第7話 迷い

(1)


 宵を過ぎ、喧騒を増す繁華街から離れた高架下を珠璃はひとり歩く。


 高架下周辺は全国展開や地元チェーンの大手居酒屋が中心の繁華街と雰囲気とは違い、古い暖簾を掲げた個人経営の飲み屋や定食屋、通好みの日本酒やワインのバー、隠れ家的雰囲気の洋食レストランが軒を連ねている。あとはライブハウスやライブバーなども。

 それらの店の間にアパートやマンションが複数建っていて、やがてオレンジの三角屋根とコンクリート製の三階建ての古いビルが見えてきた。


 そのビルの一階はスナックや居酒屋、焼き肉屋、マッサージ店などの店舗、二階は美容院、耳鼻咽喉科の病院、喫茶店と店舗と一階の各店舗経営者の住宅。三階は全て住宅として使用されている。

 このビル二階の角部屋で珠璃は父と長年暮らしている。


 ビルをもう一棟建てられそうな広さの各店舗用駐車場を横切る。ビルの端、螺旋状の外階段(今時エレベーターがない!)へ向かい、階段の手前で足を止める。

 外階段は上階のみならず地下まで続いていた。地下へ続く階段の奥、真っ黒なペンキ塗装の防音扉上部には『Chameleon Gems』という金色の看板。扉の前にはOPEN/STARTと各時間、イベントタイトルと出演者の名前が書かれた立て看板。珠璃の父が経営するライブハウスだ。


 今日のライブの出演者は誰だろう。知り合いもいるかな。

 目を凝らし、階下の立て看板の文字を確認してみる。何となく読み取った内容から察するに、今夜はアコースティックデイ。ライブが終わり次第、出演者もお客も混じえてオープンマイクに切り替わるだろう。オープンマイクとは演奏時間、または演奏曲数の縛りを設けた上で、誰でも気軽にステージで自由に演奏できる状態を指す。


 螺旋階段をそろり、そろそろ、抜き足差し足で降りていく。

 閉ざされた扉の向こう側、珠璃の足音なんて絶対聞こえていないってわかっているのに。


 不審人物もいいとこだ。

 炎上の煽りが原因で出禁にされた訳じゃない。

 父も従業員たちも『珠璃は何も悪くない』って責めたりしなかった。

 だから、堂々と入っていけばいいんだろうけど。


「やーめた」


 半分まで降りた階段を再び上がっていく。

 最後の段を上がると、錆びた階段の手摺にもたれて晶羽にRINEを送る。

『マジで一緒に組む話考えといてね!』と。


 出会ったばかりじゃ正直厳しいかもしれない。でも彼女と一緒に組めたら絶対楽しい。

 今日のセッションを思い出し、楽しかった時間を反芻しかけ──


「なにやってんの」

「うわ……っ」


 悲鳴を上げる手前で慌てて両手で口元を覆う。

 ばくばく鳴る胸を抑え、背後に立った背の高い青年を睨む。

 ときどき彼女の父の店を手伝ってくれている三つ上の従兄弟だ。


「……脅かすなよ日向音ひなと

「いやあ、怪しい人影が店の前にいるし誰かと思って」


 怪しいってなんだよ、と渋い顔つきのまま、日向音が両手に提げるエコバッグを見やる。


「買い出し?」

「そ。トニックウォーター切れたから、この辺のコンビニをハシゴしてきた」

「うーわ、そりゃご苦労~」

「おま、もうちょい労いらしい言い方……」

「はいはい、ご苦労ご苦労~」


 パンパンと調子でもとってやろうかと思ったが、さすがに自重しておく。

 日向音は珠璃のふざけた態度に反応せず、頭を大きく振って目にかかる前髪をどかしていた。

 前髪の下は珠璃とよく似た大きな猫目。だが、彼の方が目つきはずっと柔らかい。細長い鼻筋に形のいい薄い唇、女性的な細い輪郭が中性的である。無造作な金茶色の長短髪も益々中性的な雰囲気を醸し出す。地元で人気のアマチュアバンドのメンバーでもあり、女子にもよくモテる。


 しかし、男性アイドル的な容姿だろうと人気バンドで活躍していようと、珠璃にとっての日向音は気の置けない兄みたいな存在。他の女性ならまず言わない、思いもしないことをズバズバ言ってしまう。


