第3話 妹

 妹がいなくなって、僕の生活はさらにすさんだものになった。一日の大半を寝て過ごし、誰とも喋らない日々が続いていた。日記には、毎日死にたいと書いていた。


***


 妹が家に帰って来たのは、それから数か月後のことだった。何があったのか僕は知らなかったし、親も僕には何も言ってくれなかった。学校に行かなくなって以来、親はずっと僕のことを無視し続けていたが、食事だけは準備してくれた。


「夕飯、食べる?」

「〇〇置いといたから」

「出かけるから」


 ドア越しにそんな声が聞こえてきた。

 その声が父の時もあり、母の時もあった。僕は声を掛けてもらえることが嬉しかった。話しかけられることで、二人から少しは許されているような気がしたからだ。ただ、僕が学校に行かないことを責めると言うより、他のことに気を取られている感じだった。もしかしたら、それは妹のことなんじゃないか。病気かもしれないと思い始めていた。



 妹が帰って来たのは、平日の午後だった。日付は覚えていない。僕自身に曜日の感覚がなくなっていて、今日が何日かはテレビを見て気が付くような生活になっていた。


 その日。家の前の道路で車のドアがバタンとしまる音がした。窓越しに覗くとタクシーが止まっていて、母と妹が下りて来た。妹はスエットの上下で、ごわごわの髪を後ろに束ねていた。以前より、ちょっと野暮ったくなっていた気がした。しかも、すごく痩せて見えた。

 妹はもともとすごく外見に気を遣う子で、そんな恰好で外に出ていたことが信じられなかったし、がりがりに痩せているのも心配だった。入院していたのかもしれない。


 それから、二人はずっと一階にいたみたいで、父親が帰って来てからは下から両親の笑い声が聞こえて来た。すごく、わざとらしい笑い声だった。僕が不登校になってからは、両親はそんな風に笑ったことがなかった。妹に気を使っているみたいだけど、何があったんだろうか?


 僕は妹が上に来るのを今か今かと待っていた。しかし、妹が上がって来たのは夜になってからだった。階段を上がりながら話す、母の声が僕の部屋にも聞こえて来た。わざと明るく振舞っているのがわかった。


「部屋で寝る?一緒に寝よっか?わかった。部屋は全然触ってないよ。怖くなったら、来ていいからね」


 妹の返事は聞こえなかった。どうしたんだろう?あんなに明るくていい子だったのに。


 妹の部屋は僕の部屋の隣だった。


 それから、しばらく妹の部屋は静かだった。僕は妹が隣にいることで、ちょっと緊張していた。妹を異性として意識していたのかもしれない。


***


「キャーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!」


 12時を回った頃、いきなり叫び声が聞こえた。

 僕はびっくりして、一瞬固まった。


「助けて!殺される!」


 殺されるって?妹は部屋に一人のはずだった。

 僕はすぐさま壁に耳を当てた。


「お前、なんか××××なんだよ!」

 女の人の野太い声で、誰かを罵倒する声が聞こえ、最後には「もう、殺してぇぇぇ!!!」と、裏返った声が聞こえて来た。神経を逆なでするような感じだった。


 部屋には妹一人しかいないはずだから、妹は見えないはずの何かに向かって叫んでいるんだ。


 僕はあっけに取られていた。妹は精神的におかしくなってしまったんだ。

 あのかわいい妹に何が起きたのか、想像もつかなかった。

 隣の部屋にいるのはかわいい女の子じゃなくて、気が狂った女の人だ。ずっと猿のように叫んでいた。しかも、猿みたいにかわいくない。凶暴で何をするかわからない。


 人間が狂うとあんな風になるんだという恐怖を感じさせた。


 妹が家に帰って来た時、僕は親が寝静まってから妹の部屋に行ってみようと思っていた。僕が尋ねて行ったら、妹が前と変わらず笑顔で受け入れてくれる光景が脳内で繰り返し流れていた。何と声を掛けたらいいのか…。僕は妹に嫌われないように、何と言ったらいいかずっと考えていた。


 しかし、そんなのは幻想だった。妹も一日中、部屋にいた。昼は寝ているようで静かだった。


 廊下に二つお盆が置いてあった。

 その上には食事と水が並べてあった。


 一つの家に引きこもりが二人もいる。


 今考えたら、ちょっとおかしくなる。


***

 

 妹は毎晩大声を出して叫んで暴れるから、夜中、家にパトカーが来るようになった。


 妹が戻ってからすぐ、夜中、妹が叫ぶと近所の人がうちのインターフォンを鳴らすか、警察を呼ぶのが当たり前になっていた。僕は他人事ながら、毎晩、ハラハラして眠れなくなっていた。妹の叫び声もストレスになっていた。裏返った叫び声。そのたびに、胃がシクシクと痛んだ。


