第2話 半端者
(1)
約二年半後の某地方都市──
スクランブル交差点が青信号に変わる直前、懐かしくも煩わしい曲が
春の空によく似合う爽やかな恋の予感を歌う、明るいポップロックは気分が上がる。けれど晶羽の心は空模様とは反対に曇っていく。
目深に被った黒いキャスケット越しに交差点の向かい側、目抜き通りの角地に立つ商業ビルを見上げる。曲はあのビルの巨大スクリーンから流れてくる。
紺色の薄いチェスターコートのポケットに手を突っ込んで携帯端末を取り出す。音を遮断するには別の音で対抗すればいい。
バイトと充電中以外ほぼつけっぱなしのワイヤレスイヤホンを片手で位置調整し直す。音量も上げてしまおう。歌詞もメロディもバンド全体で生み出すグルーヴ感もすべて、未だに身体の芯まで刻まれている。だからこそ耳を塞いでしまいたい。
青信号は点滅し始め、周囲の歩調が慌ただしくなる。
早く渡らなきゃ。頭では分かっているのに晶羽の足はその場に縫い留められたように動いてくれない。渡りもしないのに横断歩道の前に立ち尽くす晶羽を、皆迷惑そうに避けては先に渡っていく。
端末の音量を上げるのは諦める。急いで渡らないと赤に変わってしまうから。走ればまだ間に合うかもしれない。
「あ」
ようやく踏み出した一歩は間に合わなかった。車道にはみ出たつま先をすごすごと歩道に戻す。この交差点は一度赤に変わったら二分間は待たされるのに、青でいる間が一分足らずと短い。
ため息の代わりに晶羽は今度こそ端末の音量を上げる。これであの曲は彼女の耳も心も害してこない、筈。
信号はまだ変わらない。
曲は最後の大サビへ向かう手前で映像が途切れ、真っ白な背景の画面に現在のメンバー三人が並んだ映像に切り替わる。
ギターのマリナもドラムのカリンも元気そう。ベースのヒナのアイドルスマイルが完璧なのも変わらない。
画面越しに手を振る元仲間の輝きから目を逸らす。リーダー兼トークが得意なマリナが朗らかに始めた宣伝は新曲発売か、新しいコンサートツアーの発表か。内容はどうであれ晶羽が関心を寄せることなどない。
端末の音量を更に上げようとして──、スクリーンから流れてきた言葉に指が止まる。
『この度〇月×日を持ちまして、Rainbow Plastic Planetsから私たちは全員卒業します』
「……は?」
無意識に漏れた声は思いの外大きく、何人かの視線が晶羽へ向かう。
しかし、すぐに彼らの関心は晶羽から巨大スクリーンへ変わり、卒業と言う名の解散宣言に次第にざわつき始めた。
「ヒナが一番人気だったけどあの子かわいいだけだもんね。マリナの歌はイマイチだし。カリンとのトークでの絡みはおもっしろいけどさ」
「そりゃ歌はキラの方が全然良かったって。アイドルにしちゃ上手かったし。あーあ、脱退しなきゃよかったのに」
「不祥事起こしたから無理じゃない?謝罪会見の態度みっともなかったじゃん」
話題がまずい方向へ変わりつつある。
これからバイトがなければ踵を返してアパートへ帰ってしまいたい。
信号早く変わって。変われ変われ変われ。
キラなぁ……、というつぶやきがまだ漏れてくるとともに、一段と強く不躾な視線が晶羽を貫く。
ねぇ、あの子……と、囁く声と好奇と猜疑がないまぜの視線は晶羽の皮膚を突き破り、心臓までちくちくと突き刺していく。突き刺し方自体はぬるい筈なのに、一刺しごとに確実なダメージを負わせてくる。
いちいち反応しない。俯いてはいけない。
他人の空似だと思わせなければ。
脇を、胸から腹にかけて、じわり、じわじわ冷や汗が噴き出す。
バイト中は別の服に着替えるにしても、汗がしみついた服を帰りに再び着用しなければならず、晶羽の気を滅入らせていく。更に正体を勘づかれるのは怖すぎて考えたくない。
黒染め繰り返したおかげで明るすぎるハイブリーチの髪はだいぶ落ち着いてきた。腰近くまであった髪の長さもセミロングまで切った。
整形でくっきりさせた二重瞼も元の奥二重に戻した。コンタクトから眼鏡に変えた。
