第3話

 がちゃり、と部屋の扉を開けると、目の前にハルがいた。今日は大学に行かなければならない日だと言うことをあらかじめ告げていたはずなのに、来てしまったのだろうか。彼女は鞄を背負ってる俺を見て、あっ、という顔をした。忘れていたのか。



「ごめん、俺もう出るけど夕方ぐらいに帰るし、あれだったらここいる?」



 そうたずねると、ハルはこくんとうなずいて、俺から鍵を受け取った。じゃ、とそのまま手を振ると、彼女は頭を下げた。なんだか空ぶった気分になったけれど、特に気にせずにそのまま歩き出す。


 教室の扉を開けた先に、翔太が見えて、俺は思わずげ、と声を出した。翔太はそんな俺にかまうことなくにやりと口の端を上げて俺の方へ寄って来た。



「なあ、例の女子高生とはどうなってんの」



 やっぱりか、と小さく舌打ちをする。翔太は俺が答えるまで引く気がないようで、逃がさないと言わんばかりに肩を組んでわき腹をつついてきた。



「……なんか、いろいろあって付き合ってる」



「は?」



 完全に素の声だった。本気で言ってんの?とかうるさい翔太の声を完全に無視して、まだ白の目立つキャンバスの前に座る。パレットの上のかすれたピンク色がなんとなく彼女を連想させて、俺は小さく首を振った。


 翔太は反応を示さない俺に飽きてか、少し離れた場所に置いたキャンバスの前に戻った。それでも時々視線がこちらの方に向いていて、明らかに何か気にしているのがわかる。



「どこまで進んだの」



 こらえきれなくなったらしい翔太がそわそわしながらこちらに向かってたずねてきた。



「……なんも」



 困惑した顔のハルが頭をよぎって、俺の手は一瞬止まる。翔太は俺の動揺に気が付いてそんな訳ないだろ?と言ってきたけれど、俺は黙って首を振るだけだった。


 実際、あの事故以来、本当に何もない。お互い、そういう空気を避けている。というよりは、俺が避けていた。彼女にあんな顔をさせるのが怖くて、何もできない。


 翔太は本当に何もないらしいとわかったのか、自分も黙々と作業を進め始めた。その反面俺の手は完全に止まってしまって、気分転換のために煙草とスマホだけ持って構内の喫煙所に向かう。


 校舎から外に出ると、やけにうるさい蝉の声と、思わず顔をしかめるほどの熱気が俺を襲った。


 煙草に火をつけて、俺とハルについてのことを考える。恋人、という関係性のはずだ。多分。その確認が必要なくらい、俺と彼女の距離は遠かった。


 会話はする。何か声をかければ返ってくるし、ハルから俺に何か尋ねてくることもある。他愛のない話ばっかりだった。好きな映画だとか、本の話だとか。意外と好きな作家が一緒で盛り上がった日のことを思い出して、恋人らしさのかけらもなさに苦笑が漏れる。


 でも、楽しかった。そんな何気ない空気が心地よかった。別にこのままでも構わないかと思うくらいには、彼女といる時間が落ち着くものになっている。


 そんなことを考えているうちに、気が付けば2本目の煙草に火をつけていた。何も考えずに深々と煙を吸い込んでから、灰皿にぐしゃりと押し付ける。腰掛けていたベンチから勢いをつけて立ち上がり、教室の方へと戻った。




「あっつ……」


 独り言ちながらアパートの扉を開けた。部屋の中の電気はついていて、冷房が効いている。ひやりとした風が頬を撫でて、俺は思わずほっと溜息をついた。


 ハルは部屋の真ん中のテーブルにほっぺたをくっつけて眠っている。なるべく音を立てないように近づくと、すぅすぅと小さな寝息が聞こえてきた。



「ハール」



 小さな声で名前を呼んでも起きない。顔を近づけても、目を覚まさない。



「……ハル」



 これでも起きなかったらキスでもしてやろうかと思った矢先、ハルはゆっくりと目を開いた。タイミングがいいやら悪いやら、俺はさっと彼女から離れる。



「あー……おはよ、これあげる」



 帰り道で町内会のおじいさんらしき人が配っていたうちわを、ハルの方に差し出すと、寝ぼけ眼の彼女は黙ってそれを受け取った。俺はそのまま荷物を下ろし、ベランダに出ていつも通り煙草に火をつける。


 外から彼女の様子をうかがうと、やけに熱心にそのうちわを見つめていた。確か、夏祭りのお知らせかなんかだったはずだ。



「行きたい?」



 彼女はぱっと顔を上げたけれど、うなずきも、首を振ることもせずに、ただ俺とうちわを見比べていた。3秒見れば内容を把握できそうなうちわをそんなに見ているということは、きっと行きたいんだろう。


 ハルは、自分の欲求を口で伝えようとしないことに、最近気が付いた。やりたいこととか、見たいものがあっても自分からは言おうとはしない。でも、その表情がわかりやすいことにも、同時に気付いた。



「今週末だろ、行くか」



 そう言うと、彼女はわかりやすく明るい顔になって、勢いよく頷く。最初からそう言えばいいのに。


 人混みも、夜の蒸し暑さも、あんまり好きではなくてここ数年祭りなんて言ってなかったけれど、ハルと一緒ならまぁいいか、なんて、少し楽しそうだ、なんて思ってしまったのだ。

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