも、辞めるなら次の場所を決めてからでないと。
今回の募集要項は和菓子の販売接客。そう、顔を表に出すのが怖いから、とずっと避けてきた接客業。
本来なら接客は避けて通りたい。しかし、無資格の高卒者ができる仕事は限られる。本気で働きたかったら選り好みなんて許されない。
この和菓子屋のアルバイト募集に応募したのは晶羽のアパートから地下鉄一駅分の距離で歩いて通えなくないこと(交通費がかからない)、時給の値段が悪くないこと。
月に一回、給料日に必ず足を運ぶくらいにはこの店の和菓子が好きなこと。
そして、一番の応募動機は客層もRainbow Plastic Planetsのキラなんて知らない、興味なさそうな中年層以降がメインなこと。ここなら、正体を見抜かれる危険性は低いかもしれない。
意を決して扉をがらがら開ける。
年季の入った木材と壁漆喰と甘い匂いがほのかに香る店内の正面。
桜餅、梅や鶯を模った練り切り菓子、桜と梅の味と形のざらめあられ等が並ぶショーウィンドウの向こう側。幟と同じ渋い緑の作務衣姿の老婦人が品良く「いらっしゃいませ」と呼びかけてきた。
「こんにちは。十一時半からのアルバイト面接に来ました、
「はいはい、ちょっと待っててくださいね」
老婦人はショーウィンドウの後方の引き戸を開け、厨房があるだろう奥へ引っ込んだ。
扉越しにぼそぼそと漏れ聴こえる会話(内容までは聞こえず)が幾度か往復されたのち、戸が再び開く。
老婦人と同じ色の作務衣に前掛けを着た長身男性──、初めて店長を一目見た瞬間、晶羽は驚きと共に全身に緊張が走った。
「びっくりしたよねえ。でもだいじょうぶ。店長、見た目は怖いけど全然普通だから」
「い、いえいえ……」
老婦人の言葉通り、店長はバスケットボール選手並みの高身長に加え、蛍光ピンクに染めた七分刈りに鋭い目つきの強面だった。三十代前半から半ばと思われる若さも意外である。
バンド時代に派手な見た目や極道並みの強面の業界人に見慣れていた。そんな晶羽でさえ和菓子職人とは一見して思えぬ彼の風体につい固まってしまった。
「纐纈さん、でしたね。中へどうぞ」
「は、はい……」
そっけなく呼びかけられ、引き戸の奥へ。扉から見て左手に調理場があり、右手の休憩所のような一室へ通される。
四人掛けの古いテーブルセットとテレビ、古い壁時計の振り子がテーブルの真上で揺れている。店長と対面になる形で着席し、履歴書を差し出す。
店長は履歴書にざっと目を通すと、晶羽をじっと見据え、言った。
「纐纈さん。出勤はいつからできますか。来てもらえるんでしたら、なるべく早くお願いしたいのですが」
あれ?
普通、応募動機とか、色々もっと話訊いてくるよね?
「ごらんの通り、うちの店、僕と母だけで切り盛りしていまして。特に接客は母に全面的に任せているのですが、歳も歳なんで人手が欲しいんですよね」
「えっと、あの、それって、もしかして……」
「僕としては即採用のつもり、です」
「…………」
「……って、ろくに面接もせずさっさと決めてしまってすみません。せっかちな質でして」
「い、いえ」
「とりあえず仕事の説明だけさせてください。詳しい説明聞いた上で改めてうちで働くかどうか、考えてもらって結構ですから」
どうしよう。
ろくに話をしてもいないのにあっさり採用されるなんて……、却って怖い。
でも数か月不採用続きだったバイト面接がやっと通った。
この機を逃し、再び一からバイト探しをする労力気力を考えたら。
何でも悪く捉えすぎる癖がまた出てる。
ええい、ままよっ。
内なる不安に逆らい、店長の説明に耳を傾ける晶羽の背後。
少し離れた壁の
(2)
一方同じ頃、珠璃もひとりでChameleon Gemsの清掃作業をしていた。
昨夜は大人気のインディーズバンドのレコ発ライブだった。
イベント終了後はそのまま打ち上げに入り、最終閉店時間ぎりぎりの深夜2時まで盛り上がった。
そのせいで後片付けは適当にざっとしただけ。
ちなみに言い出しっぺの雅は今日、音楽系専門学校にギターを教えに行く日のため、珠璃にお鉢が回ってきた。小遣いくれるって言われたし、午前中は暇なので嫌な顔せず二つ返事で請け負ったと言う訳だ。
モップをバケツに突っ込んでは床をゴシゴシと力を入れて磨く。
