第8話 Chameleon Gemsにて

(1)


 重たい防音扉を更に重たく感じながら、えいやっ、と開く。

 酒と煙草、人の熱気が籠り、柱や壁を埋め尽くすように多くのバンドのステッカーやフライヤー宣伝チラシ、ポスター、スタッフパスが貼り付けられた空間に珠璃は懐かしさが込み上げた。自ら出禁を課したのはまだたった数か月前だというのに。

 ライブイベント自体は終わった直後らしい。ステージのライトは消え、代わりに客電が会場全体をうっすらと照らす。トリを飾った出演者は撤収の最中だった。


「お、珠璃ちゃん。ひさしぶり」


 入店して早々、黒いキャップに枠の太い黒縁眼鏡、有名な洋楽ヘビーメタルのバンドTシャツ姿の男に呼びかけられた。古参スタッフの早川だ。


「お、おはようございます。ひさしぶりっすね……」

「いつものテーブル席空いてるよ」

「あー、うん……。いやさ、これ、バカ日向音ひなとに持たされたから渡しに来ただけっ。ライブも終わってるしすぐ帰るよ」


 早川にトニックウォーター入りエコバッグを突きつける。エコバッグ片手に、早川はもう一方の掌をひらひらと振って笑う。


「遠慮しなくてもいいって。今日は元々チャージ制だしドリンクさえ頼んでくれれば」

「でも」

「珠璃ぃー?」


 押し問答の間に割り込むかのような間延びした声に、げっ、と呻く。

 大音量のBGM、話し声など多くの音が密閉された空間にも拘らず、近づく足音、歩くごとにウォレットチェーンがちゃらちゃら鳴る音が鮮明に聴こえてくる。

 珠璃の目線から確認出来るのは、蛍光紫のカメレオンの影のイラストと店名ロゴがプリントされた黒いTシャツ。タイトなジーンズに白いラバーソウルの足元。一つに括った髪が背中から腰にかけて振り子のように揺れる。


「ほらほら、こっち来なって。早川くんにはこれからオープンマイクのPAやってもらうから」


 頭一つ分高い位置から声が降ると共に肩を軽く撫でてくる。

 他の人間なら、例え日向音だとしても、さわんなセクハラかとブチ切れるが、彼に対しては別段気にもならない。


「んで、なに飲むー?」

「……ジンジャーエール」


 諦め混じりに見上げた先には目鼻立ちの各パーツがはっきりした大作りの顔立ち。

 ライブハウス、Chameleon Gemsの経営者であり店長である珠璃の父、遠藤みやびだ。


みやびさーん、生二つとハッシュドポテトお願い……、あ!珠璃ちゃんか!ごめんごめん間違えた!」


 中央のステージから見て左方、凹型カウンターの左端に腰かけようとしたタイミングで常連客から雅と間違えられた。客はすぐに間違いに気づいたが珠璃は「別にいいけど、勘弁して」と苦笑する。

 身長や男女の骨格の違いがあるのに頻繁に間違えられるくらい、珠璃は雅と瓜二つだった。髪の長さも服装も似ているせいで後ろ姿、特に座っていると確かにパッと見だと判別しにくい。


「四十半ばの若作りのおっさんに間違えられるの、いい加減ヤなんだけど。つか、マジ髪切れ。オトンが髪切れば間違いもゼロになるっつの」

「ちょ、おま、言い方きっつ」

「って、全然響いてないな?」


 珠璃の暴言をへらっと雅は笑って受け流し、ビールサーバーを操作し始めた。

 珠璃はわざと大きくため息を吐き、ふと店内の様子をぐるり、見回す。


 今の会話に誰か聞き耳立てていないか、とか。

 携帯端末弄っている奴の手の動きを注視してしまう、とか。

 自分の様子を窺っている奴はいないか、とか──



「オトン」

「あん?なに」

「あたし、金は払うけどドリンクいらな──、あだっ!」

「アホ」


 小突かれた額を両手で抑え、あほぉぉおお?!と小さく吠える珠璃を置いて、雅はビールのジョッキ両手にさっきの客が座る壁際の簡易テーブル席へ行ってしまった。他のテーブル席ではオープンマイク希望者たちがあみだくじで順番を決めている。


