第四話〝闇の迷宮〟



 逃げるぞ、と耳打ちして駆け出した。彼女の手を引きまっすぐに走る。地下鉄というやつはどういうわけか構造がまっすぐだから、見えなくても迷わなくて済む。しかしそれは向こうも同じことで、いくらまっすぐに走っても僕らには身を隠す場所もなくて、だから見えなくても道を逸れるしかないのだ――壁が途切れて見えた刹那、僕は迷わずそこへ飛び込んだ。強引に手を引かれたルカが、急な方向転換に足をもつれさせる。


「きゃ……」

「静かにっ。いい、黙って走るんだ。撒くよ」

「そ、そんなこと」


 できるの、とか、なんで、とか言おうとしたのだと思うが、声にならなかったのは不意に現れた下り階段のせいだ。派手に転げ落ちそうになるのをお互いを引っ張りあって支えた、そのまま、危ないのは承知で何段も飛ばして駆け降り、広がる地下空間を狭い視界頼りに走り回る。壁が見えたら曲がって途切れたらそこへ入るを不規則に繰り返していく。ところが走り慣れないルカがすぐ息を上げてしまって、限界の呼吸をして足を震わすから止まらざるを得なくなった。近くに隠れられそうな小部屋を見つけ、ひとまずそこに入って休もうと決める。

 地下だから真っ暗な小部屋を胸元のキノコがぼうと弱々しく照らす。小部屋の隅にはカウンターテーブルに仕切られたさらに狭い空間があって、僕らはその足元に身を寄せて座り込んだ。ルカが生命的に駆られた動作で水筒を取り出したが、あいにく水はもうないことに気づくと脱力する。


「はー……もう、チカ、なんてことするの! 見えないのにこんな走って、案の定階段であぶなかったし、あぶなかったのに止まんないし!」

「だって逃げなきゃ。あいつ、弓矢構えてたんだぞ。殺されるとこだったんだぞ」

「ころ……っ」


 ルカが息をつまらせ噎せ返った。冷や汗の浮き出た首もとが見えて、さすがに消耗が激しいから不安になる。いやあの男に見つからないかどうかのほうが不安だが、ここで彼女がダウンしてしまえばそれこそもう終わりだと思う。ふつうなら走る機会なんて無いまま育つ。そのうえ長時間歩いて疲弊していた矢先で水もない。僕の感覚で体力を使わせるのはそれだって危険なことだった。


「大丈夫? 疲れた?」

「大丈夫なわけないでしょ。チカはなんで平気そうなの……」

「僕はちょっと鍛えてるから」

「うぅ……私も鍛えなきゃ……」

「うん。それはいいけど」


 それはいいけど、どうする? この状況。

 ひとまず彼女の呼吸が落ち着くのを息を潜めて待った。外に足音が聞こえないかと気を張っていたからそれだけでも消耗を強いられる。この地下空間一面に貼られた冷たいタイルの感触を、これなら足音は消せまいと信じるしかなかった。だが同時に僕らも音には気を付けなければならない。だって。


「あのひと……耳長族、だよね」ルカが膝を抱えてぽつりと言った。「本当にいたんだ……」

「いるよ、でも謎が多い。にいちゃんも会ったことないって。耳がいいからメガネを使わずに暮らせるって、話だけある」

「聞いたことあるよ。市場に忍び込んだとき誰かが言ってた」

「こんなとこに隠れて暮らしてたんなら、見つからないはずだよ」


 互いになるべく距離を詰めて声を潜めて話す。耳長族の耳がいいというのがいったいどれほどかわからない以上、部屋に入ったからって油断はできない。

 焦りに追い立てられている。ルカの呼吸がなかなか戻らないのは身体的な無理だけに起因してはいないだろう。体力にまだ余裕があることを考えればいま周囲を警戒しなければならないのは僕だ、その気負いがまた僕自身にも牙を向く。できるだけゆっくりと呼吸をした。できるだけ冷静でいるために。