そうしないと床に零れた酒やジュースのべたつきは落ちない。
それが終わると布巾でカウンターやテーブルを拭く。こちらもべたつく場所を力を入れて拭く。
「おし、床とテーブルはおっけ!」
モップをカウンターの横に立て掛け、仕上げにアルコール消毒液をあちこちに散布する。
数年前まで世界中で猛威を振るった感染症は現在はほぼ鎮静化している。開発された特効薬も認可され、普及し始めている。しかし、忘れた頃に流行る時が未だにある。
飲食店のアルコール散布は義務から任意に変わったけれど、念には念を。
あとは厨房を残すのみ。
厨房へ足を踏み入れると、昨晩洗った大量のグラス類に埃避けの布巾が乱雑にかけてあるのみ。
拭いとけよなぁ、と、ひとりごち、布巾を取っ払う。
「うーわー、ぜってー適当に洗ったぞ
グラスはともかくフードの皿やスプーン、フォークの類に微妙な汚れが残っている。
こういうのイヤなんだよっと、ぶつくさ文句言いながらもう一度洗い直す。
ドリンクカウンターの電気だけを点けた暗い店内に蛇口から流れる水音、カチャカチャと食器類を洗う音だけが静かに響く。少し乾かしてから拭きたいけど、昼からの予定に間に合わせたいのですぐに拭こう。濡れた両手をエプロンで拭き、乾いた布巾を手にする。
「やってるやってる」
スペアキーのリング部をくるくる、指先で回しながら日向音が入ってきた。
「あれ、古着屋のバイトは?」
「定休日。つか、あんた大学は?」
「今日は午前まで」
「ふーん。何しに来たの」
グラスを拭く手は止めずに珠璃は問う。
「忘れ物」
「楽屋と通路の間にほったらかしになってたベース、やっぱり日向音の?バンドマンの商売道具忘れてどうすんだよ」
「うん、やっちまった」
珠璃の憎まれ口をさらっと流し、日向音はステージ裏の楽屋へ。
ナイロンケースに収まった愛機を担いで戻ってくると、カウンターに両手をつき、言った。
「そうだ、珠璃。暇ならパワーレコード行かね?」
「ごめん。今日はトモダチ?かもしれない人と先約ある」
「なにそれ、かもしれないってなに?会って大丈夫な奴なん?」
うわ、出た、日向音の保護者面。
わざと、ごとん、と大きな音を立ててグラスを拭く手を止める。
うんざりと厨房からカウンターへ出てこれば、日向音の心配げな表情が飛び込んできた。
露骨に辟易しつつ、カウンターを挟んで日向音の真正面に立つ。
そうして、晶羽との出会いから現在の関係について、今日の昼から彼女とカラオケセッションだと日向音に説明した──、のだが。
「俺もついてっていい?」
「はあ?イヤだよ」
「だってさ、その人、カラオケでいきなり声掛けてきたんだろ?しかもお前の正体知った上で。あやしくね?こっそりネットに情報晒されてないよな?」
「なんでだよ。晶羽ちゃんそんなことしねーよ。ふつーに良い子だって」
声にも表情にもより険が増していく。
そんな珠璃にかまうことなく日向音は尚もたたみかける。
「そう言って『良い子』って散々言ってたヤツのせいで退学する羽目になったんじゃん」
「あれは……、つっても一応自主退学だし。別にあたしは何も気にしてねーし」
「珠璃は案外お人好しなんだよなあ。兄貴代わりとしてはマジで心配だっつの」
晶羽は違う。悪い人じゃない。
反論したくて堪らないのに、日向音を黙らせるだけの判断材料がまるで足りていない。
言葉が出てこない分、顔つきは露骨に反抗的なものへ。まるで理不尽に叱られた幼子みたいな顔。拗ねて不貞腐れた顔。子供っぽくてみっともない顔。
今ここで不貞腐れていたり、日向音と言い合う間にも時間は無駄に過ぎていく。
片付けはもうすぐ終わるが、施錠とかまだやらなきゃいけないこともある。とにかく時間が惜しい。
「……晶羽ちゃんが良いって言ったらにして」
時間もったいなさゆえに珠璃は折れた。それはそれは、見事にぽきんと。
ダメージ加工のジーンズの後ろポケットから携帯端末を取り出し、晶羽へ渋々RINEを送る。
『従兄弟が飛び入りでカラオケセッションしたい』と。
※某感染症の記述でピンときたかもしれませんが、本作の時間軸は2023年現在より数年先になります。(今更感)
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