173㎝の高身長だけは直しようないけど……、今のバイト先で『キラに似てるって言われない?』って疑われたけど、どうにかごまかせている(と信じたい)。
幸いにも晶羽の願いは通じたようで視線の主たちはまさかね、と肩を竦め合い、彼女への興味を失くしてくれた。
巨大スクリーンの映像は、共演者との不倫で降板した若手舞台女優のニュースへと切り替わる。周囲の興味もそちらへ移っていく間に信号がやっと青に変わった。晶羽は誰よりも早く、真っ先に横断歩道を渡っていった。
(2)
巨大スクリーンのビルから地下鉄一駅分離れた繁華街の中に結婚式場がある。晶羽は披露宴の音響スタッフとしてそこで働いていた。
ただし、スタッフといっても未だ見習いでなかなか独り立ちさせてもらえていない。理由は単純。半年近く絶ってもミスが減らないせいだ。
今日も担当した披露宴でやってしまった。新郎新婦の三度目の入場途中、失敗を恐れすぎて却って手が滑り、BGMの音量を下げ過ぎてしまった。
披露宴会場で音を途切れさせるのはご法度。特に会場中の意識が新郎新婦に一手に集中する入退場、ウェディングケーキ入刀、両親への手紙などの場面で音への違和感を持たせてはいけないというのに。
「もういい。どいて」
「すみません」
指導役の女性スタッフが晶羽を音響卓の前から押しのけ、すばやく音量を調整する。辛うじて事なきは得たものの、危うく
「すみませんでした」
二度目の謝罪も全面無視された。音響卓は会場の隅、ただでさえ追いやられたかのような場所にある中、晶羽も問答無用で追いやられたように更に隅へと身を縮こませる。
薄闇でピンスポットを浴びる新郎新婦は両親への感謝を切々と語り、むせび泣く。申し訳なさといたたまれなさで晶羽も泣きそうだ。
この仕事
音楽に少しでも携われるなら。音響装置の知識も多少はあるから。
面接を受けるまでは自信満々だった。後から思い返せば、晶羽はあくまで要望を出す側としての知識しかなかった。
実際、初めて音響装置を自分の手で触れてみて思い知る。手早く音の微細な調整を行うには粗忽で鈍くさい自分には不向きだと。
否、音響スタッフに限らず、ファミレスの調理補助もオフィスでの簡単なデータ入力もコールセンターのオペレーターも晶羽には向いていなかった。
製造業の派遣アルバイトは、仕事自体は問題なかったが、
最終学歴は高卒、車の運転免許以外に何の資格も持っていないからできる仕事は限られる。その限られた仕事でさえ、そつなくこなすことが晶羽には少し難しかった。
『何がなんでも成功してやるっていう気概と覚悟がないんだったらレールの上に乗っておけ』
今になって家族に言われた言葉は正しかったと苦しい程痛感している。
晶羽はただ歌うことが好きで、好きなことを仕事にできればそれでよかった。
歌さえ歌わせてくれるならあとは事務所のスタッフ、マネージャーの意見に従い続けていた。
バンドメンバーが他のグループに対抗意識持つ中、晶羽は我関せず歌うことしか考えなかった。
人気や成功、他グループの売り上げ比較なんかどうでもよかった。テレビやYou Tubeチャンネル、ライブのMCなどのトークが苦手だからと、おしゃべりが得意なマリナやカリンに任せていた。
日々新しい歌を覚え、歌い、ときどきファンの前でステージで歌えるだけで晶羽は充分満足だった。本当は、プロだからこそ歌以外の面(最もたる例は不祥事に繋がる行動への自衛の足りなさだろう)にも気を配らなければならなかったのに。
レールの上にも乗りきれない、好きなことさえも挫折した半端者。
半端者なりに今は違う人生で頑張ってはいるつもり──、なのに、本気で頑張れているのか最近じゃ不安に思うことも多い。
しかし、晶羽が不安に駆り立てられる理由は他にもある。
彼女自身はまだその正体に気づいていない、否、あえて気づかないよう心の奥底に封じ込めていた。
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