 ところが、ふいに彼女がくすくすと笑いだしたから、僕は驚きと焦りで硬直してしまった。


「……でもこれで、シルバーランクは間違いなしだよね。新しい地下空間に、耳長族の住処の発見だよ。すごいよ私たち。やったね、チカ!」


 メキキダケが彼女の満面の笑みを最後に照らして、ふっとその光を収めた。だからか、疲れきっていても心から嬉しげだったその表情が、強くまぶたに残った気がした。呼吸が軽くなる。少し。そうだ、ここは決して絶望一色の局面ではないのだと思い直す。彼女は本当に――夢を抱いてここへ来た。

 しかしだ。それはそれとしてここで光を失うのはかなり、とてつもなく、やばい。植物に必要なのは水と光だと言うが、人間とて自然、それらがなければ死ぬ。ただでさえ緊迫した状況下、足元を支えていたものがどんどん消えてゆく感覚に奥歯を噛み締めた。


「あ、光が」

「だから一晩待とうって言ったのに」

「でもすごい発見はしたし」

「発見は一晩待ったからって逃げねえけど、メキキダケは点かなくなるだろ」

「う、うーっ……そうだけど」


 つい声を低くして抗議すると、彼女はわかりやすくしゅんとして縮こまる。その様子だって暗がりのなかのかすかな印象にすぎない。もうメガネが意味をなさないほど視界が狭いのは、今だけは霧でなく闇のせいだ。僕の胸元でまだ弱々しく灯る一本だけが命綱になってしまった。

 自らの刺々した気分をなだめるために深く息をつく。苛つくのは疲労と焦燥のせいであって彼女のせいではない。責めるよりもやることがある。


「とにかくここを出ないと……水もキノコも要る。耳長族に見つからないように出口を探すんだ」

「ど、どうやって……」

「わかんないけど、休んでても出口は見つからない。進むしかない」


 暗がりにみたび彼女の手を握って立ち上がる。壁づたいに、慎重に歩き出す。彼女はすっかり肩を落として大人しく従った。ただ僕のより少し小さな手が緊張で冷たくなっていた。


「ねえ……チカは怖くないの?」


 抑えられた、というよりも素のままで蚊の鳴くような声が耳を掠める。僕が足を止めると気づかなかった彼女の肩が背にぶつかったが、気にしなかった。


「なんだよ。こっちの台詞だよそれ。この状況でランクアップを喜んでいられるんだから」

「私はただ、冒険できたのが嬉しいから。怖いのは怖いよ。チカは、その、なんか冷静っていうか」

「だって、」


 冷静ではない。冷静でありたいだけだ。


「ルカがへばったら困るよ」

「え」

「だから僕が。君を誘ったのも疲れさせたのも僕なんだから、しっかりしないと……」


 言うと、彼女が黙ったから、もう話は終わったものと思ってまた足を進めようとした。しかし手を引かれ止められて、何、と思って振り返る。表情は見えない。

 彼女がいつまでも何も言わないから、不安になってどうしたのと声を出した。疲れて動けないなんて言われたらマジでどうしよう、とよくない想像が脳裏を走って肩がこわばる。が、それも束の間、漏れ聞こえたかすかな息遣いに動揺した。――また泣いてる? なんで?


「る、ルカ……? ごめんその、責めたつもりはなくて……いやちょっとはあるけど、そこまでじゃなくて、とにかくなんとか出口を探してみるから」

「ごめんなさい」


 遮るように紡がれた。わりあい、はっきりした声だった。

 なおさら当惑して、僕は言い訳を連ねようとする。


「え、だ、だから責めたつもりは、」

「私、自分のことしか考えてなかったんだ。冒険したいとか、発見がうれしいとか、疲れたとか危ないとか怖いとか、それってぜんぶ私のことで。チカは私のために頑張ろうってしてくれてたのに……だから、ごめんなさい」


 話すうちに体温を分かち合って冷たさをなくした手が強く握られた。いまやそれくらいが僕らに残された対話の方法だ。だけど何が言いたいのかは僕にはあんまりわからない。突然謝られて反省されてもさっぱりだ。僕はただ彼女の意思に吸い寄せられてついてきたから、彼女が彼女のことを考えるのを自然で大切には思えど間違いとは思えない。彼女が反省すべきは行動の無鉄砲さでしかない気がするのだけど。