 その夜も妹が夜中に叫んでいた。


「ほんと申し訳ありません」

 インターフォンで外に出た母親が近所の人に頭を下げていた。僕はカーテンの隙間からその様子を見ていた。

 声を聞くと泣いていたと思う。

「大変なのはわかりますけどね、夜中なんですよ!明日仕事なのにこんな時間に叫ばれたら寝れないじゃないですか!どうにかしてくださいよ!」

 隣のおじさんだった。前は優しくて僕と妹にお菓子をくれたりしていた。


「すみません」

「気の毒だけど、精神病院とかに入れた方がいいんじゃないですか?」

「今探してますから…」

 母親は泣きながら何度も頭を下げていた。

「今探してるって言ったって、今うるさいんだよ!家族なんだから責任があるでしょう!?」


 毎晩、近所の人に責められて、この頃の母はノイローゼ気味だった。よく父親と怒鳴り合いの喧嘩をしていた。その度に「こんな家族嫌!」、「私も死にたい」と叫んでいた。


 すると、向かいの家から、おばさんが飛び出して来た。

 はーっ。僕は母親がこてんぱんにやられることを覚悟した。


「あんたの声の方がうるさいよ!何時だと思ってんだよ!」


 おばさんが、隣のおじさんに向かって怒鳴り始めた。


 あ。僕はほっとして泣きそうになった。

 パジャマの上にセーターを羽織っていた。

 わざわざ出てきてくれたんだ。

 久しぶりに見たけど、昔からいい人だった。


「英子ちゃんがあんな目に遭ったのに、よくそんなこと言えるね!あんた、それでも人間か」

「そりゃわかってるけど、寝れないと仕事にならないんだよ!みんな大変なんだからさ!近所迷惑にもほどがあるよ!毎晩、毎晩、うるせーんだよ!」

「本当に申し訳ありません」

 母はひたすら頭を下げていた。

「英子ちゃん、今も苦しんでるんだよ。それをわかってあげないとさ。耳栓でもして寝ときなよ!」

「睡眠薬で眠らせるとかできないの?」と、おじさんが提案する。

「薬は飲んでるんですけど。夜になると思い出してしまうみたいで。怖くて眠れないんですよ…」

「もう、斉藤の息子は捕まってるから大丈夫だって言ってやんなよ!」おじさんが心配したように言った。

「言ってるんですけど…何度も思い出してしまって」


 斉藤の息子?


 僕ははっとした。斉藤さん、って…。近所に斉藤さんという家があって、お使いで何度か行かされたことがあった。二十代の息子がいるけど、働いていないと親が言っていたんだ。外で何度か見かけたことがあったけど、柄が悪くて怖かった。クビに金色の喜平ネックレスをしていた。でも、ヤンキーと言うより、変な感じがする人だった。よく、外で煙草を吸っていて、通りかかった人をじろじろ見ていた。僕もたまにすれ違ったけど、怖かった。母が妹に斉藤さんの息子は変だから気を付けるんだよと言っていたことがる。


 あの人と妹の間で何かあったんだ。僕は確信した。それは多分、悪戯とかそういうことなのだろう。妹があんな変な人と付き合うはずがない。あんな汚い低俗な人間が英子のような穢れのない美女を犯すなんて。学校帰りに被害にあったに違いない。


 はらわたが煮えくり返るほどの怒りを感じて、僕はそいつを殺してやりたくなった。


 妹は外がうるさくなると静かになる。近所から苦情が来ていることがわかっているようだった。


 母と近所の人たちはしばらく道路に立ったまま、ああだの、こうだのと話し合っていた。いなくなると騒ぎだす。それが毎回だった。

 

 僕は今すぐ隣の部屋に行って妹を慰めたかったけど、変わり果てた妹に掛ける言葉がなかった。


***


 妹は毎晩深夜に騒いでしまうので、近所から苦情が殺到している。とてもその家にはいられなかった。


 両親は妹を諦めきれなかったんだろうと思う。僕たちは引越すことになった。でも、家は持ち家でまだローンが残っていたし、父親が公務員だったから、母親と僕と妹の三人だけ別のところに行くことになった。


 僕たちの家は〇〇県の〇〇市というところにあって、県庁所在地ではないけど県で二番目くらいの規模の都市だった。父親はそこの市役所に勤めていたから、もし、父親が一緒に暮らすなら、引越すとしても市内か周辺に限られる。しかし、市内で部屋を借りてとなると、父の給料では難しかったのかもしれない。母親は働けないし、住宅ローンの他に家賃は払えなかっただろう。


 結局、僕たちが越したのは母の実家だった。母の実家は大きな農家で隣とかなり距離があった。しかも、山の斜面に建っていて、車がないと行けないような辺鄙な土地にあった。


 そこでなら妹がいくら叫んでも大丈夫かと言うとそうではなかった。隣は遠かったけど、山の中だったからやまびこのように反響して、むしろ怪獣のように思えてしまった。


 僕はいじめがあったことを忘れて、田舎の学校に通い始めた。先生も僕が不登校だったことを他の生徒には言わなかった。田舎だから、各学年一クラスしかなく、すごく閉鎖的な空間だった。妹も転校したけど、病気だからということで学校には通っていなかった。


 でも、僕はそこではいじめに遭わずに済んだ。

 その学校が嫌いだったけど、いじめがなかったら後はどうでもよかった。


***


 気が付くと、僕はわずか半年くらいで大好きだった人たちの大半を失ってしまった。おじいちゃんの家に行く車の中で考えていた。


 おじいちゃんが車で迎えに来てくれたのだけど、くねくねした坂道を上がっていくので、酔ってしまった。山々の緑が目に染みるほどに濃かった。僕もその土地に埋もれてしまいそうな気がした。


 僕が失った物。


 将来、夢、希望。


 学校の友達全部。


 部活の先輩と顧問の先生。


 父。


 母。


 いもうと。

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