「今更つまらんこと気にしてんじゃないよ。炎上の煽りもクソも、別に店は潰れてなきゃ客足も変わってない。もうみんな忘れてんだろ?何回も言わせんなって」


 カウンターに戻ってくるなり、雅は珠璃に何度となくかけた言葉をまた何度目かにかけてきた。


「つーことで。絶対酒飲んでるって誤解されない方法あるから大丈夫。遠慮なく好きなモン注文しな」

「……マジ?」

「おお、マジでマジで」

「んじゃ、改めてジンジャーエール」

「ん。ちょっと待ってな」


 雅のノリの軽さにいささか不安を覚えるが、まあ、いつものことだ。







(2)


「なんなんだよこれ」


 数分後、雅から受け取ったジンジャーエールのグラスには『これはお酒じゃありません。ジュースですから』と、やけに雄々しい字で油性マジックで書かれていた。


「お前専用のグラス」

「いらんことすな!」


 カウンターの更に奥、厨房から漂う油の匂いと日向音の笑い声が珠璃の神経を逆なでる。絶対あいつ日向音の仕業に決まってる!

 別の意味で来るんじゃなかった、と、後悔を流し込むように、ジャンジャーエールをぐいと煽る。辛口なので刺激に喉がひりつく。


 ステージではオープンマイクが始まっている。

 アコースティックギター抱えた大学生くらいの女の子がマイクの前に立ち、歌い出す。


「お、Rainbow Plastic Planetsの曲じゃん。しかもキラがいた頃の。いいねぇ、キラ好きだったんだよなぁ」


 ハッシュドポテトの皿を手に日向音がカウンターへ出てきた。

 珠璃はふうん、と特に興味なさげに鼻を鳴らし、ジンジャーエールをちびちび啜る。


「あたし、あのバンドの曲そんなに知らないんだよね」

「そりゃもったいないなぁ、ねぇ、叔父さん」

「俺も二、三曲しか知らんけど、声はもろアイドル系なのに歌い方や佇まいがこう、枠に収まりきらない熱さっつーか、ロック魂?を感じたっつーの?あんま安易にロック魂なんて言うの、安っぽくて好きじゃねーけど」

「へえ、オトンまで褒めるとか珍しい」


 Rainbow Plastic Planetsってどんなバンドだったっけ、と、ほとんど残っていない記憶を無理矢理ほじくり返してみる。


 形態は女子の4ピースバンド。

 楽器隊は素人よりいくらか上手いレベル。彼女らより上手いアマチュアなんてごまんといる。

 芸人並みにトーク力の高いサバサバした性格のギターとドラム、男受け狙いのビジュアル特化のベース。正直、演奏技術よりキャラクターの濃さで売ってる印象が強い。


 肝心のボーカルだ。

 ハイブリーチのロングウルフヘアに七色メッシュに濃い目のアイメイク。女子にしてはやたら背が高く、拒食症疑うレベルで痩せていた、ような。

 声質は雅が言及したように甘ったるいアイドルボイスで──、ここで既視感が湧く。


 折しも、ステージから聴こえる曲はRainbow Plastic Planetsの一番有名な曲。珠璃でも知っているポップロック調のラブソング。

 その曲をステージで歌っている子はキラの歌い方をほぼ再現し、声質もよく似ていた。


 既視感は益々持って強くなる。

 既視感が強まるにつれ、とある疑惑が次々と浮かんでは消え、浮かんでは消え──






「いやいや、まさか」


 晶羽にRINEで探りを入れてみようか迷い、やめる。

 訊ねたら最後、彼女は二度と自分と会ってくれなくなりそうな予感がした。


 せっかく気が合うだろう音楽友達ができたのにみすみす失う真似はしたくない。

 だから、危うく送りかけたつまらない質問の代わりに全然別の内容をRINEする。


『また一緒にカラオケでセッションしよう』と。

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