「私も探すね。ちゃんと力になる」

「お、おう……?」

「行こう」


 ともあれ彼女が元気になったからいいやと思って歩き出す。小部屋の出入り口を音の出ないよう慎重に抜け、しんとした地下空間におのおの耳をそばだてながら壁を伝ってどこかへ向かう。

 息を殺して、足音を殺して、自分の鼓動や髪の揺れなんかがはっきり聞こえるくらいになって、不安になるほどの静寂に、ほとんどゼロの視界をもて余して進む。とうに時間の感覚がない。無心に歩いて、光や風がどこかにありはしないかとそれだけを考え続ける、あるいは逃避したどうでもいい事柄なんかも浮かんでは過ぎていく。離れないよう握った手を意識できなくなったのは、長く繋いで温度が等しくなったから。僕らは闇を彷徨うただ一匹の瀕死の虫になる。

 すぐに限界が来た。きっかけなんて大層なものはなくて、不意に歩調が緩んでそのまま足が止まって蹲る瞬間が来た。僕のそれは自然にルカにも伝播して、どこだか知れない地下空間の冷たい壁際にぺたりと背をつけ並ぶ。


「……どうしよう」


 こぼした自分の声の掠れに驚いた。そういえばすごく喉が乾いていると気がついて、水がないことを思い出す。ため息をつく気力も闇に削がれてしまって、朦朧と瞼を閉ざした。


「……チカ?」


 彼女の声が静寂を割いて、なんだかとても安堵した。


「なに」

「良かった、疲れて寝ちゃったかと思った」

「うん、ちょっと寝そうだった。やばいな」

「見つからないね……出口。誰もいないみたいだし……なにも聞こえない……」

「二人で行き倒れか? こんなとこで……誰にも見つからないだろうな」

「やめてよ、不謹慎」

「ごめん、でも、あのさ」

「どうかした?」

「話しながら行こうよ。危ないかもしれないし体力も使うけど……でも……」

「そうだよね。行こう、なんて言いながら」


 よろよろと、互いを杖がわりに立って、掠れきった対話がはじまる。好きな食べ物とか、フクロウやコウモリのこととか、なるべく他愛もない話題を選んでとつとつと繋ぎ歩く。息を殺して闇を行くなんてもうまっぴらごめんだ、正気の沙汰ではなかったのだ。こうしてしゃべっているだけで、体力の消耗は早いはずなのにまだまだ足を進めてもいいような気がするから不思議だった。

 僕らにはもう静かでいようなんて余裕がなくて、だから複数の足音が一目散にこちらへ向かってきたときも驚きはしなかった。出口が見つからない限りは殺されたっておんなじだ。そう諦めてもいたから。


「いた! やっと見つけた!」

「まだ子供の声だったぞ」

「どこから入ってきたって?」

「線路」

「そんなところに抜け道が?」


 いろいろ騒ぐ声がして、音に慣れない耳がきんと痛んだ。

 そうして、僕は、何を考える暇もなく、ほとんど無意識に衝動的に、膝をついて叫んだ。


「たすけてください」


 つられたルカが隣で転びそうになって踏みとどまる。


「なんだなんだ……迷子か? 冒険者じゃないのか?」

「迷子の冒険者ですけど、水がなくて……出口が見つからなくて……」

「ただの迷子じゃねえか」


 ひとり、歩み寄ってくる気配がして、力強く腕を引かれ立ち上がった。暗がりでなにも見えやしないが、彼らは不自由なんてこれっぽっちも無いかのように動いている――耳長族。霧に閉ざされた世界で唯一のほとんど自由に動ける種族。しかし彼らは僕らよりももっと閉ざされた環境にひっそりと暮らしているらしく、真相は謎に包まれている。


「迷子二匹、村に連れてくぞ。あと誰か水をわけてやって」

「はいよー」

「あ、ありがとうっ……」


 ぽんと与えられた水筒を、歓喜してまずルカに手渡す。彼女がしっかりと受け取ったのを感触で確認すると、そこでどっと全身から力が抜けた。

 あぁ――良かった――

 意識が途切れた。

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