第4話

 混むから、という理由で祭りをやっている場所より少し離れた公園を待ち合わせ場所にした。指定した時間は18時なのに、30分も早く来てしまって、時間を持て余す。


 もしかしたら緊張しているんだろうか。手持無沙汰で、ベンチに座りながらスマホをいじっているけれど、その小さな画面内の情報は何も頭に入って来やしない。そういえば、俺の家じゃないところで会うのは、告白されたあの日以来だ。


 15分もしないうちに、公園の入り口の方から砂を蹴る音が聞こえてきて顔を上げる。薄暗くなった公園に、ハルの鮮やかなピンクの髪と、それより少し薄い桃色の生地に、大きな黄色い花の咲いた浴衣が、やけに映えた。



「ごめんなさい、待ちましたか」



 一瞬、フリーズしていたことに気が付く。目の前の彼女はやたら不安げに、浴衣の裾やら帯に手をやっていたけれど、気にしすぎて逆に崩してしまいそうだ。



「いや、大丈夫。浴衣似合ってる、あんま触ったら崩れんぞ」



 行くか、と声をかけて立ち上がる。ハルはただ黙って頷いて俺の後ろをついてきた。下駄を履く彼女は歩きづらそうで、俺は普段より歩幅を小さくして、彼女の隣に並んだ。アスファルトで舗装された歩道に出ると、彼女の下駄がからんころんと鳴る音が夜道に響く。


 遠くの方から祭囃子の音が聞こえてきた。会場に近づくにつれて人が増えて、俺は少し顔をしかめる。ハルも人混みは得意でないのか、困ったような顔をしていた。


 どんっと何かがぶつかる音と、ハルの小さな悲鳴が聞こえて、俺は慌てて振り向く。バランスを崩した彼女が、そのまま人の波に流されかけるのが視界の端に見えた。



「ハル、」



 慌てて腕を伸ばして彼女の手を掴む。ホッと安心したのも束の間で、なぜか、ハルは俺の手を振り払った。


 やけに怯えたその顔は、見覚えがあった。いつかうっかり押し倒してしまった時の、あの時の表情だった。暗い中でもはっきりとわかるその顔が、俺の動きを一瞬止める。


 彼女はそのまま俺に背を向けて走り去ってしまった。下駄と浴衣で走りづらいだろうに、時折躓きながら遠ざかっていく。


 追いかけなければ、と頭の中ではわかっていたのに、なかなか足が動かなかった。祭りに向かう人たちが迷惑そうに俺の体を避けていく。楽しそうな子供の声が、遠くの方から聞こえてきた。




「やっぱりいた……」



 自分の家に戻ってくると、うっすら予想はしていたけれど、ハルが気まずそうな顔で扉の横に立っていた。うつむいた横顔はまだ晴れなくて、この間祭りに行きたいって言っていたお前はどこにいったんだ、なんて思ってしまう。


 彼女はちらりとこっちを見たきり、なんの返事もしないので、しょうがないから部屋の鍵を開けて中に入る。ハルもバツの悪そうな顔をしながらも、その後ろをついてきた。


 2人の間に流れる奇妙な沈黙に耐えかねて、煙草を持ってベランダに出る。かちりと音を立てて火をつけたときに、どん、と花火の音が鳴って、顔を上げた。


 もうそんな時間か、とベランダの柵にもたれかかりながら、ぼんやりと花火を眺める。距離が近いせいか、音が体に響いて、花火が上がるたびに骨がびり、と震える感覚がする。


 そんな音につられてか、ハルもベランダに出てきた。俺は慌てて煙草を灰皿に押し付けて、彼女から遠ざけるように置く。


 俺と同じように柵に寄りかかって、花火を眺める彼女の目は、きらきらと光を反射していた。赤、青、緑と色の変わっていくそれをばれないようにこっそりと横目で見つめる。



「本当は、男の人苦手なんです」



 ハルは変わらず花火を瞳の中に捉えたまま、そんな風につぶやいた。俺は驚いて、顔を彼女の方へ向ける。



「……じゃあ、なんで俺に付き合ってとか言ったの」



 思わずそう問いかけると、彼女はちょっと複雑そうに笑って、少し考えるように首をこてんと傾けた。



「親の、再婚相手があなたにそっくりで。どうしても好きになれなかったんです。母が、どうしてあの人が好きなのかもわからなかった。だから、あなたと付き合えば、わかるかと思ったんです。母の気持ちが」



 そんなことで、と口に出しかけて、慌てて口を噤む。きっと、彼女にとっては大きな出来事だったんだろう。こんな俺にストーカーをするくらい。



「そんで、母親の気持ちとやらはわかったわけ?」



 煙草を取り出しかけて、その手を引っ込める。その動作に気付いてか、俺の発言にか、彼女は苦笑いをして、首を振った。



「いいえ、でも」



 ハルは俺に向けていた顔を、花火の方へ戻した。もうラストスパートなのか、いくつもいくつも、夜空に花が咲いている。音が追いつかないほど。



「ヨウさんといるのは、楽しかったです」



 最後の花火が上がって、途端にあたりは静かになった。ハルは残念そうに、眉を下げて、煙の残った空を見つめている。



「……俺も、ハルがいなかったら寂しいくらいには、楽しかったよ」



 小さな声で言ったけれど、今そんな俺の声をごまかしてくれる音はどこにもなくて、しっかり彼女の耳に届いてしまったらしい。ハルはなんだか照れたような、嬉しそうな顔で笑っていた。



 次の日から、彼女は家に来なくなった。そんな気はしていた。けれど、何も置かれていないテーブルを見ると、なんだか少し、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような、そんな気分になる。


 もう煙草を吸うために気を使ってベランダに行く必要はないし、彼女のチャイムに朝起こされることもないのに、どうしようもない喪失感が俺を襲っている。


 ハルはもういないのに、今も変わらず煙草はベランダで吸ってるし、朝の11時には目を覚ましている。彼女がいたのは、たった3週間だった。それなのに、その間に体に馴染んでしまった習慣が元に戻らない。


 どうせそのうち不健康な生活に戻るんだろうし、今のうちにそんな暮らしを楽しんでもいいかもしれない。


 9月に入ってから1度だけ、ハルを外で見かけた。髪色はもう黒に戻っていて、セーラー服を着て友達と並んで歩いていた。本当にただの、普通の女子高生すぎて、彼女と一緒にいた時間が夢だったんじゃないかとすら思ってしまう。



ハル、宿題終わった?」



「終わったよー」



 そりゃ、真面目にやってましたからね、なんて心の中でつぶやいて、彼女たちに背を向けた。



「お、ヨウじゃん、今から大学行くん?」



「おー」



 目の前から歩いてきた翔太に軽く手を挙げて、そのまま2人で並んで歩く。


 ツクツクボウシが鳴いていた。夏休みの終わりまで10日を切っている。もうすぐ、夏が終わる。

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大きな空っぽのハート 阿良々木与太/芦田香織 @yota_araragi

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