「いい加減前髪切ったら?邪魔くさくない?」

「いーんだよ。長い方が落ち着く」

「そろそろ就活の時期なのに?真面目に就活するか知らんけど」


 日向音はハハッ……と苦笑するのみでその問いには答えなかった。

 珠璃もそれ以上は深く追求しなかった。


「立ち話もなんだし寄ってけば?」


 エコバッグを提げた右手で日向音が店の扉を指し示す。

 珠璃はちらっと横目で日向音の右手の先を見たあと、目を伏せ頭を振る。


「んー……、やめとく」

「おう、わかった」

「じゃ、あたしアパートの部屋に帰るから」


 日向音に背を向け、彼の方は見ずに手を振って歩き出す。


「珠璃」

「なに」


 足は止めずに静かに、且つ、ちゃんと聴こえる程度の声で答える。


「叔父さんもだけどお客さんたちも『気にせず前みたいに遊びに来ればいい』って言ってたから!」

「…………」


 日向音の叫びに思わず止まりそうな足を辛うじて動かす。

 返事はあえてせず、唇をきつく噛んでいると、不意に背中のギターケースを強く引っ張られた。


「は?なに。何なの」

「重たいから一つ持って」

「はあ?」


 突き出されたエコバッグと日向音の顔を交互に見比べる。


「いや、おめー男だろ。逆ならともかく」

「あー、そういうの差別じゃね?男だから重い物持つの当り前って考え、古っ」


 いやいや、さっきまで普通に平気な顔して持ってた癖に。などと、呆れる間に日向音は流れるような動きで珠璃にエコバッグを押しつけた。

 余りにごく自然すぎて珠璃も珠璃でつい受け取ってしまった。我に返った時には日向音はすでに階段を下り、店の扉の前にいた。


「はい、よろしくー」

「は?だからっ、よろしくじゃねーし!あたし帰るってば!うぉい!聞いてんのかコラ!聞いてねーな!?」


 掌を振り振り、扉の中へ消えていく日向音の背中に罵声を浴びせる。


「どーすんだよ、これ……」


 左手にずしりとくるエコバッグを持ち上げ、嫌そうな顔で見つめる。

 いっそこれ持ったまま帰ってやろうか。否、あいつ日向音が困る分には知らんけど、父やスタッフは困らせたくない。


 くっそ、あーもう、行きゃあいいんだろ!行きゃあ!


 珠璃はやけくそ気分で叫び、螺旋階段を駆け下りていった。







(2)


 降車駅から徒歩一分。

 県下有数のマンモス校の大学所在地であり、学生向けアパートや寮が多数占める内の一棟、ライトグレーのコンクリート外壁、各部屋の東南に窓とベランダがある築十年のアパートで晶羽は暮らしている。

 近所にコンビニエンスストアが三軒、ドラッグストアもスーパーもある。家賃も立地条件の割に安い方だ。


「ただいまぁ」


 電気を点け、靴を脱ぎ捨てるなり、窓に近い壁際の小型水槽へ一目散に向かう。飼育中のベタの様子を窺うのは晶羽の帰宅時の日課である。ちなみにメダカより一回り大きく細長い体型のプラカットという種だ。

 トラディショナルやハーフムーンなどと比べ、鰭も小さく優美さには欠けるが、晶羽のは赤い錦鯉に似た鮮やかな体色をしている。それに原種に近い分丈夫だし水槽内で鰭の引っ掛け事故を気にしないで済む。


 高校の頃、特売で売っていた瀕死のベタを飼って以来、バンド時代も常にベタを飼い続けている。ベタのいない生活は考えられない。

 バンド時代もベタ飼いたさに事務所の寮もずっと一階だったし、今のアパートも一階で暮らしている。


「今日は仕事でミス連発しちゃってねー、でも、楽しいこともあったんだよー」


 ひとりでベタに話しかけながら、脱いだキャスケットとチェスターコートをクローゼットへしまう。

 端から見たら怪しい光景だが晶羽にとってベタは犬猫に等しく大事な家族。晶羽の気配に鰭を広げ、ダンスを見せる光景は心が和む。


 シャワーを浴びる前に就寝準備をと、フローリングに布団を広げる。

 枕元の携帯端末を充電器に繋げるため、電源を切ろうとして手の中で端末が震える。

 着信名を確認した途端、晶羽の頬が引き攣った。


「もしもし……」

『もしもし?元気?』


 受話器越しの母の声に緊張が高まっていく。


『今月分の家賃とガス代、光熱費、水道代も振り込んでおいたから確認しておいてね。あと、ほうれん草いる?お父さんの畑でいっぱいとれたから、いるなら送るけど』

「あー……、おひたしとかソテーしたいし欲しい、かな」

『わかった、じゃあ送るわ。いつなら受け取れる?』

明々後日しあさって

『平日だけどだいじょうぶ?』

「バイト休みだから」

『あんた、平日バイトしなくていいの?結婚式場のバイトだけで生活費足りてるの?掛け持ちした方がいいんじゃない?』


 また始まった。心配なのは理解できる。

 でも、毎回電話かかってくる度、生活に口出しするのは勘弁してほしい。


「平日のバイトなら今探してるってば。あと、お母さん。何回も言うけど家賃とかも自分で払うって。貯金ならいっぱい残ってるし……」

『何言ってるの!またいつ引っ越さなきゃいけなくなるか、わからないでしょ?貯金は万が一の引っ越し費用に充てなきゃ』

「なんですぐに引っ越し前提で話すの、今度は大丈夫かもしれないのに」

『そう言って今まで何回アパート引っ越したの?』


 一般人に戻っても住所を突き止められ、自宅アパートや周辺写真をインターネットに晒されたせいで、引っ越しは三回した。現在のアパートに引っ越してからは今のところ晒しの危険はないが、油断は禁物だ。母の指摘に反論できない。


『お母さんはね、本当は……、いつでも家に帰ってくればいいって思ってる』

「うん、ありがとう。お父さんとお兄ちゃんが反対するんでしょ。しかたないって、皆に迷惑掛けちゃったし」



 高校一年の夏、音楽雑誌に掲載されていたボーカリスト発掘オーディションに軽い気持ちで応募したのがすべてのはじまりだった。

 一次選考で落ちるだろう。記念受験的に応募した筈なのに、あれよあれよと三次審査まで突破。

 最終審査手前の四次で落選したものの、審査員の一人に気に入られ、彼がプロデュース予定のアイドルバンドに誘われたのだ。


 最初は田舎の女子高生だからとからかわれているか、騙そうとしているかと警戒したし、何より家族が芸能界入りに大反対していた。

 プロデューサー及び関係者直々にわざわざ家族と何度も話し合いを重ね、『通学する地元の高校を必ず卒業』『高校卒業するまでは音楽活動より学業優先』『絶対成功すること』『本名じゃなくて芸名を名乗ること』『家族には絶対迷惑かけない』ことを条件に、家族の同意を得られた。


 晶羽は家族との約束通り、音楽活動は夏休みなどの長期休暇を利用し、ちゃんと高校も卒業した。本名と掠りもしない芸名を名乗った。

 高校卒業後、本格デビューののちバンドは瞬く間に人気に火がつき、勢いは飛ぶ鳥落とす勢い。新曲出せば毎回初登場首位、デビュー後一年足らずで武芸館2daysライブも大成功した──、が。


 濡れ衣とはいえ、最終的に不祥事で脱退した晶羽自身は大失敗に終わった。

 五つの約束の内、二つも破ったことになる。


 晶羽の本当の地元は隣県の小さな町。よくも悪くも人との繋がりが密接な田舎へ戻るなんて晶羽には到底無理だった。晶羽には薬学部に通う優秀な兄がいる。両親もまだ在職中だ。

 もうすでに多大な迷惑をかけてしまった以上、更に新たな迷惑をかけたくない。


 両親も兄も激怒しつつ最終的には許し、不祥事の真実も信じてくれた。けれど、『当分一緒に暮らすのは難しい。生活費は送るから別の土地で一人で暮らして欲しい』と実家へ戻ることは許されなかった。もちろん晶羽に拒否権などある筈がない。




「うう……、疲れたよぅ……」


 母との電話を終えると端末を握りしめ、ぼすん!と布団に倒れ込む。

 珠璃との楽しかった時間の余韻は跡形もなく消え去り、代わりに現実が押し寄せてくる。


 アマチュアとはいえ音楽活動再開しようとしている。家族はどう思うだろう。

 懲りない奴と呆れられるだけならまだしも、反対されたら。

 しかも珠璃も図らずも炎上騒ぎを起こしている。彼女も濡れ衣だけれど、炎上した者同士で活動したら──、良くも悪くも、否、どちらかと言うと悪い方の注目を集めるのでは、なんて。


 とりあえず、今はまだユニットの話は保留してもらおう。

 珠璃とは趣味の音楽友達からの交遊から、とお願いしてみよう。

 まずはそこから始めてみようと決心した直後、再び掌中の携帯端末が大きく震えた。


 母が何か伝え忘れたことでもあってかけ直してきたか。

 気が重い……と、のろのろと仰向けになり、端末を頭上に掲げる。


 母からの着信じゃない。

 珠璃からの再びのRINE。


 おやすみと言って会話を終わらせたのに、いったいなぜ。

 通知を素早くタップ。


『ユニットの話は別にして』

『今度またカラオケで遊ばない?』


 晶羽の口から低い呻きが漏れる。

 その拍子に掌から携帯端末がすり抜け、眼鏡へと落下した。


「いたっ!」


 小さく叫び、ずれた眼鏡をかけ直す。

 結構強く眼鏡に当たった。多少でも変形してないといい。

 いや、この際眼鏡はどうでもいい(いやいや、決して良くはないけども)それよりも──


「どうしたらいいと思う?」


 珠璃への返信に悩み、布団に転がったまま水槽を見上げてベタに話しかける。

 しかし、当然返事などある筈もなく。硝子越しに威嚇行動されただけだった。

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